揺蕩う先へ V11
第43話 二番目の部屋
サクソン市内。裏通りの、古いアパートメントの二階。木製の戸口が、音を立てて引かれた。主の帰りである。
主の名前は、ジェイムズ。焼きたてのバケットを抱えて、満足そうにしながら、部屋へ入った。
小奇麗に整った室内。基本、土足は厳禁で。だから、玄関に敷いたマットの上。程よく磨かれた、牛革の靴を脱いで、揃える。
「この部屋、どうしようか」
四年も過ごした部屋。都会の割に、安い家賃と、意匠の良い煉瓦壁の外観。シャワーとトイレは共同だけど、持ち回りの掃除もちゃんとやっているから、あまり気にならない。
何より、愛着が有って。出来る事なら、出たくはない。
「暫く、様子を見ようかな」
そう、独り言ちて。ジェイムズはベッドに腰掛けた。
賃料を払ってさえ入れば、多少空ける分には問題ないだろうし。彼方此方行くわけだから、交通機関の多いこの辺りは、悪くない筈。駄目だったら、その時考えるとして。
――今は。
「腹ごしらえをしなきゃ」
表通りで買ったばかりの、焼きたてのバケットが、さっきからジェイムズの腹を刺激して。もう、我慢できない。昨日作ったホイップバターも残ってる。たっぷり塗って食べれば――想像するだけで、涎が止まらない。
そうやって、ババケットを齧りつつ。入学祝で貰ったラジオも流して。地図と雑誌を広げる。
「次は、何処にしようか――」
次の登攀、どうしようかと悩む。論文も、かなり書き終わった。受理されてしまえば、あとは卒業まで暇なだけ。久しぶりに、サクソンから出るのも良いかもしれない。
「何処か、あるかな」
近県の地図を広げて。山の名前を流し見て。ロープをやるか、ボルダーをやるか。其れすらも、決まっていない。
暫く、口を結んで考える。ノイズを立てながら、ラジオの音が響いて。調子も悪いし、今度デヴィッドに見てもらおうかと思いつつ。耳を傾けた時――
「本日、ヒブリアの北西部で――」
何でも無いニュースだったけれど。一つの地名が耳に止まった。
(ヒブリアか――)
サクソンの、隣の隣。鉄道なら、一日で行ける。
彼処には、幾つか岩峰が有った。特に、カマルゴ山の尖塔なんかは、マルチピッチの良いルートがあるし。それに。
(カマルゴは、宿題が有る……)
先輩に連れられて行った時に、見つけたボルダー。彼処は、良い岩がゴロゴロしてるけれど、その中でも、格別なスラブ。
二年前じゃあ、碌に登れなかったけれど。
「うん。行ってみよう」
何日か、掛けて。シーズンには未だ早いから、シビアなスラブはキツイかもしれないけれど。もう、その気になってしまったから。
「久しぶりに、一人でやろうか」
思えば、最近はいつも誰かと一緒だった。其れも悪くは無いけれど、偶には、一人も良いものだ。
「トポ、取ってあったよな」
そう言って、棚を探す――有った。大学ノートに纏めた、カマルゴのトポ! 其処の中の一つ――
「柳岩。揺蕩う先へ」
どっちも、先輩が付けた。岩の名前は、単純。近くに柳が立っているから。
揺蕩う先へは、課題名。自分じゃ付けないだろう、少々詩的な名だけれど、結構嫌いじゃない。
「――登れるかな」
そう言って、岩のラインに思いを馳せる。許されるなら、その上まで。
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