本編
すれ違いざまに傘がぶつかった。思い切り顔をしかめるサラリーマン。舌打ちの一つでもしているのだろうが、耳に入ってくるのは雨音だけ。
「俺だって好き好んでこの街で暮らしてるわけじゃないんだ。みんなそうだろ」
スクランブル交差点の端の方、吐き捨てるように放たれた男の声も雨音に飲み込まれた。
この街に男が来たのは6年前。大学を卒業目の前にしても、やりたいことが何一つ見つからなかった男は、何の動機もなく現在の職場に就職し、職場に近いからというだけで、現在の住処を選んだのだった。
将来の展望どころか趣味の一つも持たない男にとって、キーボードを叩く音ばかりが響く職場と、1DKの社宅を往復するだけの日々にはなんの起伏も意味もなかった。
昨日、土曜日の朝刊と共に何の飾り気もない一枚の手紙を見つけるまでは。
そんなあまりにもうさんくさい起句で始まった文を男が読み進めたのは、来るはずもない非日常への期待が少しばかり残っていたからかもしれない。七色、どんな色なのだろうか。
《ハッピーメーカー》を名乗る手紙は続く。
「これから毎週あなたに一つの指令を出します。あなたはそれを素直にこなしてください。そうすればあなたの人生は少しずつ面白い物へと変わるでしょう。では早速一つ目の指令です。家を隅々まで、塵ひとつ残さない位に綺麗に掃除してください。不必要なものは、躊躇わずに全て処分してください。」
手紙に書いてある内容だったのはそれだけだった。人生を塗り変えるなんて大げさなことを書いておきながらファーストステップは《掃除》ときた。胡散臭い占い師に馬鹿にされた気分だ。
とは言っても何もしない時間が圧倒的に多い自分にとって一週間を掃除に使うことはさして不都合ではない。それにしても人生を七色になんて大仰な言い回しをしておいて、掃除をしろだと。なめられているとしか思えない。
まぁ、例えこの手紙が悪意ある誰かのいたずらだとしても「人生は暇つぶし」を体現してきた自分にとっては、ささやかとはいえ刺激の一つにはなる。
こんなことでこの平坦すぎる人生が七色に変わるとは到底思えないがここはひとつ、道化になってやろう。
こうして男の一週間は《掃除》に使われることになるのだった。
翌日の日曜日、午前8時30分。朝食を済ませ身支度を整えた男は、くたびれたスーツを出し入れするだけだった寝室のクローゼットから掃除を始めることにした。ぎっしり敷き詰められた段ボールと、それを覆う埃でクローゼットの下部は飽和状態になっている。
10分程で段ボールをクローゼットから出し終えると、部屋中に埃が舞っている。どこかの文豪ならこの光景を“マリンスノー”と表現するかもしれない。
そういえばマリンスノーも海中のゴミなんだよな、雪だというのだから白いのだろうか、などと面白くもないことを考えながら所々角(かど)がひしゃげた、まちまちの大きさの段ボールを男は見下ろす。
作業開始。一つ目の段ボールにはモノクロのアルバムや卒業証書などの学生時代の思い出の品が乱雑に詰め込まれていた。
中身を一通り確認した男は「なつかしい」「あの頃は良かった」等と感傷に浸ることも無く、黙々と段ボールを閉じ、ガムテープで封をしていく。
男にとっての学生時代はとても愉快なものではあったが、それと同時に怠惰を極めていた。あの時に少しでも将来のことを考えていたなら、現在(いま)よりは幾分かましな生活を手に入れていただろう。
もう少し高い給料をとり、もう少し広い部屋に住み、もう少し面白い趣味に興じていたかもしれない。もしかしたら楽しく仕事をしていたかもしれないし、なんだったら家庭すら持っていたかもしれない。
もしもあの時に夢を見つけていれば。
もしも真面目に勉学に励んでいれば。
