第50話 揺蕩う先へ

 三日目、朝。眼前に大岩を見据えつつ、ジェイムズは飯に食らいつく。

 献立は、またマッシュ・ポテト。ベーコンも入っちゃいないし、すぐに飽きが来るけれど。気にしちゃいない。今大事なのは、舌鼓をうつ事ではなく。ただ、待ち受ける登攀へ、精神を相応しい形と変えること。


 「曇り、か」


 暗雲では無い。白い雲が、空を覆っている。気温は、先日までよりは低め。湿気も、とりわけ気になるほどではない。

 味気ないマッシュ・ポテトが無くなった。口もすすいで、喉に水を流し込んで。登るための、用意をする。


 「此処がいいか……」


 靴を持って、少しの移動。向かった先は、すぐ近くの、別の斜面スラブ

 シューズに足を通して、直ぐに岩肌へ張り付く。


 「……」


 ジェイムズは黙ったまま。けれど、鮮やかに、壁面を登る。


 ――足捌きに、一切の躊躇は無い。思慮を介さないフットワークが、当然であるかの様に。そうとも、当たり前なのだ・・・・・・・。もう、ジェイムズの体は、そういうものに変わったのだから――


 「ん――」


 登りきって、降りる際。腕の、指の調子を確かめる様に、緩やかなクライムダウンをして。

 もう、判った。ジェイムズは理解した。ならばと、きびすを返して。柳岩へと戻る。

 三脚の上に用意したカメラ。ファインダーを覗きつつ、自分が来るだろう場所を想像して、セットする。タイマー、こんなもんだろうとレバー動かして。


 今、ジェイムズは向かう。揺蕩う先へ。終わらせるために――




 ――両の足で、スラブへ立つ。本日、一回目のトライ。

 右手で触る、岩肌の皺が、指先に吸い付いて来るように、よく収まっている。


 「……」


 左手も、ホールドを掴んで。一拍も置かずに、右足が上がった。其れが、今日のジェイムズのテンポ。

 其の、右足の一本で。ジェイムズの体は上に上がる。体幹に、一本の筋が通っている。


 ざり――


 爪が、岩肌を撫でる音がする。両の手が、次のホールドを捉えていた。其のまま、引きつける。

 左足を次のスタンスへ。スメアリングで止めるべき場所。絶妙な角度が、ソールと岩肌の間に生まれた摩擦フリクションに、留まる事を選ばせる。


 「ふ――」


 短い呼吸音が、静かに聞こえる。

 気付けば、送られていた左手。オープンハンドが、優しくホールドを包む。

 右手にチョークを付けて。置き直した場所が、いっそう白くなった。


 ス――


 引き摺る音じゃない。軽い音。右足と左足が入れ替わる。

 右足の先端に捉えた結晶が、ソール越しによく分かる。伸び上がるように、右手が伸びて。指先に花崗岩の粒子と摩擦を感じながら、ホールディングした――


 「ああ――」


 久方ぶりに、声が出る。

 先日までの予感が、確証を得たように。そう、このホールド。止めたのでは無い。持っている――

 ならば、この後のムーブ。憂慮は、無い。


 ――左足が、外側から上がって。膝が返り、爪先で乗り込んだ。左手が寄せられる。


 余りにも、軽く。ハイステップが成功し。そして、至る。真の核心部へ――


 「――ッ!!」


 体が、上がった。右手が伸びる。

 親指を下向きに、ガストンで捉えたホールド。感じるべきは、相反する力の向きオポジション


 左足が張られている。右手をホールドに押し付けるべく。強すぎれば指を外してしまうだろうに、遠慮なく。

 そして――




 ――ジェイムズの体が静止した。岩肌の上。常人には理解らない何かの狭間で。

 カシャンと、ミラーが返る音がした。ジェイムズの耳には届かないけれど、其れは、この瞬間を、確かに捉えたことを物語っていた。




 左手、右足。順に上がり。最後に、リップを抑える。ああ、悪くは無い。返すマントルも、容易と言える範疇だ。

 両手を逆に向けて。上半身が、腕の上に乗った。上げた足で乗り込んでしまえば――終わり。


 「――出来た」


 数十を数える戦いの終わりは、意外な程に静かで。感傷的になることも無かったけれど。

 為すがまま、川に流された先に。行き着いた、静謐なほとりの様に。


 ――ジェイムズは。ただ、穏やかな気持ちで在った。







 課題名:『揺蕩う先へ』V11

 初登者:ジェイムズ・マーシャル

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