(12)後始末(ソフィア編)

 酒盛りをほどほどで切り上げたソフィアは、何故かそれから自室に籠もり、深夜になってからこっそり屋敷を抜け出そうとした。


「こら、ルーバンス公爵邸に行く気なら、付いて行くからな?」

 馬小屋から自分の愛馬を引き出そうとした所で唐突に背後から声をかけられたものの、それは覚えのある気配だった為、ソフィアは手綱を取りながら、大して警戒せずに振り向いた。


「分かっていたわけ?」

 その問いかけに、サイラスは淡々と答える。

「あの不機嫌そうな顔を見ればな。ぶちかましに行くんだろ? 邪魔はしないで、塀の外で待っているから」

 そこでソフィアは、深い溜め息を吐いた。


「たった一回のミスが祟るわね。良いけど、本当に手出し無用よ?」

「それは分かってる」

 そうしてサイラスを引き連れてルーバンス公爵邸までやってきたソフィアは、乗って来た馬をサイラスに預け、自分は軽々とロープを使って塀の向こうに消えた。


「いよっ……、と。馬鹿じゃ無いんだから、何度も同じミスはしないわよ」

 ジーレス特製の術式探査ブレスを使用しつつ、己の感覚を限界まで引き上げて危なげなく壁を登り、屋根の上を走って目的の場所を目指す。そしてソフィアは前回ルセリアの部屋に来た時とは別の棟に到達し、下層を見下ろした。


「さて……。頭の中に入れてきた見取り図だと、ここの角部屋の筈だけど……」

 室内への侵入経路を考えたソフィアだったが悩んだのは一瞬で、バルコニーに続く庭に面した大きな窓ではなく、横の壁面の窓を選択し、そちらに向けて階上に設置したロープを伝ってスルスルと降り始めた。


(やっぱり、こっちの窓の方が警戒度はちょろいわよね)

 窓の前でロープを身体に巻き付けて固定したソフィアは両手をロープから放し、懐から革の包みを取り出してそれを広げた。更にその切り込みに挿してある、何本かの細い針金の中から、先端が軽く曲げられている一本を選び、窓と窓の隙間に差し込む。


(よし、開いたわ!)

 隙間に通した針金をゆっくりと上げていき、その窓に付けられている簡素な掛け金にそれを引っ掛けて更に上げると、掛け金は容易に外れてしまった。そして慎重に窓を開けたソフィアは、身体のロープを解いて楽々と部屋に侵入する。


(さて、準備しますか。だけど曲者が部屋に侵入してもその気配を感じ取れないでグースカ寝てるなんて、やっぱり色々な意味で駄目よね)

 そんな事を考えながら、ソフィアは背中に括り付けていた布袋から瓶と布を取り出し、瓶の蓋を開けて中の液体を布に染み込ませる。かなり揮発性のあるその液体が、布の周囲に刺激臭に近い不快な香りを漂わせ始めると同時に、彼女はこの部屋の主が寝ているベッドに歩み寄った。


「さてと」

 そして覆面から覗く両眼が冷ややかさを増すと同時に、ソフィアは見下ろしていたロイの鼻と口を、手にしている布を押し付けて塞いだ。


「ふぐっ! むぐがっ! げふぅっ!」

 すぐに目が覚めて反射的に暴れようとしたロイだったが、抜かりなくソフィアが器用に片手で彼の両手を纏めて押さえていた為、その拘束を外すのに若干時間がかかってしまった。その間に彼は、ソフィアにすれば十分な量の薬品を吸入してしまう。


「はっ……、ひゃいおうあ?」

(何? 声が出せない!? それに、身体が痺れて動けない!?)

 正体不明の賊を引き剥がし、大声で家人に助けを呼ぼうとしたロイだったが、何故かかすれた声しか出ない上、殆ど身動きができない状況に激しく動揺した。しかしそんな事にソフィアは構わず、ロイを拳で殴ってベッドから床に突き落とす。


「ふぅぐっ!」

(一体、こいつは何者だ! どうして誰も来ないんだ!)

 内心ではパニック状態のロイだったが、そんな彼をソフィアは全くの手加減無しで、無言のまま蹴り転がした。


「ぅぐぁっ! ぐぅっ……、ぐふぁっ……」

 そして辛うじて動く手で蹴られた脇腹を押さえて呻くロイを、ソフィアは忌々しげに見下ろす。


(あんたが無抵抗の女性を平気で蹴るような腐れ野郎だから、それがどんな物か思い知らせてやらないと、気が済まなかったのよね。しかもあの時はルセリア嬢は死んだ事になってたのに、二重の意味で許し難いわ)

