しろいもん(4/4)

 その夜は早々に風呂を焚き、夜になってから縁側で買ってきた花火をした。夜の静けさを紛らわすように、二人は手持ち花火十本に同時に火を点け、ネズミ花火で大騒ぎをし、最後は線香花火でどちらが長く火の玉を保っていられるかの勝負をした。


 幸いなことに、地面がコンクリートで固められた縁側には、あの恐ろしく朱い彼岸花は一輪も咲いていなかった。昼間、墓地から逃げ帰るようにして家に飛び込んだ二人は、それからの時間を、いつもは見ないテレビを見たり、ビールを飲み、馬鹿話をしたりして、あの花の一件にはできるだけ触れずに過ごした。


 非科学的なことを信じないという彼女は、一度だけ、秋に咲く、狂い咲きの桜の話をしようと試みたが、それも長くは続かなかった。桜は元々秋に咲くものだったという説も、花の咲く様々な条件――例えば温度であったり栄養であったり――という話も、二人の望む答えを導き出してくれそうになかった。つまり、あの瞬間、集落中の彼岸花が一斉に咲いた理由である。


 科学的な根拠があろうとなかろうと、集落で何かが起きていることは確かであった。その不気味さに、幽霊など信じない沙耶でさえ、怖がっているような様子を見せた。しかし、だからこそ二人は暗黙の了解で、最初の予定通り、若海の本家に一泊することにしたのだ。


 なぜなら墓地から帰ると、太陽は西へ傾き始めていた。しろいもんに持っていかれるぞ――それがどこにでもあるような幽霊話でも、昔行われた生け贄への罪悪感だとしても、夕暮れは危ない――そう言われて外へ出る勇気は出なかった。咲き誇る彼岸花を見ては、なおさらである。


 それに、若海はもう一つ気になっていることがあった。何度も彼を呼ぶ、呼び声である。気のせいかもしれない。空耳かもしれない。けれど、彼は自分が呼ばれていると感じていた。


 声がなぜ彼を呼ぶのかはわからなかったが、声を聞くうちに、若海はそれが恐ろしいものとは思えなくなっていた。海風に混じる声は、姉を思い出させるのだろうか、むしろ純粋に彼を懐かしがっているだけのような、そんな気さえしてきたのである。しかし――彼は隣の沙耶をちらと見て、自らに否定するように首を振った。


「明日、起きたらすぐに帰ろう」


 沙耶の線香花火が牡丹から松葉、柳、散り菊と、美しく移ろっていくのを見つめながら、若海は言った。


「帰るんだ」

「大丈夫よ」


 同じように、とうとう火の消えた花火を見つめながら、沙耶が答えた。


「帰りましょう」


 静寂に満ちる夜を、潮騒が際立たせていた。これも敏子が用意してくれていた布団を並べて敷き、二人は横になった。


「……どこにもいかないでよ」


 寝入りばな、ふと沙耶が若海の手を探り、つぶやいた。


「不吉なことを言うなよ」


 その手を引き寄せ、彼は言った。


「君を置いて行くわけないだろ」


 けれど翌朝、沙耶の隣に敷かれた布団は空になっており、若海の姿はどこにもなかった。車も、荷物も残したまま、彼は文字通り蒸発してしまったように消え――それから幾年もの月日が過ぎた。


      *


 あれからそろそろ十年になる――二人で遊んだ線香花火、その火の玉のような夕日がじりじりと揺れながら水平線の向こうへ沈んでいくのを、櫻井沙耶はじっと眺めていた。あの夏と同じように、集落中を彼岸花の朱が染め、その同じ色で夕日が無人の家々を照らしている。


 朱い彼岸花を、若海は「しろい」と言った。この咲き誇る「しろい花」は、普通の彼岸花とは違い、真夏に咲く種類なのだろうか。一人東京に帰り、調べても、そんな種類の彼岸花は見つからなかった。


「どこにも行かないって、言ったのに……」


 つぶやきは波の音に溶けていく。ずっと一緒にいる、そう約束したのにも関わらず、彼はあの夏、消えてしまったのだ。


 十年という月日の中で、沙耶は結婚をし、夫との間に二人の子供をもうけていた。優しい夫に可愛い子供たち――いまの生活に何も不満はなかったが、それでも時折、消えた恋人のことが思い出された。夫はそんな妻の悩みに気づき、高知旅行を提案して――今頃、夫と子供たちは旅館でゆっくりくつろいでいるはずだ。夕食までには帰らなくては――沙耶はため息と共に立ち上がる。すると、そのときどこからか――


