第4話 夕映え

「くそおおおおおおおっっ」


 吼える。吼えても、55キログラムの肉体が宙へ浮かぶことは無い。


 「ジェイムズ!」


 駆け寄り、受け止めようとしても、老人の肉体の反射速度で成し得ることではない。

 ダンッ、と音を立て、弾みの付いたジェイムズの肉体は転がる。足からの着地ではあるが、シュラフを敷いただけのザレ場は、容易に凶器と成りうる。


 「クソったれ!」


 されど、歴戦の登攀者。なにごとも無いように起き上がり、暴言を吐く。否、この様をみて、何事も無いとは言えないか。


 「健在か」


 「ええ、問題ありません。慣れっこです」


 無事を確認し、カーナーシスは冷静さを取り戻す。考えれば、己に出来るものしか登らない男が、これ程のクライマーになるわけが無いのだ。恐らくは、登った回数よりも落ちた回数のほうが――。あそこでの墜落も、初めてでは無いのだろう。ならばこその、悔しさが見て取れる。


 はあっ、はあーー。断続的に呼吸し、肉体へ酸素を送り込む。先程の落下から、ジェイムズは自発的に喋ろうとはしなかった。ただ、ひたすらに、岩肌を見つめる。


 (ーーなるほど)


 カーナーシスは此処に来て、初めて目の前の青年の、真実の姿を見た。

 ジェイムズは目を逸らさない。六手から成る至高のルートを、自分の脳内で何度も登る。もう動きムーブは固まっている。恐らく、これから何登してもそれが変わることは無い。

 ーーけれど、ジェイムズは見る。その映像から見出した最適解を、肉体に浸透させていく。


 「ふう、ふう」


 呼吸を整える。心地よい感覚だ。己の肉体が、ニュートラルから変速した感覚。眼前のルートを、登るためだけのものに変わった、そんな感覚が有った。

 今のジェイムズにはスポンサードのことなど、頭に無かった。それどころか、カーナーシスがこの場に居ることさえ忘れ去っていた。世界に、自分と、岩だけがある――。そんな至福を前にして、もう、ジェイムズは我慢の限界にあった。


 すくっと、ジェイムズは立ち上がる。カーナーシスは其れを見て。


 (ああーー登るのか)


 そう、嘆息する以外のことは出来なかった。ただ、いつの間にか日の暮れ始めていて。白く輝いていた筈の花崗岩のフェイスと。其れを登らんとする青年を。まとめて燃えるようにオレンジに染めていく様は、脳裏から消えることは無いのだと理解した。


 ジェイムズが、スタートに手を触れた。すると、まるで元からそこに有ったかのように、すう、と収まる。岩と、体が一体になる。


 (ああ、これが最後か)


 感傷にも似た気持ちになる。今までの、十数回にも及ぶトライが、ここに完結するのだと。もうジェイムズは分かっていた。登るのだ。岩の上に、立つのだ。傲慢にも思えるその感覚ごと、オレンジ色の岩肌に溶けていく。


 そうして、足をスタンスに掛け――一手目に手を伸ばす。




 薄いカチに、手が触れる。人差し指、中指、薬指、小指。右手の四つの指先を置いて、親指でまとめる。少し、肘を曲げる。

 右足が上がり、スタートにヒールが掛かる。其の流れのままに、左手が右上へ伸びる。持っている。頭がそう理解すると、もう、左足はホールドから離れていた。振られる。此の瞬間に、何度落ちたか。さっきも、なんとか、渾身の力を持ってやっとこさ止めていた。だけれど。


 「――フッ」


 ――下半身は美しい軌跡を描き、右の爪先はスタンスを捉える。重力による加速と、体幹による制御の、完全なる一致。まるで、困難なことなど一つも無いかのような、見事なまでの自動化オートフォーメーション


 吸い寄せられるままに三手目をとる。右に流したままの左足。カウンターバランスのためのフラッギング。重心の変化は消え去り、続く四手目を右手近くに寄せる。右爪先はそのままに、右膝を内側に入れる。

 左足も二手目に上げると、手本のようなダイアゴナル。五手目を捉える。そして――。


 ――運命の六手目へ。右足をスタンスに上げる。高く、悪い。結晶のような粒を、ハンドメイドで作り上げたシューズのエッジで捉える。この結晶を最後まで捉える事が出来なければ、左手をリップに届かせる出力は得られない。


 「フゥーーーー」


 ジェイムズは、左足を振る。フラッギングをしたままでのランジ。サイファーと呼ばれるそのムーブは、ベン・ムーンの登った同名の課題の無いこの世界では、形容する言葉は未だ無い。ただ、あの六手目のために、最もふさわしい動きで答えようとした結果が其れであった。


 ――右膝が曲がる。上へ向かうためのエネルギーを蓄えて。左足を振り子のように振った後。


 「ッ!!」


 まるで、重力など無かったかのようにジェイムズの体は浮かび上がり、左手は六手目を保持していた。


 ヒュウ。体で風を感じている。幾ら核心を捉えても、このまま上に上がれなければ意味がない!足が切れたまま、右手をリップに寄せる。右足を五手目に掛ける。右手を更に奥へ伸ばし、今度は右足をリップへ。別段掛かる場所はない。けれど。

 美しく、怖いほど滑らかに、マントルを返す。腰も、足も、岩の上に上がりきった。両の足先に力を込めて、立ち上がる。


 「オオオオオオオオオオオ――」


 文句の付け所の無いトップアウト。夕日に照らされたまま、ジェイムズは吼える。歓喜の咆哮である。

 ――ここに、初登はなされた。




 そして。


 「カーナーシスさん」


 オレンジ色の視界。眼下の男に呼びかける。


 「この課題の名前付けてもらえませんか」


 カーナーシスは困惑した。この言い知れぬ感動の中で。偉大なルートに名前を付ける責務を負えというのか。頭は回らない。元々そういった類のセンスは無いが、今いくら考え込んでも、いい案なんて思い浮かばない。だから――。


 「夕映え。なんてどうだろうか」


 四十も年下の男に、緊張した声で尋ねる。理由を聴かれても、見たまま、としか言えないだろう。見上げた先のジェイムズは、少し考えた後。


 「うん。ぴったりの名前ですね」


 そう、笑った。







 課題名:『夕映え』V10

 初登者:ジェイムズ・マーシャル

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