第32話 屈服
今にも飛びかかりそうなほど熱を持った目で、寛斎が目の前の男をにらみつける。稲崎が写真をしまい、大げさに両手をあげた。
「おっと。僕だって、そんなことしたくないよ。彼女、ちょっとだけ奈美に雰囲気が似てるしね」
身を乗り出して、稲崎が小声で言う。
「交換条件は、死者とコンタクトを取る方法。それと、君の特殊能力。いろいろ調べたけど、素人の僕一人では無理そうだ。……協力してよ」
にらみ合いが続く。
やがて寛斎が視線をはずし、椅子にもたれてフン、と鼻を鳴らした。
「神道系の行者から、聞いたことがある。
口調や言葉遣いが、ぶっきらぼうになっている。寛斎の眼光をものともせず、稲崎が微笑む。
「構わない。その要件を教えてよ」
ふいに投げつけられた石で水面が乱れ、寛斎と稲崎の像が消える。ただの水となった川が、絶え間なく流れていく。
「私のために……」
宮子は、となりにいる寛斎を見つめた。この人が、「宮子に手を出したら、ただじゃおかない」と言ったのかと思うと、嬉しくて、抱きしめてしまいたくなる。
寛斎が、照れたような困ったような顔で、空を見上げた。
「要件は、死者の棺、会いたいという強い想い、この世とあの世の境目にある『ふた』を開けられる霊力や
「俺も、半信半疑だった。それらしいことをして『やっぱり間違った情報だった』で済ませられればいいと思っていた。実際、最初は、通夜の席に紛れこんだはいいものの、ご遺族に追い返されたり、想いをうまく増幅できずに失敗したりだった」
噂がたつのを恐れてか、寛斎にプレッシャーをかけるためか、稲崎は通夜の席を求めて、奈良市から南下して桜井市まで来た。
「あの日、せめてもの
宮子は首を振った。守ろうとしてくれた気持ちだけで、嬉しい。
「次の日、頃合いを見て『もう諦めよう』と稲崎さんに言ったんだ。そうしたら」
寛斎が言葉を切る。
「食料の買い出しを頼まれたんだ。通夜の情報を調べてから迎えに来ると言って、スーパーで車を下ろされた。しばらくして、メールが来た。『今、三諸教本院にいるよ。柏木宮子さんと二人きりで』と、ごていねいに教本院の座敷の写真つきで」
血の気が引き、手が冷たくなる。宮子は両手を握りしめた。
あのとき、稲崎は純粋に婚約者の死を
「少し時間が経ってから、またメールが来た。『今、
祈祷中、宮子の後ろで、稲崎は寛斎を脅していたのだ。何も気がつかなかったとは。指先が震えてくる。
「
宮子は寛斎の肩にもたれかかった。頬に、彼の体温を感じる。知らないところで、自分のことを守ってくれていた。
「ありがと」
ささやくように言うと、寛斎が照れたように「ん」とだけ答える。
「そのあと、稲崎さんは、前日の夜に声をかけた桃果ちゃんから、今度は呼び止められたそうだ。あっちへ行くトンネルは見つかったの、って。母親を想う子どもの純粋な気持ちがあれば成功するかもしれない、と稲崎さんは桃果ちゃんを連れてきた」
わずかに宮子の方へ体を寄せながら、寛斎が小声で続ける。
「もちろん、俺は反対した。でも、もめているうちに、セレモニーホールでお前に見つかって、一緒に逃げるしかなくなった。もう通夜の席へ紛れるわけにもいかない。ご遺体の入った
宮子は、寛斎の息遣いを感じながら、川面を見つめて言った。
「桃果ちゃんのお父さんたち、すごく心配してるの。誘拐か、道連れ心中かって。お母さんが亡くなったばかりなのに、この上桃果ちゃんまで失うことになったらって……」
寛斎が体を離し、宮子の方を向き直る。
「すまなかった。桃果ちゃんは、すぐに俺が連れて帰るつもりだった。……でも、ここへ来て、自分の過去にとらわれてしまった」
うん、と言って、宮子は寛斎の腕を軽くさすった。それは自分も同じだ。無意識のうちに、亡き母の元へ行くことを選んだのだろう。まして寛斎なら、母親への想いや心残りは強いのだから、無理もない。
寛斎が立ち上がり、白衣や
「今から、桃果ちゃんを探す。俺が責任を持って、元の世界へ連れ帰る。……もちろん、お前も」
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