第2話
◇
緋時孝志は、すこし間を置いて言った。
「ちゃんと五百円入れたぞ。二本ほしいだけなのに、こんなに出てきた」
「蹴飛ばしたんだろ……そういうことする前に、声掛けな。おかげでもう、ボロボロになったんだから」
「ちゃんと声出したぞ、なあ?」
身長百八十センチある考志を盾にするように、子供が巴を見ていた。
その子は何も言わず、口もつぐんで一文字にしたままで、考志にしがみついている。
巴は膝を折り、視線を合わせて笑って「おはよう」と挨拶する。
それでも反応はない。考志がその子の頭を掴んでお辞儀させた。嫌がる様子もなく、手を離されても頭を下げ続けていた。
「俺の娘。人見知りで、あまり口をきかないんだよ」
「お名前は? いくつ?」
「ジェシカ。愛称はジェシー。国籍はまだあっちだから、日本名は無い……今年で十かな。そういや、誕生日いつだった?」
――考志は自分の娘の誕生日を忘れるという、駄目な男に成り下がって――巴は落胆した。
そして――やっぱり私は二十八で、考志も二十八。十年という時間で互いに腐った。母親の姿は見えないし、車もない。きっと二人きりで駅から歩き、ここまで来たのだろう。二キロの道のりと暑さで腐った根性が、音を上げて、ジュースをかっぱらおうとしたにちがいない――と勝手な解釈をして、巴は言った。
「アンタ、いつ結婚したの」
「十年前。言ってなかったか?」
誰も聞いてない、と口にする前に、巴に疑問が浮かんだ。
――考志の嫁はきっとあいつ。でもこの子の年齢と、結婚時期が合わない――
「まさかアンタ、高校時代に?」
「バカ、そういうことを子供のまえで言うな」
巴が口を塞ぐように手をかざすと、しゃがれ声で考志は笑った。
◇
「あれからベース買って、練習してんだ。暇だからね……でもあんたの曲、演奏不可能なんだけど。コンピューター?」
「やればできる」
巴は自販機を開けて点検し、コーラを二本、親子に差し出して、しばらく語っていた。二人はベンチに座ってコーラを飲む。
「音楽やってる人に〝your hand〟聴かせたら、プロレベルだってさ。あんなの弾けるやつの気が知れないって言ってたぞ」
「じゃあそいつに言っておけ。俺らの代表曲に意見するなら、俺に聞こえるよう堂々と言え。裏でこそこそ言ってんじゃねぇよ」
真夏の日差しを避けるように店の入り口に立ち、巴は左にいる考志を見下ろした。彼は死角になっている巴を見上げるような行為はせず、さらに左に座る娘を見ていた。
しばらく巴は音楽指導を受けた。孝志はいくつか指摘する。イントロ、Aメロからサビまでの流れを引きずらないように、ベースソロは好き勝手にすればいいと。
「曲自体好き勝手に、楽しくプレイすればいい。たとえ流れを崩しても、自分のスキルを見せ付けてオーディエンスを湧かせばな。ただ、失敗したときフォローが利くように間をつくるとか、コードを工夫するんだが……できないだろ?」
「できない。私一人だもん。で、あの長いソロパートなんだけど、譜面に残って無いから……単調なコードしか思いつかなくて。カッコ良くならないんだ」
巴は、そもそもパワーコードC、E,Dといったごくごく凡庸なものしか使えないというと、考志は笑いもせずに「いいじゃないか」と賛同した。
「コードは多けりゃいいってもんじゃない。むしろ少ないほど気持ちいい」
基本として、速弾き、チョッパー、タッピングミュートを駆使して織り交ぜ、緩急をつければいいと孝志は言う。
それぐらい知っている。どんな曲でも緩急をつける技術があればベース・パートは応用が利く。だけれど難しい、と巴がぼやくと、笑わずに考志は言った。
「練習しろよ」
巴は笑った。
――考志の考えは今も変わらない――
◇
十年前の夏休み、巴は酒屋の仕事の合間をぬって、考志の家に向かった。原付バイクを走らせ、田んぼに挟まれたアスファルトを走る。向かい風で、広がるシャツから汗が後ろに吹き飛び、恵にかかる。恵は巴のシャツをひっぱって、つめたいとうったえた。
巴は、風がそのうち乾かせてくれる、太陽が暖めてくれるから、平気だよ、と声を張り上げるが、大人用の半メットを被る恵は、目や耳まで隠れてしまい、声も聞こえないし、風景も見えないようだった。
巴はバイクを減速させ、左手で恵のメットを外した。怖いと、ぎゅっと巴の背にへばりついた。
