いつかの友達

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いつかの友達

 バイクは我が物顔で、五月晴れの下、青葉の濃厚な匂いが漂う山道を駆ける。

 走り始めてから一時間くらいが経ち、燃料インジケータもそれなりにガソリンが消費したことを示している。アクセル、クラッチ、ギアシフトなどの操作。カーブでの体重の移動。バイクのレスポンス。排気音、タイヤとサスペンションの感覚、走行中の車体の振動や風圧。諸々のマシン特性や走行感にある程度慣れた今、直也は初めてバイクとの一体感を感じられた。うねうねと曲がる山道を攻めているのは自分かバイクかわからなくなる。ただ、スピードの貴族的な気分、走りに対するアグレッシブな気分を感じているのは間違いなく自分だとわかっていた。

 矢印と「五重の塔 3km」の表示が、目的地が近いことを告げる。三叉路を左に折れると、一直線のなだらかな道が広がる。直也は、クラッチを切り、ギアをサードからトップにシフトする。アクセルを開く。排気音が高鳴り、Gが身体を貫く。視界が狭まり、新しい世界が拓ける。

 すっかり調子づいた直也はレーサー気取りで直線の終わりのカーブに飛び込む。スピードを出しすぎていたことに気づいたときにはすでに遅かった。大きくセンターラインを越えてしまったバイクは、もはや対向車のRV(レクリエーショナル・ビークル)を避け切れない。直也は対向車をまったく想定していなかった。山道に入ってから対向車に出会ってないことが、直也を油断させていたのだった。けたたましいクラクションの音を聞いた次の瞬間、バイクはRVのヘッドライトに斜めから激突した。


   *


 明のバックアタックにより放たれた矢のようなボールが相手のブロックを弾き飛ばし、大きく跳ね上がった。そのボールは、ちょうど樹のいるギャラリー席まで飛んできた。ボールをキャッチした樹は、ちょっぴりドキドキしながら、ボールをコートに向かって投げ返した。

「こりゃあ、一年が勝つな」

 いっしょに観戦している浩二が言った。

「ああ、明がいる限りはな」

 明はボールを宙にトスすると、ジャンピングサーブを放った。まるで全身が弓のようだ。スパイク同然のボールが相手のコートに落ちるや否や黄色い歓声が上がった。同点まであと一点。三年の顔に焦りが見える。

「なあ、最後まで観る気か?」

 功が二人に訊いた。

「僕はどっちでもいいよ」

 浩二が言う。樹はあえて反対しない。

「じゃあ、浩二の家に行こう」「了解」

 樹が二人に続いて、フロアへ下りる階段に向かって歩いているとき、熱心に観戦している康子の横顔が飛び込んできた。一段と大きくなる明コール。はしゃいで手を叩く康子。彼女の視線の先には明がいるだろう。樹はチクチクと胸を刺す嫉妬を感じた。


「じゃあ、俺、そろそろ帰るわ」

 樹は何度目かのテニスゲームを勝利で終えると言った。

「そう言わず、もう一試合」と懇願する浩二に樹は「また、明日」と言って、浩二の部屋がある離れを出た。

 一二月の冷たい夜気に樹はブルッと震えた。ジャンバーを着てくるんだった、と後悔する。

 夜道、自転車を漕ぐ。過疎化が進みつつある田舎のストリートは、もはや自分の家の庭のような、ありきたりのありきたりのありきたりの風景だ。郵便局の脇の道を抜け、川沿いの「自転車ロード」を走る。真っ暗な夜道を一人で走っているせいか、どこか感傷的な気分になってきた。樹の頭に焼き付いているのは、目を輝かせて応援している康子の横顔だった。康子とは中学までは普通に話せた間柄だったが、今となっては、随分と距離ができたように思えた。康子は勉強もよくできたし、学校の行事にも積極的に参加している。そして何よりも日増しにかわいくなっているように見えた。彼女の高校生活は輝かしいものに思えた。片や、樹は自分が日陰者というか地味なポジションにいることを今更ながら意識した。成績は中くらい。部活には所属していない。容姿は一〇人中二人くらいはカッコいいと言う程度(特に根拠があるわけではなかったが)。制服は標準ではなかったが、反抗的でもないし、優等生でもなかった。樹は個性がないこと以外に自分に個性というものがないように思えた。