 ――沙耶ーっ。


 海風に混じり、彼女を呼ぶ声が微かに聞こえた、ような気がした。


 ――沙耶ーっ。沙耶ーっ。


 もう一度、そしてもう一度。


 聞き違いではない――彼女は胸を押さえ、昏くなり始めた海に目を凝らした。すると――


 を見た瞬間、総毛立った彼女はよろけながら走り出した。白く膨れた人影――そう言った彼の言葉を思い出す。しかし、あれは――。


 視界の端に、龍神様が祀ってあるという小屋が映った。とにかくその中へ――沙耶は漁師小屋の中へ飛び込むと、隅にうずくまった。


 粗末な小屋は隙間だらけで、その隙間から差し込む朱い夕日がまだらに壁を染めている。まさか、あれは――呼吸が短く速くなるのを必死に抑えながら、彼女は見たものを思い返した。白く膨れた肌からぽたぽたと滴る海水。ごっそりと抜け落ちた頭髪。そしてひたひたとこちらに近づく足音――


「ここにいたのか」


 はっと顔を上げると、隙間から濁った目が沙耶を見ていた。口を手で押さえ、叫びを押し殺す彼女に、は嬉しそうに続ける。


「ずっと探してたんだよ」

「探してたって……」


 それならはやはりなのだ――悲鳴を上げそうになりながら、彼女は懸命に言葉を探した。


「若海くん……」

「心配したよ。さあ、一緒に行こう」


 いつのまにか溢れていた涙を拭い、沙耶はそろそろと立ち上がった。手に滑らかな木肌が触れる。ちらと視線をやると、それは龍神様が祀られているという祭壇だった。


「ここへ……ここへ来れば、あなたに会えるかもしれないって、聞いたの」


 誰に、そう問われると思ったが、彼にとってそんな問いは意味をなさないようだった。彼は瞬きもせずに――いや、そもそも彼に瞬きをする意味はあるのか――彼女を見つめていた。そうしながらも自らの手で戸を開けることはしない。


「あなたがいなくなった朝のことを覚えてる?」


 沙耶は涙声になりながら言った。


「あの朝、起きるとあなたはいなかった。一瞬、私を置いて逃げたと思ったのよ。だけど、どんなに探してもあなたはどこにもいなくって……」

「あの朝……」


 朽ちていく記憶を辿るように、彼はつぶやいた。


「あのとき、俺を呼ぶ声が聞こえたんだ――」


 彼を呼ぶ声が聞こえた。何度も聞こえた。だから――迷いながらも彼は浜へ降りていった。子供の頃は飛び降りるようにして駆け降りた石段を下り、導かれるように波打ち際まで。そのとき夜に一文字の光が走った。黎明だった。その瞬間、封じられていた彼の記憶の蓋が開いた。


「君は夏枯れの話をしたね……」


 ねとつく声で彼は言った。


「海が枯れて、魚が獲れなくなる。だから海に生け贄を捧げて……」


 夏枯れでひもじくなった集落では、普段なら食べないようなものまで食べた。


「それが、しろい花の球根でつくった、しろい団子だったんだ……」


 しろい花――彼岸花の根には毒がある。その毒を、何度も水にさらして丹念に抜き、団子を作る。若海集落を埋め尽くすほど咲くしろい花は、大切な非常食でもあったのだ。彼らはそうして命を繋いだ。そして、自分たちのために死んだ生け贄を、海からやってくる「しろいもん」を恐れた――


「しろい、はこのあたりの言葉訛りで、死霊のことなんだよ」

「死霊……」


 ざざあ、と海が鳴った。


 死霊花の死霊団子を食べなければ飢えてしまうほどの夏枯れの時期、海に捧げられた生け贄が死霊者しろいもんとなって、集落へ帰ってくる――


 沙耶が言葉をなくしていると、濁った目を見開いたまま、彼は隙間の向こうでゆっくりと首を振った。


「いや、帰ってくるんじゃない。死霊者は次の生け贄を呼びに来るんだ。死霊花が狂い咲きするのはその合図だ。それがずっと昔から続く、若海集落の伝統なんだ」


 夕日がじりじりと落ちていく。龍神様に守られた小屋の外に、海水で膨れた彼の白い、白い肌が浮かび上がる。海の中を漂ううちに内蔵が腐り、そのガスでぱんぱんに膨れ上がった水死体、その朽ちかけた白い皮膚がずるりずるりと剥けていく。