 さすがに無抵抗の人間をいたぶる様な趣味は持ち合わせていなかったソフィアは、それで用は済んだとばかりに踵を返した。


(さて、取り敢えずこれだけにしておきますか。武器は一切使わずに、素手で攻撃してあげたんだから、ありがたく思いなさい)

 そして窓は開け放したまま外に出たソフィアは、ロープを伝って上層に上がり、侵入した経路を逆に辿って無事に塀まで辿り着いた。


「よっ……、と」

 ソフィアが姿を見せた為、塀の向こう側にいたサイラスはすかさず塀に施されていた防御術式を限定的に解除した。その為ソフィアは余裕を持って塀を乗り越える事ができ、大人しく待っていた愛馬の鞍の上にストンと降り立つ。


「お疲れ。気は済んだか?」

 鞍に跨がるなり尋ねてきたサイラスに、ソフィアは軽く拳を振りながら苦笑いで応じた。


「まあ、それなりにね。散々我が家を馬鹿にしてくれた事に対する礼は、あの家全体にくれてやったけど、無抵抗の女を蹴り転がそうとしたあのろくでなしに、どうしても個人的に一撃くれてやりたかったから、これですっきりしたわ」

「それなら良かった。じゃあ戻るか」

 そしてステイド子爵邸に向かって併走を始めると、ソフィアが若干決まり悪そうに言い出した。


「悪かったわね、つまらない事に付き合わせて」

 それにサイラスが、事も無げに答える。

「別に、どうって事は無い。王宮勤務に戻る前にきっちりケリを付けて、気分良く働きたいのは分かるしな」

「そうよね……。結構お休みを頂いてしまったし、いい加減後宮に戻らないと」

 思わずソフィアが呟いたところで、唐突にサイラスが口調を変えて言い出した。


「それでだな、ソフィア。この際、ちょっと話が」

「あ、いけない! ひょっとしたら、さっきあの野郎に使った薬、部屋で調合する時にきちんと栓をして来なかったかも! 私は耐性があるから大丈夫だけど、あれが部屋の外に漏れて誰か吸い込んだら、全身が痺れて動けなくなるのよ! 心配だから先に戻るわね!!」

「あ、おい! ちょっと待て!」

 いきなり重大な事に気付いた様に、ソフィアがサイラスの台詞を遮って声を上げたと思った次の瞬間、彼女は愛馬を疾走させてサイラスを引き離していき、借り物である馬を彼女以上に走らせる事ができなかった彼は、溜め息を吐いて追い縋るのを諦めた。



 翌朝、ゆっくり起き出したソフィアは、食堂の前で朝食を済ませたらしいイーダリスと出くわした。


「おはよう。……サイラスはもう起きてる?」

「とっくに起きて食事も済ませて、王宮に向かったよ。仕事が溜まっているだろうから、なるべく早く職場に出むくからって」

「そう……。私も昼前には、屋敷を出るわね」

 弟が笑顔で告げてきた内容を聞いて、サイラスと顔を合わせる心配が無い事が分かって少し安堵しながら、ソフィアは食堂のドアを開けた。すると大きな長テーブルには、旅装のジーレスだけが着いて、食後のお茶を飲んでいるところに出くわす。


「おはようございます、頭領。その服装……、頭領も今日、出られるんですか?」

「ああ、おはよう。公爵家の領地での仕事があるから、さすがにそろそろ戻らないとな」

 そう言って、カチャリと小さく音を立てながらカップをソーサーに戻したジーレスに、ソフィアは立ったまま深々と頭を下げた。


「そうですか。今回は本当にお世話になりました」

「アルテス様達からも頼まれた事だから、気にしなくて良い。だが、ソフィア。今月の俸給の三分の一はきちんと渡せよ?」

「心得ました」

 真面目腐って応じたソフィアにジーレスは笑い、手振りで席に着くように勧めた。そしてソフィアの前にベンサムが給仕して朝食が並べられると、ジーレスがさり気なく話題を出す。


「サイラスは、既に王宮に戻ったのか?」

「そうみたいですね。イーダの話では、朝一番で出て行ったみたいです。王宮専属魔術師って、なかなか過酷な勤務シフトなのかしら?」

「それはやはり……、いきなり二週間超の連続休暇を取ったりしたら、反動はそれなりだろうな……」

「頭領、何か言いました?」

 思わず同情する顔付きになって呟いたジーレスだったが、それがはっきり聞き取れなかったソフィアは、怪訝な顔で尋ね返した。しかしここでジーレスは彼女の疑問には答えず、いきなり話題を変えてくる。