もしも人間関係を大事にしていたなら。
そんな後悔の言葉ばかりが湧き上がってくる。
湧き上がる自責の念を振り払うように次の段ボールの確認に移る。
男が心を乱したのその時だけで、そこからの作業は平凡でこれといった起伏もなかった。
他の段ボールには扇風機やトースターなどの家電製品や、売りに出そうと思っていたままになっていた文庫本や漫画本。使わなくなった旧型のゲーム機や、痩せたせいで着られなくなった衣服などがそれぞれ収められていた。
それらを捨てるもの、使用するもの、再び収納するものに分けて、クローゼット内を手早く掃除する。2時間ほどでクローゼットの掃除は終了した。
次は寝室だ。
クローゼットを引っ掻き回した影響で非常に埃っぽいが、寝具はクリーニングに出してしまえば問題ない。
寝室の家具はベッドを除けばパソコンデスク、ブックラック、箪笥の3つだけ。部屋が小さいのも理由の一つではあるが、一人暮らしで無趣味とあってかインテリアに遊び心が欠片もない。
居間よりも長い時間を過ごす寝室ではあるが、ここも大して手間取ることなく1時間程度で掃除は完了した。
男は額にうっすらと浮かんだ汗をぬぐいながら壁掛け時計を見る。長針と短針はそろって真上を向いている。
キリがいいのでここで昼食をとることにした。キッチンに立つのが億劫な男はカップ麺に湯を注ぎ、キッチンカウンターの椅子に腰かけた。
空腹と倦怠感の進軍に抵抗していると、キッチンタイマーがあっという間に3分のカウントダウンを終えた。汗を流した後の食事は、カップ麺一つといえどいつもよりおいしく感じられる。
思えば飯をうまいと思いながら食うのは久しぶりな気がする。掃除を続けて、また気分が悪いものを引っ張り出してしまうのは避けたい。だから今日は終わりにしよう。緩みきった気持ちのまま男は考える。
残るは居間、トイレ、風呂場、物置の4部屋。日中は仕事に出る事を考えても、あと4日もあれば完璧に仕上がるだろう。大丈夫だ、1週間の期限にはかなりの余裕をもって終えることができる。
こうして初日の掃除は終了した。
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その後の掃除は目測通り4日で完了した。
清潔にしたところで飾り気がないのは変わらないが、家に招く友人もいなければ自分の生活空間へのこだわりもないのでそれは問題ない。
強いて問題を挙げるとするなら、《ハッピーメーカー》とやらの狙いが相変わらず分からないことぐらいだ。
今日は木曜日、これからも1週間単位の指令が来るなら、前回と同じく土曜日だろう。《ハッピーメーカー》の正体を突き止めるにしても今は情報が少なすぎる。おとなしく二日待つことにしよう。
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土曜日が来た。何の飾り気もない手紙が予想通り、朝刊と共に郵便受けに入っていた。
「ハッピーメーカーです。お部屋の掃除は完了された様ですので、次の指令を通達します。
1.部屋を飾り付けて人を招く準備をしてください。
2.ホームパーティを自宅で主宰してください。(血縁者は不可)
以上が今回の指令内容です。期限は2週間です」
文面に遊び心の一つもない所は前回と同じだ。文面から察するに、俺が指令を実行していることも把握されている様だ。
どんな方法で俺の行動を観察しているのかは見当もつかないが、いたずらにしては手が込んでいる。それにハッピーメーカーは俺の行動の観察手段すらもっているのだ。
俺が普段やらないことをやらせようとする辺りに大きな狙いがあるのかもしれない。近所にある大学の実験か何かだろうか?