「君も見ただろう。今年も夏に死霊花が咲いている。あの年と同じだ。君と俺がここへ帰ってきた、あの年と……」


 隙間から恋人をのぞき込み、彼は言った。肉から抜け落ちた歯が、こつりと地面に落ちた。


「だから、俺と一緒に行こう。ずっと一緒だって、約束しただろ」


 話す間にも、ぽたりぽたりと海水は滴り、どろりと濁った目はいまにも眼窩からこぼれ落ちそうだ。


「……若海くん、もうこの集落に人はいないわ。貧しくもない。生け贄なんて必要ないのよ」


 震え、掠れた声で沙耶が言う。


「それに――私はこの集落の人間じゃないのよ、私にはもう……」

「なんだ、そんなことを気にしてたのか」


 海からの風向きがふと変わり、小屋の中に腐臭が満ちた。


「忘れたのかい? 墓に挨拶に行っただろ。君はもうここの人間だ」

「だけど……」

「ほら、ここを開けて」


 沙耶は棚の上に祀られた、龍神様を見上げた。死霊となってしまった彼に、龍神様に守られたこの小屋は触れることもできないらしい。それなら、しろいもんは夕暮れに海からやってくる――その話が本当なら、陽が落ちるまでのあと僅かな時間、小屋に閉じこもっていれば、彼は海へ帰っていく。家族の元へ帰るには、それまでじっと待つしかないのだ。


「ほら、早くおいで」


 彼女の思惑が正しいことを証明するように、彼が焦ったように沙耶を呼ぶ。


「……ごめんなさい」


 はっきりと沙耶は言った。


「私、あなたと一緒には行けない」

「どうして」

「生け贄はもういらないのよ。もしもそれが伝統だって言うなら、あなたで終わらせるべきなのよ。そうでしょう?」


 沙耶が言うと、彼はしばらく黙り、つぶやくように言った。


「確かにもう生け贄は必要ない。認めるよ。でも……」


 悲しそうに彼は続けた。


「君は一つだけ間違ってた。……しろいもんは生きている人間を恨み、連れて行く、君はそう言ったけど、俺は君を――生きてる人間を恨んでなんかいないんだ」

「なら、どうして――」

「……寂しいんだよ」


 つぶやくような声に、沙耶の胸はぎゅっと締め付けられるような気がした。だめよ――沙耶は自分に言い聞かせる。私は、家族の元へと帰らなければ。


 しかし、戸の向こうの彼は、助けを乞うように続けた。


「海は、寂しいんだ。寂しくて、寂しくて、たまらないんだ」


 それはやはり海水であっただろうか――濁った目からぽたり、と何かがこぼれ落ちる。つられて、沙耶の目からも涙が落ちた。彼女の目に映る彼の姿は、その言葉通り、ひどく寂しげに見えたのだ。


「いまならわかる。両親を呼んだのは姉貴だ。呼ばれて親父は行ってしまった。母はそれを知っていた。だから、俺に戻ってくるなと言った――」


 しろいもんに持っていかれた者は、しろいもんになる。寂しく海をさまよう、死霊となる。それなのに母の忠告を聞かず、彼は戻ってしまった。そして寂しくなったのだ。


「寂しい。寂しくてたまらないんだ。だから――」


 最後に一目だけ――。


 そうつぶやいて――不意に隙間から彼の目が消えた。いつのまにか、差し込む夕日も消えている。


 日は落ちたのだ。沙耶はほうっと大きく息を吐き出し、震える足をそろそろと踏み出した。


 早く帰ろう、彼女は思った。若海が消えた後も親身にしてくれた彼の叔母に、家族で一泊していくようにと勧められていたが、やはり旅館に宿を取って正解だった。俺は寂しいんだ――そうつぶやく彼の姿は、胸に切なく、これ以上、一秒たりともここにいることなどできそうもなかった。


 一呼吸置いて、彼女は軋む戸を開けた。あたりは暗く――見上げると、水平線が微かに赤く染まっている。


「沙耶――」


 あ、と思ったときにはもう遅かった。ぷんと鼻に腐臭がし、ぬるりと冷たいものが腕を掴んだ。一気に海に引きずり込まれた。


 夕日は完全に暮れてはいなかった。龍神の守りから彼女が出る瞬間を、しろいもんとなった若海が見逃すはずがなかったのだ。


 塩辛い水を飲み、叫び声もままならぬ沙耶の視界で、真っ白に膨張した彼が嬉しそうに笑った。にやけた頬肉がずるりと剥けた。


【しろいもん――完】

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