かしこ

北に住む亀

第1話 5月13日 「日記、はじめました」

五月十三日

 ええとお母さんは、今日から日記をつけることにしました。五十にもなって今さらという気がしないでもないですが、人生の区切りに良い機会かなって。日記なんて子供の頃以来だから、なんだか緊張するわね。本当は格調高い文章で書いてみたいのですが、お母さん馬鹿だし小難しいのは苦手です。なので、いつも話す感じで書くことにするわ。


 きっかけは市民講座の先生にすすめられたからです。「わたしの歴史」。よくある自伝を書きましょうって講座ね。お母さんもあんまり興味は無かったんだけど、向かいの博美さんに「一緒に行きましょう」って誘われて断れなくてね。趣味らしい趣味もなかったし、ちょうど良いかなって。でも参加したのはいいけれど、まともな文章なんてここ何十年も書いてなかったから、「もうダメ、無理」と思って講座を辞めようとしたの。そしたら先生が「いきなり書ける人はいませんよ。英子さんは、まず日記で書く習慣をつけてみませんか」って。男の人に「栄子さん」なんて言われたの久しぶりで、ついつい「はい」なんて答えてしまったのよね。でも先生けっこういい男なの。彫りが深くてスラッとしてて、昔の俳優さんみたい。アラン・ドロンなんていっても知らないわよね。前置きが長くなっちゃったわね。いい歳して日記なんて、やっぱり照れくさいんだもの。


 形式はいろいろ考えたのですが、先生が「日記とはいえ独りよがりはいけません。誰かに読まれることを意識して」と言っていたので、真に向けて書くことにしました。お父さんはアレだしね。やっぱり一人息子宛に書くのが一番いいのかなって。でもあくまで“真に向けて”という体なので、この日記は絶対に誰にも見せる気はありません。もちろんあなたにも。死ぬ前には、ちゃんと処分するつもりです。あんまり日記っぽくないかしら。まあ無理しても仕方ないので、肩肘張らず、ほどほどに続けてみるつもりです。

 ごきげんよう、かしこ(この締め使いたかったのよね)。

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