仮にそれが貴方の運命だとしても

阿井上夫

序 仮にそれが貴方の運命だとしても

 双発のターボファンエンジンが、独特の甲高い音をあげる。

 全日空八三二便はエプロンを離れ、滑走路に向ってゆっくりとタキシングを開始した。

 機内のアナウンスが、

「当機はタンソンニャット国際空港を、ほぼ定刻通りに離陸します」

 と告げたため、進藤良平しんどうりょうへいはいつもの癖で、現地時間にあわせた腕時計を確認する。すると、時計の針は確かに午後十一時五十五分の二分過ぎ、ほぼ定刻を差していた。

 すっかり東南アジアの緩やかな時間感覚に慣らされていた良平は、日系航空会社の神経質なまでの正確さに驚かされると同時に、

「成田への到着は午前七時二十五分頃になっているけど、この調子だと分単位で正確に着地させるんじゃないかな」

 と考えた。ただ、そちらの正確さはとても有り難い。

 ベトナムと日本の時差は二時間で、日本のほうが早い。従って、午後十一時五十五分にホーチミンを出発して、翌日の午前七時二十五分に成田に到着するフライトの実際経過時間は、五時間三十分となる。

 この便の前には、日本航空の羽田便が午前十一時十分に離陸しており、この便の後には、ベトナム航空とのコードシェアによる日本航空の成田便が午前零時二十五分に離陸することになっている。

 いずれも大差ない時間で日本に到着するので、料金だけ考えればベトナム航空の航空券を購入するのが一番安いのだが、彼はこれまでのベトナム取材で、常に午後十一時五十五分の成田行きを使っていた。

 費用の問題ではない。取材にかかった経費は、彼が契約している出版社から出る。

 航空会社のマイレージの問題でもない。単に、この便に乗ると一番早く自宅に戻ることができるからだ。

 むしろ、出版社からは移動時の安全や何か不測の事態が発生した場合のフォローを考えて、

「お願いですから、昼行便のビジネスクラスを使って頂けませんか」

 と、再三言われていた。

 それに、出版社に対する彼の貢献度からいえば、ファーストクラスを使ってもお釣りがくるほどなのだが、良平は、

「僕はそんな柄ではありませんから」

 と言って、夜行便のエコノミークラスを利用していた。

 彼に他意はない。

 寝ている時間も惜しいほど早く自宅に戻りたいので、夜行便を選択しているだけのことである。エコノミークラスのほうが、ラフな服装で気楽に乗ることができるからそうしているだけのことである。

 それに、彼がビジネスクラスを避けているのには理由がある。

 最初にベトナム取材に出た時のことだった。

 行きの日付は決まっていたので、自分で切符を手配した。しかし、帰りは日程がはっきりしない上に、ネット環境を望むべくもない地域を訪問する予定だったため、手配を出版社にお願いしておいた。

 すると、出版社は当然のようにビジネスクラスを準備したのである。そのことに乗り込んでから気が付いた良平は、あまりの場違いさに閉口した。

 なにしろ、周囲の乗客はきっちりとスーツを着たビジネスマンで、しかもビジネスクラスに乗り慣れたエグゼクティブばかりである。

 その中に、ベトナムの怪しげな場所から引き上げてきたままの恰好で良平が乗ったものだから、完全に浮き上がっていた。

 しかも、シャワーを借りる間もなく駆け込んだので、汗臭い匂いを全身から発散していた。慌てて離陸後にトイレで全身を拭ってみたものの、後の祭りである。

 周囲の客が顔を顰める中、彼は五時間半も身を縮めて過ごすことになった。

 以来、ビジネスクラスを利用したことは一度もない。全日空の七六七にはファーストの設定はないが、頼まれても乗りたくなかった。

 あまりにも頑なに良平がそう主張するため、出版社を訪問すると「奇妙な生き物を見るかのような視線」を感じるほどである。

 乗ってもよいと言われたビジネスクラスを、あえて固辞する人間というのは確かに珍しい。

 汗や匂いが気になるのであれば、シャワーを浴びて着替えてから飛行機に乗り込めばよい。ビジネスクラスであれば専用ラウンジが使えるし、そこにはだいたいシャワー設備がある。

 しかし、良平にはその時間が勿体なくて仕方ない。取材中はぎりぎりまで相手の話を聞きたくて仕方がなかったし、日本に戻るとなれば一刻の猶予もなく戻りたくて仕方がなかった。


 滑走路の端までたどり着いたボーイング七六七は、そこで一旦停止する。

 エンジンの回転数が上がり、甲高い音が高まって、機体が振動した。

 アジアの殆どの航空会社は、滑走路でわざわざ一旦停止することなくそのまま離陸に入る。そのために良平がちょっとした違和感を受けていると、機体は力強く前に押し出された。

 身体がシートに押し付けられる。

 良平は、身体から東南アジアの乾いた熱気がぽろぽろとがれ落ちてゆくような気分になった。

 そのまま七六七は滑らかに地上を離れ、高度を上げてゆく。

 窓から見えるホーチミンの町は、部分的に明りが灯っていたものの、大半が闇に覆われていた。近年、経済的な発展が目覚ましいベトナムとはいえ、それが国土全体に遍く恩恵を施す訳ではない。

 灯火の不均衡が格差の存在を物語っている。


 上昇時の細かい振動と重力加速度が和らぐと、軽やかな音と共に離陸時のベルト着用サインが消えた。

 途端に良平の頭は日本仕様へと切り替わる。

 ホーチミンは十一月から三月にかけてが乾季だから、十二月の日本からすると真逆の気候になる。成田国際空港内は空調が完備されているからよいとして、一歩外に出た途端に真冬だ。

