第3話 逆らえない重力

 「実はこの課題、未だ登れていないんです」


 ジェイムズは話す。以前に二度来たことがあるが、どちらも核心部を止めていないらしい。

 岩の名前は、楯岩。課題名は、まだ決めていないという。


 「でも、今日は、止めます」


 力強く、言った。


 無いよりはマシですからーージェイムズはシュラフを二つ並べる。

 カーナーシスはジェイムズの一挙一動を観察していた。被支援者に必要な環境を揃えるのもスポンサーの役目。ならば、ジェイムズが使う道具に、目を配るのは当然のことであった。だから、カーナーシスがそこに気がついたのも必然で。


 「その靴は、どうしたんだ」


 ジェイムズはカバンから靴を取り出していた。先程、慣らしの登攀でも履いていたものである。足の形が見て取れるような靴型は、レースを締め付けることでまさしく足と一体となるだろう。踵や底面には、曲線を描きながら鍵状のつま先へ向けて黒い何かが貼られている。およそデザインと呼べるものは、踵の外側に描かれたーー稲妻であろうか。シンプルなギザギザ模様だけである。にも関わらず、其の奇怪な靴には美しさを感じる。


 「登攀靴、クライミングシューズって、僕らは言ってます」


 なる程、登山靴とはまるで違う。其れ以外にはまるで役に立たないであろう形状だ。


 「うち、靴屋なんです。職人じゃなくて、工場主の方の」


 無理言って作って貰ったんです、とジェイムズは言った。


 「基本は豚革です。表の方は、スウェードになってます」


 「なら、底のそれは」


 カーナーシスは問う。思えば、今日は問うてばかりいた。こんな気分になるのも、何時ぶりであろうか。


 「ゴムです。うちのラボラトリーで研究していて」


 化学工学の専攻なんです、と付け加えた。聞けば、もともと靴の素材の研究のために、親にサクソン大学に入れられたという。その役目は果たしたから、卒業後には何をしても平気だというジェイムズは、少しだけ悲しげであった。


 「それじゃあ」


 レースを丁寧に絞め終えたジェイムズは、滑り止めだという白い粉を付けた手をぱんぱんと叩いて、言った。


 「登ります」





 開始点は、左のカンテの下部であった。僅かに薄く、突き出した箇所を左手で挟みピンチ、右手を添える。右足は、僅かな岩のくぼみにつま先を掛け、左足はカンテに甲を掛けてトウフックいる。そして、


 一手目。右手を平行に出す。薄いカチ。だが、四つの指がいっぱいにかかる其れは消して悪いものではない。すぐさま左のヒールをスタートに掛けるフック。自由になった左手を、右手のやや上に伸ばす。


 二手目。外傾する3センチ程のかかりの奥、1ミリに満たない僅かな、けれども確かな段差に意識を集中させる。捉えている。そう理解すると、一呼吸ついて、ヒールを外した。

 ――振られる。当然である。ロックを失った下半身が、まるで振り子のように反対方向へ向かっていた。其れを、


 「ッッッッ――」


 ジェイムズは、叫ぶ。声にならない声である。振られて落ちたのか。否ッ――


 ――ジェイムズは静止していた。遠心力を得て襲いかかるエネルギーを、其の体幹で止めたのだ。

 其れがどれだけ困難なことか。一斉に無数の筋を浮き立たせる其の腕からも見て取れよう。

 一瞬の静寂の後、反対へ送った右足をスタンスに乗せ、ジェイムズは三手目を捉えた。


 凄い。カーナーシスは、気づいたらそう口にしていた。先程の登りも目を見張るものが有ったが、今度のものは其れを遥かに超える凄みがあった。四手目を超え、気づけば五手目を捉えていた。このまま登り切ってしまうのでは無いか。彼の動きムーブにはそう思わせる説得力があった。其れも束の間、


 「ふっっ」


 静かに息を吐いて、ジェイムズは腰を落とす。先を見ても、目ぼしいホールドは無かった。ただ一点を除いて。


 (まさか)


 飛ぶのか。あそこへ。聳える岩の、上の縁。リップまで!


 「ヒュッ」


 短く息を吸って。ジェイムズは飛ぶーー

 右手指を中心に弧を描いた肉体は、途中で上腕により引き付けられさらなる上昇力を得る。飛距離は十分にある。

 ――届いた!!


 「ガアアアッッ――」


 ジェイムズが吠える!。あの大人しい好青年が、獣と化して。左掌で最大限に生み出した摩擦で、その身を壁面に引きつけて。しかし、




 ――止めることあたわず。重力に引き付けられた肉体は、あるべき大地に吸い寄せられていった。

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