「平気、それより、鴨がいるよ!」
二人の周囲には緑の稲穂がすくすくと生えて、その端のたまりに、十匹もの鴨がいた。それらは道路の下にあり、見下ろせた。
ここの道はほとんど一直線で、森に向かっている。対向車もないから、ぶつかることはない。そう言うと恵はゆっくりと身を乗り出し、わあっと声をあげた。
「がーさん、がーさんだ」
恵はアヒルも鴨も、水に浮く鳥をひっくるめて、がーさんと呼んでいた。象やキリンは、ぼーさん。幼稚園のころ擬音化して覚えてしまい、小学校にあがってもそのくせが抜けていなかった。これでよくいじめられていた。近所の人も、すこし陰りを帯びた顔つきで恵を見ていた。
巴もその一人だった。恵にとっての個性、長所かもしれないからと言い分けをつけて。
「がーさん、なにしてるの?」
「ご飯食べたあとだね。お休みしてるの」
「まだ、はっぱが青いのに?」
恵は稲穂を食べていると勘違いしたらしかった。
巴が、そうじゃなくて虫を食べているのと言うと、恵はきゃっきゃと笑った。
「すごいね。がーさん、お手伝いしてるんだね」
――無農薬栽培や合鴨農法とか、そんなことは知らない。こういうのが直感、純粋である証明――巴は誇らしくなった。
母親の代わり、父親の代わりと自称していた巴は、この子を私は育てられるのか、不安もあった。
風が吹く。夏風がさっそうと道を駆け抜け、巴にぶつかる。髪ばかりでなく、涙も拭ってくれた。
巴は泣いていた。
バイクに乗って、鴨が集う田んぼを観て、笑う妹を見ていただけなのに。
メットを恵に被せて、再びバイクを走らせた。
「ちょっと、スピード出すよ」
巴は返事も聞かずにアクセルを回す。森に向かって原付バイクで時速七十キロも出して、恵は何度も巴のシャツを引っぱった。
そのとき巴は、車にぶつかって玉砕するという漫画のエピソードを思い出して、作中の不良の気持ちがすこしわかった。何かに行き詰ったときは、思いっきり別のことをするという芸術家の言葉も実感できた。
――私は、いま、恵のことで行き詰っている。いじめもそうだけれど、学業がどうにもならない。隣町の塾にも連れて行った。極度の人見知りで、男性恐怖症が一時間も教室に恵を滞在させなかった――恵は喘息に似た症状を引き起こしてしまい、その日に塾長から病院を紹介されてしまった。もちろん巴は抗議した。
結局、普段から世話になっている冬月に、メンタルケアとして週三日、通い始めた。男性恐怖症はやはり父にあるのだろうと言われた。
少しずつ治すしかない、人見知りも比例して良くなる、知能は別段、問題ありませんと。
「恵ちゃんは、ちゃんと象を象と判断できているの。理解してあげて」
冬月が言うには、小さい頃はだれでもあるはずのことで、テレビ・ヒーローのオモチャを手にして成りきってしまうことと同じという。昔、象を「ぼーさん」と言って可愛がられた記憶があり、それを連呼して愛してもらおうとする癖がついたと。
――私が、かまいすぎた。親ばか、いや、姉ばか――巴は吐き気がした。シスター・コンプレックスや近親相姦を連想してしまった。
――けれど、恵は一人で生きていけない――巴は周囲の他人と会わせ、相互理解させようと試みた。成功したのは、同級生の桜と美月だけ。冬月を含めて、全員が女性だった。
――このままではいけない――その日、巴は、少し荒療治を施そうとした。
――美月の弟、孝志に会わせ友人関係にさせる。失敗したら、倒れて私から離れていってしまうかもしれない――巴にとって博打だった。
バイクを神社の前で止める。恵の手を引いて、ざわめく木々の下を歩き、平坦な境内を歩く。
お稲荷さんを祀った社に、巴は一礼して手を合わせた。
恵に嫌われませんように、と願った。
「おねえちゃん、五円玉ちょうだい」
相変わらずシャツを引っぱる恵に、巴が五円玉をやると、それを賽銭箱にほおり投げて、恵は願い事を声に出した。
「おともだちができますように。おねえちゃんと、ずっといっしょにいれますように。それから九九の、六の段が――」
巴は、たった五円でそんなに叶えてくれる神様じゃない。よく知らないけれど、お願いごとは今度、別の神社でしようと。
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