 樹はそんな自分を敢えて変えようとは思わなかった。それが自分だから仕方ないと思っていた。それに今の自分が悲惨だと思ったことはなかった。友達は少ないがいたし、いじめにも遭ってはない。しかし、漠然とした不満があるのは事実だった。それはそうした自己イメージに落ち着くことへの不満ではないか、と今樹は思った。康子のあの眼差し。今の俺にあんな眼差しが注がれることはないだろう。

 橋に差し掛かったとき、樹は突然、目の前に人影が現れたことに気づいた。慌ててブレーキを握る。その瞬間、パッと視界が明るくなり、一瞬、凄まじい眩しさに目が眩んだ。

「誰だ?」

 樹は高校生と対峙していた。自分とよく似た背格好で顔もどことなく似ていた。暗闇の中で彼の周りだけは白い明かりで囲まれていた。

「はじめまして。S高校一年の藤井直也です」

 S高校と言えば、S島の北部の市に位置する高校だった。H町からは三〇キロくらいの距離がある。それにしても、こんなところで何をしているのだろう。

「何か用?」

 樹は突き放したような口調で訊いた。

「俺が君の悩みを解決してあげるよ」

「はぁ? 何の話だ?」

「君は今日、佐藤明に熱い視線を送っている渡辺康子にショックを受けた」

 藤井直也という奴はしたり顔で言った。

「な、なぜそれを?」

 樹は早まる鼓動を抑えるように胸に手を当てながら訊いた。

「これからは俺がついている。俺が君の高校生活をプロデュースするよ」

「バカな。何を言っている」

 次の瞬間、少年は消え、暗闇が戻った。


 翌日の体育の時間、樹は昨夜の出来事が夢ではなかったことを思い知った。

 授業ではバスケをやったが、樹の最も苦手とする球技だった。樹はチームの中でほとんど戦力になってなかった。ところが、シュートのリバウンドを拾った樹はありえない動きでシュートを決めたのだった。その直後、周りの奴らは先生も含めて呆然とした顔を並べ、プレイが一時中断した(樹は自分でもどんな動きをしたかわからなかったが、後で聞いたところそれはターンアラウンドショットと呼ばれる高度な技という話だった)。樹はその後、ボールを回されるようになったが、すべて的確なプレイでチームの勝利に貢献した。

 体育が終わると樹は「バスケそんなに上手かったっけ!?」といろいろな人に聞かれた。樹は「たまたまだよ」と答えることしかできなかった。

 その日の六時間目の情報処理の授業のとき、樹は直也と話すことができた。

 樹が課題のHP(ホームページ)の作成をしているとき、樹の意志に関わりなく、両手がマウスとキーボードを操作した。テキストエディタを開き、文字を入力し始めた。


やあ、直也だ。

「やあ」と樹は次の行に入力した。

どうだい。ヒーローになった気分は?

どうって、戸惑うよ。

最初だからな。軽くプレイさせてもらったよ。

とにかく、ほどほどにしてくれよ。

悪いようにはしないよ。

頼むよ。


 樹は不思議と直也の存在に違和感がなかった。これだけで、直也が昨日言っていたことが、本当だと早くも信じられた。論理的には警戒すべき相手だということはわかったが、妙な安心感もしくは親近感があったため、平静を保てたのだった。


   *


 直也と一体になって以来、樹は着実に変わり始めた。スポーツでは、もはや足を引っ張る存在ではなく、その逆になっていたし、期末テストでは今までは最高で二一位だったが、初めて学年八位に入った。

 一カ月が過ぎた頃には、樹は直也と文字通り以心伝心の間柄になっていた。直也はバイクの事故で病院に入院していて、植物状態にあることを話した。その情報は、樹に留保のない同情の念を生じさせた。今までは直也に利用されているような気がしていて、たとえスポーツで活躍できても、「身体を貸してやっている」という意識を払拭できなかったが、それ以来、樹はむしろ積極的に直也に身体のコントロールを任せた。勉強については、試験では多少は直也の力を借りることもあったが、基本的に樹の独力だった。運動は別にいい。だけど、勉強は後々、独りでやることになるから俺は手を貸さない、というのが直也の意見だった。その意見を意気に感じた樹は、勉強でいい成績を取ることが直也のスポーツでの活躍への報いになるように思ったのだった。

 要するに二人は手に手を取り、快進撃を続けてきたのだった。浩二と功からは距離を置かれるようになった。例えば、もう放課後のゲームには誘われなくなったし、昼休みいっしょに飯を食っていても、会話に入り込めず、自分だけ取り残されることがあった。しかし、クラスの皆とよく話すようになり、樹は特にグループに属したいとは思わなかった。グループに属さなくても、孤立とは逆の立場になっていた。