まぁハッピーメーカーの目的がなんであれ、説明責任も果たさずに監視をつけ、こんな訳の分からない手紙をよこしてくるのだ。信用はできない。
とは言っても、抵抗する動機もデメリットもまだないのでいいだろう。
まだしばらくの間は道化でいてやろう。
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とりあえず部屋の飾りつけをするために、置物なり絵画なり買いに行こうと思うが自分の美的感覚は絶対に信用ならない。
内装に詳しい知り合いもいないので店員にでも選んでもらおう。昼食を済ませた男はそれぞれの部屋の写真を携帯電話に収めると財布と自宅の鍵をポケットに突っこんで家を出た。
買い物は1時間程度で終了した。男は買いものをするのに何軒も店をはしごすることがまず無い。今回は大型のショッピングセンターで済ませた。
会計は6万円程度。普段から娯楽に給料を使うことはなかったので、給料の割には多めの貯金がある。突然の出費の一つや二つは大した問題じゃない。
内容は13点。トイレと居間に絵を1枚。居間にこぶし大の木彫りの動物の置物を4体と、枯れにくく管理しやすいと勧められた観葉植物を1つ。さらにひじ掛けによさそうなクッションを3つと硝子テーブル。
寝室には円筒形のシンプルなデザインのランプと、惑星の軌道を象ったような振り子の置物を。派手な髪色の店員を掴まえて40分近く分近く唸らせたので間違いはないだろう。
想定外の買い物の量になってしまったため、軽自動車しか持っていなかった男の車には荷物が収まりきらない。
レジまでついてきた気のいい店員にそのことを伝えると、彼は快く軽トラックを貸し出してくれた。そのうえ彼は「トラック持って帰るんでついていきますよ!」と言って家までついて来た上に、引っ越し業者さながら荷運びを手伝ってくれたので、家具の配置はものの20分ほどで終わってしまった。
多少見た身は良くなったが、相変わらず色のない部屋を男は見回す。七色にはまだほど遠い。
一緒についてきてくれた従業員はすでにトラックを持って帰っているし、指令2はこれで半分完了したことになる。もう半分の指令は会社内で済ませよう。
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翌週水曜日、時間は21時過ぎ、居間には男以外に男性2人、女性1人がソファーに腰かけていた。4人が囲むのは先日買った硝子テーブル。
「では、こうして出会えた私たちの縁に」
それぞれ思い思いのアルコールが満たされたグラスをつきあげると男に続き全員が顔を見合わせながら合唱した。
「乾杯!!」
集まったのはそれまでほとんど意思疎通をしてこなかった職場の同僚たちだ。
自分の意志で始めたことではない。とはいえ、自分の家で、それも複数人で酒盛りをするなんて人生初の出来事だ。これを機にいつも周りにいる人間と意思疎通してみるのもいいかもしれない。いまだ距離感を図りかねている同僚たちも、酒が入れば打ち解けやすくなるだろう。
まずは自分が先陣を切って、打ち合わせたグラスの中身を一口で飲み干した。同僚がすかさずついでくれたそれをまた一気に煽る。男のスタートダッシュについていこうと同僚たちも追撃を開始した。
こうして、わんこそばならぬわんこ酒とでもいうべき飲み比べが始まった。
落ち着いた頃には、たった1時間で無数の缶チューハイや酒瓶が空いていた。男も含め、酔いが回った同僚たちは饒舌だった。
仕事や上司の愚痴、理想の老後などの話から連続放火魔の手口の推理や話題のファッション雑誌の話など他愛もないことをつらつらと夜が明けるまで話し込んだ。
やがて楽しい時間も終わり、千鳥足の同僚を玄関から送り出したとき、一人がぽつりと言った。
「おまえ、根暗かと思ってたけど話の分かる奴だったんだな。これからはもっと仲良くしてくれよ」
男は灰色の日常の中で一つ友情を手に入れた。
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それからもほとんど途切れることなく、ハッピーメールの指令は続いた。
男はそれに従い続けた。指令をこなすたびに男の活動範囲は広がり、男を取り巻く人間関係は肥大し続けた。
そうして1年が経ったある土曜日、郵便受けにはいつも通り飾り気のない手紙が収まっていた。
「1年が経ちました。1年前のあなたと今のあなたはどう違うのでしょう。同じ職場で同じ給料をとり続け、メンツの変わらない同僚と肩を並べてキーボードを叩く。それだけなら何も変わっていない様に感じるかもしれません。ですがあなたは趣味を手に入れ、酒を酌み交わす仲間を手に入れ、今まで知らなかった給料の使い方を覚えました。それがあなたの変化です。あなたが変わったから、あなたを取り巻く環境が見せる顔を変えたのです。だから誇ってください。あなたの人生は今や七色に彩られています。眼に映る景色が人生の全てではないのです。幸せは遠く手に届かない場所になどあるわけではないのです。あなたにはこの1年でそれを理解できたはずです。だから私たちの仕事は本来はこれで終わりです。ですが、ここで最後の指令を。」
――より良い人生を模索し続けてください。
それ以来本当にハッピーメーカーから指令が来ることはなかった。
結局ハッピーメーカーの正体は分かっていない。
しかし一つ分かったことがある。
人生は意外といいものだ。
例え全ての景色が、これからも灰色に見え続けるとしても。
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