「ソフィア。お前、実はちゃんと分かってたんだろう? サイラスの奴が、シェリル殿下からの要請を受けて動いていたわけじゃ無い事を」

 その指摘に、スープを飲んでいたソフィアは手の動きを止めてから、ゆっくりとジーレスに視線を移した。


「……だったら、何だって言うんですか?」

「いや、やはり私は、お前の情操教育に失敗したと思ってな」

 如何にも残念そうにジーレスが述べた為、ソフィアは小さく舌打ちして言い返す。


「頭領が失敗するなんて、有り得ませんから」

「私だって失敗の一つや二つはするさ。だがこの場合、お前が少しばかり素直になってくれたら、私の失敗は一つ減りそうなんだが?」

 飄々とそんな事を言ってきたジーレスを、ソフィアはスープに浸したパンを口の中に放り込み、長い間噛みしめてから飲み下した。そして低めの声で、面白く無さそうに言い出す。


「…………頭領」

「うん? どうしたソフィア」

「私、あいつより五つも年上で、裏事情ありまくりで、借金てんこ盛りの面倒くさい女なんですけど。それを分かってて、こんなのに本気で言い寄る男って、頭がおかしいと思いません?」

 真顔でソフィアが主張すると、何故かジーレスは右手で頬杖を付き、左手の指でトントンとテーブルを叩きながら、冷え切った声で応じた。


「……ほう? そうなると、自分より九つ年上の、訳あり子持ち未亡人と結婚するような男は、相当頭がいかれた男だと言う事だな。お前の基準からすると」

 そう言われたソフィアは目の前の人物が、いつの間にか《デルス》の頭領の顔になっているのを認識し、瞬時に自分の失言を悟った。


「いいいいいえ、滅相もございません! ラミアさんは運悪く、不幸なご事情が複雑に絡まり合っただけでして! ご子息方も大変お可愛らしくて聡明で、『流石に頭領は腕が立つ以上に人を見る目がある』と、デルスの皆も感心しきりですから!!」

 必死になって首と両手を振って弁解しようとしたソフィアに、ジーレスが容赦なく話を続ける。


「そういえば……、皆に集まって貰ってラミアとの結婚を報告した時、その場でお前が唯一人すっくと立ち上がって、『頭領! 何でそんな性悪女に誑かされてるんですか!! もう情けなくて涙も出ませんよ!』って激高して、周りからドン引きされていたな……。今では良い思い出だ」

 しみじみとした口調でジーレスがそう告げた途端、ソフィアは米つきバッタの如く何度も頭を下げた。


「すみません、本当にすみません! 若気の至りです。十五の小娘の戯れ言です。本当に勘弁して下さい」

「だから、まあ……、そんなに気にする事も無いんじゃないか?」

 そこで急に表情を緩めて、穏やかに言い聞かせてきたジーレスに、まだソフィアが躊躇う様に告げる。


「だって頭領……。それに加えて、うちってまだまだ借金が残ってますよ?」

「その事なんだがな……」

「何ですか?」

 何やら考え込んでいるジーレスに、何事かと思ったソフィアだったが、彼は冷静に指摘してきた。


「ネリアが嫁いだケネルは跡取り息子だし、自分の生活や領地経営もしなくてはいけないから、妻の実家の借金肩代わりなんて無理だろう」

「勿論ですよ。結婚する時にも、ネリアの嫁ぎ先には一切迷惑をかけないって家、族全員で意思統一しましたもの」

 ソフィアが当然の如く頷くと、ジーレスは真顔で話を続けた。


「因みにサイラスはかなり腕の立つ魔術師で、王宮専属魔術師としてかなりの高給取りだ。加えて身一つでエルマース国に来たから、面倒を見なければならない家族や、保持し続けなければならない資産、領地の類も無い」

「だから、何ですか?」

「搾り取ろうと思えば、とことん搾り取れるぞ? ステイド子爵家の借金完済の日は近いな」

 含み笑いで冷酷に言われたソフィアだったが、真正面からジーレスを見ていた彼女は、小さく肩を竦めただけだった。


「頭領……」

「何だ?」

「台詞と口調だけ聞くと、すっごい極悪人です。その表情でそんな声が出せるなんて、どこからどう見ても詐欺です」

 どこからどう見ても面白がっている様にしか見えない笑顔のジーレスは、更に笑みを深くしながら応じた。


「それはそうだろう。私は『デルス』の束ね役なんだから」

「人の事を構い過ぎるから、そんな面倒な役目を周りから押しつけられたんですよ」

「確かにそうかもな」

 否定はせずに苦笑いしたジーレスは、カップに残っていたお茶を一気に飲み干すと、静かに立ち上がった。


「それではまたな、ソフィア」

「はい、本当にありがとうございました」

 そして自身もその場に立ってジーレスを見送ったソフィアは、再び朝食を食べ始めた。


「さて……、取り敢えず姫様付きの侍女に復帰して、頑張らないと」

 色々としなくてはならない事がありそうだったが、ソフィアはまずやらなければいけない事に意識を向けて、食べ進めた。

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