ドレンテの島

有折はべり

序章 砂上スクーター

序章 砂上スクーター

 パラパラと降ってくる砂に気づき、男は天井を仰いだ。すると、天井にぽっかり空いた細長い穴から見上げた先、飛んでいる鳥の更にその上に、小さな黒い点が見えた。あれはいったい何だろうと目を細めるが、小さすぎて判然としない。それでもじっと見上げていると、黒い点はぐんぐんと大きさを変えた。肥大化している。いや、近づいてきているのだ。

 ――こうしてはいられない

 男は箒と塵取り、そのどちらをも放り投げて駆け出した。急いで砂上に出て、あの落下物を回収しなければならない。それが男に任された仕事なのだから。

 暗い土壁に勢いよくぶつかりながら右へ曲がり、砂まみれの階段を一段飛ばしに駆け上がる。果たして飛び出した先、どこまでも続く砂漠の上で、太陽が馬鹿みたいにギラついていた。

「見えない!」

 矢のように襲い掛かる陽射しが、男の視界を妨げる。慌てて保護ゴーグルを被れば、落下物はまだ空中にあった。だが、砂中から見上げた時よりも明らかに大きくなっている。目を細めなくとも、人型をしているのがはっきりと分かる程だ。

 男は、目の前の砂上スクーターに飛びついた。誰の物かは知らないが、運のいいことに鍵がさしっぱなしになっている。グリップを思い切り捻ると、跳ねるようにエンジンがかかり、その勢いで前輪が天を仰いだ。

 ――当たりだ

 年寄り向けのではない。馬力のある、れっきとした砂上スクーターだ。男は、ペロリと上唇を舐めた。浮いた前輪をそのままに、ストッパーのスタンドを蹴飛ばせば、砂上スクーターは駿馬もかくやと駆け出し、盛大に砂を巻き上げながらぐんぐん前に進んで行く。目指すのは、落下物の落下予定地だ。

 その落下物をチラリと見上げて、男は奥歯を噛み締めた。何故だか無性に胸が高鳴っている。毛穴という毛穴から、感情が針になって飛び出さんとしているかのように、強烈に血肉が沸き立つのがはっきりと分かる。初めての体験だった。

 ビリビリと痺れる両手を叱咤して、グリップを更に捻ると、砂上スクーターがギュワンと鳴いた。目的地はもうすぐそこだ。落下物も、もう細かな所まで判別できる程落ちてきている。男はまた上唇を舐めた。あまりのスピードに、舌が風に持っていかれそうだが、それも気にならないぐらいに興奮している。

 ――初めての""でもないのに

 男は更に更に唇を舐めた。落下予定地は、もう目と鼻の先に迫っていた。力の限り握りしめた両手を、今度は目一杯仰け反らせる。そして勢いに乗せてブレーキレバーを握り引けば、砂上スクーターは断末魔の叫びを再現するかの如く酷い音を立てて暴れ出した。投げ出されないよう必死に喰らいつくが、上手くはいかず、弧を描いて投げ出される。右半身に衝撃が走り、そのまま砂の上をズズズッと体が滑っていく。

「いってててて……」

 倒れた体を起こすと、強くぶつけた右肩が痛んだ。だが、それだけだ。男は立ち上がり、空を見上げた。途中、横倒しになった砂上スクーターが目に入ったが、今はそれよりも落下物が気になった。

「おお……」

 落下物は、手を伸ばせば届きそうな位置まで降りてきていた。その位置で、浮いたり沈んだりを繰り返しながら、徐々に徐々に高度を下げている。男は落下物に走り寄った。両腕を前に突き出して、右へ踏み出したり左へ踏み出したりしながら、落下物を受け止めようと待つ。そんな男の元へ、落下物はゆっくりと降りてきた。

「うおっ、とととっ!」

 ようよう腕に触れる。そう思った瞬間、落下物が突然正しい重力を思い出した。おかげで男の身体はガクンと沈み、膝が砂に埋もれた。落下物が腕からこぼれそうになったが、なんとか抱き寄せ、その細い身体を胸に抱き込んだ。

 落下物は、やはり""で、そうして女の子であった。

 気は失っているようである。ガクリと身体が揺れたのにもかかわらず、呻き声一つ上げないのだ。意識がよっぽど深いところにあるのか、もしかすると、危険な状態なのかもしれない。男は、恐る恐る落下物であった""の口元に頬を近づけて、その息を確認した。小さいけれど、しっかりと安定したリズムで呼吸をしている。血色も悪くない。白い頬に、うっすらと赤みが差しているのが見て取れる。ただ気絶しているだけのようだ。ホッとして彼女の顔をまじまじ眺めると、小作りな白い顔にドキドキと胸が脈打った。

 慌てて体を離し、男はギグシャクしながらも、彼女の肩を優しく揺すった。反応はない。ならばと少し強く揺する。それでも彼女の瞼はピクリともしない。

 「もしもし、おーい」

 声をかけても、やはり反応は得られない。男は諦めてマントを脱いだ。そうしてその袖を彼女の細腕に通していく。彼女は肩下の袖がひらひらした薄い服に、カーキ色の短いズボン、そしてそのズボンの下に黒いタイツのようなものを履いていた。見覚えがあるような気がするが、名前が出てこない服だ。それでも陽射しの強いこの砂漠にそぐわないことだけはすぐに見当が付いた。

「ちょっと待ってて」

 目を閉じたままの彼女を砂の上に寝かせて、男は横転したままの砂上スクーターに駆け寄った。力を込めて掘り起こせば、エンジンの鼓動が戻ってきた。変な音もしない。壊れてはいないようだ。また安堵の息が出る。すっかり失念していたが、こいつがいなければ、ギラつく陽射しの中を、彼女を負ぶったまま歩いて帰らねばならないのだ。

「いよいっしょ」

 腰ベルトに引っ掛けてあったロープを使い、気絶したままの彼女を己に巻き付けて、男は砂上スクーターに跨った。グリップを握る。行きとは違い、ゆっくりと滑るように砂上スクーターを走らせて、男は、己の肩口に顔を埋める彼女を振り返った。

 目を閉じているが、可愛い顔をしていると思う。彼女の温かな体温が背中越しに伝わって、男の胸の奥にじんわりと火が灯るようだった。だが対照的に、指先からはどんどん熱が消えていく。男は彼女から目を離し、前を向いた。


 不思議な気分だった。

 男は、先まで、体験したこともない程の興奮に襲われていた。それはたぶん、悪い感情ではなかった。

 でも今はどうだろう。

 身を焦がすような興奮はまだ確かに残っている。そこにじんわりとした温かな熱が混じっていくことも感じている。

 けれども、それだけではなかった。何か言い知れない、漠然とした不安に追いかけられるような、そんな冷たい感覚が、指先から心臓めがけて這い上がってくるのも感じるのだ。

 ――これはいったい何だろう

 男は目を細めた。これまでになかった、何か、特別なことが始まりそうな、そんな予感が彼を包んだ。

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ドレンテの島 有折はべり @ariorihaberi

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