   *


 冬休み明けの生徒会の選挙では、樹は副会長候補に推され、ついにメジャーな存在になった。

 演説はすべて直也任せだったが、直也は上手いことを言ってのけた。その前の責任者・浩二の「責任感が強く、信頼を裏切らない」などといった決まり文句を並べただけの無味乾燥した演説を帳消しにする演説だった。

 直也は落ち着いた声で三百人強の全校生徒と全教師を前に語りかけた(もちろん実際に言ったのは樹だったが)。

「さて、皆さんは高校生活に満足していますか? 高校生活は限られています。三年なんて、ぼんやりしている間に終わってしまいます。不満を感じている人、完全燃焼したいと思いませんか? 不完全燃焼のまま高校生活を終わらせていいんですか? 僕に言わせれば、それは罪に値します。やりたいことが見つからないから、努力が嫌いだから、ただ居心地が良ければそれでいいなどと考えて、ぬるま湯のような現状を肯定している人もいるでしょう。しかし、僕は言いたい。もっと冒険をしよう、と。冒険心は若さの特権です。リスクを冒しましょう! 出たとこ勝負で行きましょう! 高校時代とはそんな冒険が許される時期です。守りに入るには早すぎます。失敗を恐れないで。結果がどうであれ、チャレンジすることは、しないで事なきを得るよりも、長い目で見れば財産になるのではないでしょうか? 話が飛びましたが、生徒会とは、基本的に影のようなものであり、皆さんのよりよい高校生活をサポートするためのものだと認識しています――」

 樹は「そうだ。まったくその通りだ」と心の中で頷いていたので、途中から自分で言っているようにも思えたのだった。

 その演説が終わった後、樹は原付で一時間近くかけて、直也が入院している病院に向かった。病院に着くと、ナースステーションの若い看護師が、病室まで案内してくれた。意外なことに病室には直也の親も誰もいなかった。直也は「そりゃあ、こんなになったら、付っきりでいるわけにはいかないでしょ」と言った。樹が友達であることを告げると、看護師は病状を話してくれた。

「まだ若いのに可哀想にねぇ。でも、意識はあるのよ。植物状態の人のことは現代の医学ではまだまだ謎に満ちているけど、突然目覚めることも珍しいことじゃないのよ。わたしたちとしては、いつか目覚める日を期待して世話を続けるだけね。あなたも彼が目を覚ますことを祈ってね」

 樹は神妙な顔をして聞いていたが、直也がこの看護婦は医者と不倫しているとか、夜の病院でいちゃついているとか言うのを聞いていると、話が耳に入ってこなくなった。樹は変な気を起こしそうになり、慌てて看護師から目を逸らして、殺風景な部屋の中を見回した。

「じゃあ、ごゆっくり」

 看護師は、黙って窓の方を向いている樹に向かって声を掛けると、部屋を出た。樹は改めて直也を見た。よくテレビなどで見るままの痛々しい「生かされている」状態だった。さて、どうしたものか、と思う。こうして向き合うと照れてきた。直也は無言のままだった。

「きっと、目覚めても身体はまともに動かないだろうな」としばらくしてから直也が言った。

「リハビリすれば大丈夫だろう」

「……そうかもな。さあ、もう満足だろう」

 直也はそう言って、部屋から出るように樹を急かした。

「まだ来たばかりだろ」

 樹はそう言ったものの、男同士でこうして二人きりでいるのも決まりが悪かった。ただ、いつも華麗なパフォーマンスを見せる直也と目の前の直也とのギャップに戸惑いを感じていた。予想はしていたことだが、本当にこういう状態にあるのを目の当たりにすると、言葉を失ってしまう。直也が樹を部屋から出したがるのは、そういう自分の感情を察したためだろう、と樹は思った。

「直也には俺がついてるよ」

 樹は最初出会ったときに直也に言われた科白をそのまま返した。

「お前なんて……。お前に言われたくないよ。俺はただ、お前のような奴が歯痒かったんだ。五体満足で好きなことしていられるのに、ウジウジしてるような奴がさ。それに俺としては、もっと高校生活を満喫したかったし。要するに、お前は格好のカモだったわけだ」