 厚手の服はすべて空港のサービスカウンターに預けてきたから、着陸したらすぐに引き取りに行かなければならない。

 彼があれこれと考えている横では、消灯前の短い時間の間に必要なことをすべて済ませてしまおうと、キャビンアテンダント達がきびきびと動き始めていた。

 ホーチミンと成田を結ぶ全日空の定期便にはボーイング七六七が使用されている。座席はエコノミークラスで横に二席、通路、三席、通路、二席と配置されており、これはセミワイドボディと呼ばれていた。

 もともとアメリカの各都市を結ぶための中距離旅客機として開発された機体を、設計時にオイルショックが発生したために経済性を最優先して絞り込んだ結果である。

 ちなみに、ワイドボディの代表格であるボーイング七四七は、三席、通路、三席、通路、三席と配置されており、通路が一つしかない機体はナローボディと呼ばれていた。

 また、ボーイング七六七は操縦に必要な情報をアナログ計器ではなく、ディスプレイに集約して表示するグラスコックピットを導入した初めての機種である。

 さらに、オートパイロット機能を向上させて、従来の機長、副操縦士、航空機関士の三名体制でなければ出来なかった運航を、機長、副操縦士の二名体制でも可能とした機種でもある。

 良平は、個人的には七四七のような大らかな機体のほうが好みだし、電子化や省力化の流れは必然だとしても、緊急時対応には適さないと考えている。

「電子化により操作性が向上し、運航に人手がかからなくなったことで、アメリカ同時多発テロ事件の実行が容易になった」

 そう指摘する人もいるぐらいで、実際にハイジャックされた四機のうち、二機が七六七であり、後の二機が七六七と同時期に開発されたナローボディの七五七であった。

 何かが簡単に出来るようになったということは、必ずしも幸福に繋がるとは限らない。

 それまでは個人的な悪意に過ぎなかったものを、広く世間に垂れ流すことが容易になるからだ。


 ホーチミンから成田に向かう夜行便の機内は、ほぼ満席だった。

 成田着が平日早朝ということもあり、乗客の大半が日本人である。しかも観光目的の身軽な旅行客よりも、背広姿のサラリーマンの姿のほうが多かった。

 チャイナリスク――現時点で最も有望な市場である中国は共産党が支配しており、急に方針が変わって外国企業に不利な政策が一方的に通知されることが起こり得る。

 チャイナプラスワン――従って外国企業は、経済に陰りが見え始めた中国に見切りをつけ、次の進出先を探し始めていた。

 そして、日経企業が次の経済発展が予測される国として進出を狙っているのが、ベトナムだ。しかも、政治の中心地であるハノイよりも、経済の中心地であるホーチミンのほうに目が向いている。

 だから、背広姿の乗客の大半はベトナムの市場を狙う企業戦士だろう。本格的に進出を開始した企業の経営者はビジネスクラスを使うから、エコノミークラスに座っているのはその先兵である。

 彼らは上司からベトナムの市場調査を命じられて、日本で集められるだけの資料を鞄に詰め込んで、単身ベトナムへと乗り込んでゆく。

 そして、ベトナムの複雑怪奇な社会主義体制と未成熟な社会インフラに幻惑され、ベトナム語しか通じない一般世間に翻弄されて、僅かな情報だけを大事に抱えて日本へと戻る。

 残念ながら、その情報の中にベトナムの真の姿はない。彼らが接触したのは、英語が理解できるベトナムの上流社会の所属員であり、彼らはむしろ西洋化されているからだ。


 その時のフライトで、良平は機体のほぼ真ん中の左翼側A席に座っていた。隣は数少ない空席である。

 後ろの席にはスーツを着た三十代の男性が座っており、良平が後ろを向いて、

「シートを倒しても構いませんか」

 と尋ねると、眼を合せることもなく頷く。

 そこで彼が自分の常識の範囲内でシートをリクライニングさせると、今度は小さな舌打ちが聞こえてきた。

 ――この程度のことで舌打ちかぁ。

 彼がこれからのベトナムとのビジネスを担う企業のサラリーマンだとしたら、多分、成功することはないだろう。

 異文化の中では、自国の慣習や自分の狭い料簡は通用しない。それから外れたものを許容できるほどの、度量の大きさが必要となる。

 日本の常識は、国によっては非常識となる。清濁併せ飲むどころか、進んで汚濁した水の中に飛び込むことも覚悟しなければならない。

 ――とはいえ、自分だって人のことはいえないよな。

 少年の頃の良平も、周囲の世界の常識がすべてだった。そこから一歩でも踏み外すと、その先には断崖絶壁が広がっていると思っていたし、その範囲内でしか物事を判断できなかった。

 今でこそベトナムの猥雑な喧騒の中に入り込んで、そこで繰り広げられている現実を直視することもできるようになった。

 しかし、それが出来るようになるまでの紆余曲折で、良平はあるものを失い、あるものを得て、様々な失敗も積み重ねていたのである。

 今になって思えば懐かしい思い出だが、当時はとても辛かった。周囲の目が変わっていくことを恐怖したこともあった。

 それでも、今の自分は幸せだと思う。その苦労を補って余りある大切なものを手に入れることが出来た。

 良平が物思いに耽っていると、機内の照明が徐々に絞られてゆく。

 次第に色を失ってゆく世界の中、彼の大切なものが鮮やかな色を伴って浮かび上がる。

 それは女性の姿をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る