「そうか。まあ、何はともあれ、これからも頼むわ」

「ああ……。俺も男だからな。言ったことは最後までやり遂げるよ」

 選挙は結局、C組の立候補者が当選したが、樹は演説の日の翌日から一週間以内にラブレターを三通ほどもらった。内容はどれも似たり寄ったりで、「演説に感動しました」とか「勇気をもらいました」などと書いてあった。その内の一通には、具体的な場所まで指定して放課後に会って欲しいと書いてあった。その場所とは、図書館の奥の方で、誰も行かないような場所だったので、よく考えたなぁと樹は感心した。手紙の主については、ある程度は知っていた。すなわち、バスケ部に所属していること、小柄な体格であること、隣町の出身であることを知っていた。

 直也はこのことについて何も言わなかった。樹自身、どう対応するか決めていたし、直也もそのことに異存がないからだろう、と樹は思った。

 しかし、こうしたことに不慣れな樹は予想以上に苦しんだ。別に悪いことをしているわけじゃないと自分に言い聞かせたが、割に合わないという思いを拭えなかった。相手の子は、紛れもなく自分に舞い上がっていて、自分と話すことに幸せを感じていることが痛いほどわかったが、その子の意に添えないのは辛かった。自分で「リスクを冒せ」と言っておきながら、リスクを冒した人間に報えないことも心苦しさの一因だと樹は分析した。

「何とか言えよ」

 胸の悪い思いを抱えながら、帰宅するべく、自転車を漕いでいるとき、樹はだんまりを決め込んでいる直也に向かって言った。

「いちいち悩むなよ」

 直也はやれやれと言った調子でようやく口を開いた。

「まあ、モテない君のお前にはちと辛かったかもしれないが、これからこういうことは日常茶飯事になるぜ。お前はある意味、俺だからな。覚悟しとけよ」

「嫌だな。こういうことは」

「だったら、早く彼女をつくれ」

「まあ、待て。もう一つ男を上げさせてやる。取って置きの計画があるんだ」

 直也は樹が言葉にする前に思考を読んで言った。

 直也の計画とは、球技大会で康子の面前で明を倒すというものだった。それには樹も熱いものを感じた。球技はバドミントンがいい、一対一だからより劇的だ。しかし、明がバドミントンに出るかな? そこは何とかするよ。明に勝つには、放課後、練習する必要がある。これからは町の体育館で社会人に混じって、練習するように、と直也は言った。


 こうして、打倒明という目標ができたところで、樹は晴れやかな思いになれたが、翌日の放課後、思いがけないことが樹を待ち受けていた。

 帰り際にガラの悪い三年生に掴まったのだった。全部で三人。友好的なアプローチではないことは目つきでわかった。

「おぅ、お前、ちょっと付き合えや」

 眉の細い、カマキリを思わせる顔の奴が言った。直也は言われるとおりにしろというような雰囲気を醸し出していた。樹はカマキリの先導で学校から徒歩で五分くらいの場所にある神社に連れて行かれた。残りの二人――中年男のような風体の奴と身長一五〇代の小柄な奴――が樹の後ろを固めた。五人とも無言のまま神社の石段を登る。こんなことになったら、以前の俺はちびってただろうな、と樹は思った。

 幸か不幸か神社には誰もいなかった。カマキリは煙草を取り出して、百円ライターで火を点けた。

「何か用ですか?」

 寒々とした境内を前にして、樹はカマキリに訊いた。

「うん」

 カマキリはそう言うや否や咥え煙草ですばやくパンチの仕草をした。拳は樹の顔の前で寸止めされた。それから、煙草の煙を樹の顔に吹きかけ、言った。

「別に用はないんだけどよぉ。気に入らねぇんだ。そう思ってる奴は俺だけじゃねぇ。というわけで、上級生としては指導しなけりゃならん」

 カマキリはそう言うと、顔を近づけて来て耳元で囁いた。

「お前、でしゃばりすぎなんだよ。優等生の分際で。これは忠告だ。制服を標準に戻せ。さもなくば、不幸なことが起こるぞ」

 カマキリはねちねちしたいやらしい誰かをまねしたような口調で言うと、ニヤリと笑った。それから、煙草を捨てて、手下に目配せすると来た道を戻った。

「おい、猶予は一週間だ」

 カマキリは石段の手前で振り向きざまに樹を指差して言った。


「あんな奴の言うこと聞くことはないさ。しかし、えらく時代がかった奴だな。お前の高校にはまだあんな昭和っぽい奴がいるんだ。ちょっと驚いたよ」

 直也は笑いながら言う。しかし、樹は直也よりも深刻に受け止めていた。もし直也がいなかったら、俺はきっとビビリまくっているはずだ。直也がいない俺なんてまるでドラえもんのいないのび太のようなものだ。直也はすぐに樹の思考を読んで、樹をからかった。

「そうだよ。のび太。今頃、気づくなよ。ハハハ」

 直也の高笑いが樹の頭の中に響いた。樹は否定できなかった。

「深刻に考えるなよ。ギブアンドテイクで行こうぜ」

 ギブアンドテイクか。そうだよ。直也のおかげで俺は一躍、メジャーになれたんだ。不良に絡まれるのは、その負の側面だ。女の子を袖にするのもそうだ。こういったイベントは以前の俺なら決して出会うことはなかった。直也のおかけで新しい世界にアクセスできるようになったんだ。

「なぁ、俺は別に恩義を着せるつもりはないから。俺のおかげだなんて思わないでくれ」

「だけど――」

「誰が俺の存在を証明できる? 誰もできないだろ? だったら、勘定に入れる必要はないよ。もう一人のお前だと思えばいいじゃないか」

 樹は直也の言うことに反対しなかった。確かにそれは好都合な考え方だった。そう考えれば、すべてが自分の実力ということになり、順風満帆の高校生ということになるのだ。

「そうだよ。紛れもなく、お前の実力だよ。俺はお前で、その逆もしかりだから」

「……安心しなよ。俺は直也を追い出したりしないから」

 樹は直也が恐れていることを知っていた。それは自分ではなにもできないという無力感に陥ることだった。無力感が直也を追い出したいという思いに発展することを直也は恐れているのだと樹は考えていた。一方、樹は直也に身体をのっとられることを危惧していたし、そのことに直也は当然気づいていると思っていた。お互いに決して言葉に出したことはないが、その二つの危惧は、密かに深い部分で対立していたのだった。

 今、樹は初めてそのことに直接に言及したが、それは、今ならそうした対立を乗り越えることができると確信したからだった。

「その言葉、信じるよ」

 直也がそう言うと心地よいバイブレーションが樹の脳内に流れた。


 その夜の深い時間に樹は独りで考えた(深夜は、直也も寝ていた)。

 高校での評価などそれほど重要なことではない。自分の実力以上の評価を受けているとしてそれがどうした。それは結局、虚栄心のみにかかわることだ。今や高校生活は外部の世界になった。自分の世界は、直也との世界だ。


   *


 やがて球技大会の日が来た。樹の中では、康子の目の前で明を破り、康子への告白に弾みをつけるという計画へのコミットメントにいささかの揺るぎもなかった。思えば、康子の注目を浴びたいという思いが、直也との接点になったのだ。そういう意味で、今回の勝負は一つのマイルストーンになるだろう、と樹は覚えたての英単語を使って考えた。

 直也は向かうところ敵なしだった。計画通り決勝戦では明と当たった。

 樹は観客の中に康子の姿を見つけた。彼女はコートのすぐ傍にいた。表情がわかるくらいの距離だ。康子とコートを挟んで向こう側には、絡んできた不良たちがいた。カマキリは樹と目が合うと、中指を突き立て「ファックユー」をしたが、顔は笑っていた。

 明は余裕の笑顔を浮かべていた。樹は明がどういう気でいようが、明に勝ってこの計画の最終段階へと進みたかった。結局のところ、康子へのアピールという点ではもう達成できた気もしたが、今、樹は闘争本能が沸々とたぎっているのを感じた。


 試合開始から、明は飛ばしてきた。予想以上に手ごわい相手だった。明のスマッシュはまず拾えなかったし、直也が打てるような甘い球はほとんどこなかった。自然と直也はクリアで凌ぐことが多くなり、押され気味になった。

 結果、第一ゲームは、二一対一五で明に取られた。

「明は格が違うな」樹は言った。

「ああ。今までの奴らとは違う。でも、弱点もある。まあ、見てな」

 直也にはまだ余裕があった。

 第二ゲームでは、直也は徹底的に明のバックハンドを狙った。それにより、スマッシュの回数は減った。直也はドロップショットで樹を走らせながら、スマッシュで攻撃した。

 結果、辛くも二一対一九で樹が第二ゲームを取った。

「やったな」樹は昂奮して言った。「見ろよ。明の顔つきが変わったぜ」

「勝負はこれからだ」

 直也は冷静だった。

 そして、運命の第三ゲームが始まった。

 最初のポイントは直也のドロップショットで取ったが、続く三ポイントは、明のスマッシュ、直也のミスショット、明のラインギリギリのショットで連取された。

 続くプレイ中に樹は直也が消えていることに気づいた。もう、直也ではなく自分が独りで戦っていた。樹は必死になって、シャトルを打ちながら、直也に呼びかけた。

「どうした、直也。これは演出か? 最後は俺に花を持たせようというのか?」

 返事がない。気配は完全に消えていた。マジかよ。頭の中は、疑問符と不安で一杯になっているが、それでも、試合を中断するわけにはいかない。樹は反射神経だけでシャトルに反応している自分を感じる。

 樹はサーブのときに康子を見た。康子は心配そうに自分を見ている。その眼差しは正しく樹が直也に向けているものだった。どこに行った、直也? 樹は天を仰いで、呼びかけた。

 そのとき、樹は身体が軽くなり、自分が宙に浮いたことに気づいた。コートの真上五メートルくらいの位置にいた。しかし、コートの中では依然として、自分が明と対戦している。コートの中の自分は始めてラケットを握った素人のような、目を覆いたくなるような動きだった。体育館はどよめきに包まれた。

 樹は体育館を見回したが、直也は見当たらなかった。樹は直也を探し回りたいという思いを感じながらも、明と対戦している自分を放っておけなかった。

 明はもう本気でプレイせず、ひたすら打ちやすい球を返していた。それでも、樹は打ち損じた。

「どうした? 樹! 本気出せよっ!」

 明が樹に向かって声を上げた。樹はおろおろとするばかりで、今にも泣き出しそうだった。

「くそっ! 見てられん」

 樹は自分の中に入り込むと、明が上げた山なりの球をスマッシュして、明のコートに叩き込んだ。

「そうだ。その調子」

 明はそう言って、ニヤリと笑った。熱狂を帯びた声が体育館にこだました。

 それから、樹は必死で戦ったが、結果は二一対一〇で落とし、負けた。しかし、もはや負けたことはどうでもよかった。

 樹は速攻で帰ると、原付に跨り、直也が入院している病院に向かった。


   *


 二年一カ月後――。

 樹は功といっしょに新潟港のタクシー乗り場で駅へと向かうタクシーを待っていた。この春に高校を卒業し、東京の大学に進学することになった二人は今まさに都会へ旅立とうとしているところだった。初めて着たジャケットが樹を誇らしい気持ちにさせていた。

 樹が別の列に直也の姿を認めたのは、お互いのアパートや最寄りの駅について話しているときだった。

「知り合いか?」

 樹の強い視線の先を辿った功が言った。

「ああ、……いや、向こうは俺のこと忘れてるから違うか」

「忘れてる?」

 樹は功と視線を合わせた。功に直也のことを話したいという欲求が沸き上がるのを感じながら。

「……なんだ? どうした?」

「彼とは特別な知り合いなんだ。彼は以前、バイク事故のために植物状態に陥っていたんだけど、俺はその頃の彼と知り合いだったんだよ」

「はぁ? お前、頭大丈夫か? 春の陽気にやられたか?」

 功のリアクションは予想通りだった。

 直也――。懐かしい。茶髪になり、身長も伸びたように見える。あれから彼にもいろいろあったのだろう。彼も無事卒業できたのだろうか? 自分と同じように東京に出るのだろうか? 樹は話しかけたかったが、彼が自分を覚えてないことを思うと、躊躇われた。もっとも、意識が戻った日に病院に押しかけ、友達を騙った奴のことは覚えているかもしれないが。

 やがて直也はタクシーに乗り込んだ。樹はひどく切ない思いになった。

「マジで知り合いなのか?」

 樹の表情を見た功が驚きながら言った。

「ああ、そうだと思いたい」

 タクシーのガラス越しに直也が樹の視線を捉えた。記憶を探るような顔でこっちを見ている。樹は身体が火照るのを感じた。

 樹は想像する。直也がタクシーから降りて、こっちに向かって歩いてくることを。「久しぶり」。彼は樹の前に来ると微笑を浮かべてそう言うだろう。

「どうした? 泣いてるのか?」

 タクシーの中で功が訊いてきた。

「さっきの風で目にゴミが入ったんだ」

 樹は工場と倉庫しかない殺風景な港湾地帯の風景を眺めながら、自分に言い聞かせていた。高校生活の終わりに直也の元気な姿が見れてよかった、と。(了)

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