男と少女
山川 まよ
1
「…どうしたんですか?」
カチャリ。
「もういい」
カチャリ。
「どうして?」
カチャリ。
「うるさい…」
「でも」
「うるせえっつってんだよ!!!!」
ひゅんと空気を切る音とともに、何かが頬を掠めた。
壁に激突した文庫本は、椅子に座った少女の足元にごとりと落ちる。
「…大切な本じゃなかったんですか、それ」
長いまつげに縁どられた大きな瞳は、肩で息をしている男に相も変わらずじっと向けられていた。
舌打ちをして、いらついた足取りで本を拾いに行く男。
「よくタイトルが見えたな」
精一杯皮肉めいた口調を装っているが、その声は微かに震えている。
少女は微笑み、小首をかしげた。
「だって、ずっと手に持っているから」
男はふんと鼻を鳴らし、パソコンデスクの前にある椅子にどっかと腰を下ろした。
なんとなくページを開いたが、その目は文字を追っているようには見えなかった。
しばしの沈黙のあと、少女は再び口を開いた。
「連絡、しないんですか」
「お前が気にすることじゃない」
「でも、もうするって言ってた時間になります」
その言葉に、自分の左腕にちらりと目を向ける。少女の言う通り、もう約束の時刻の少し手前を指していた。
軽く息を吐き、男は準備を始めた。
約束の時間きっかりに電話をかけ、淡々と相手に要件を伝える。
その間少女は下を向き、静かに目を瞑っていた。
首についている鎖が、微かに音を立てた。
「また連絡する」
通話を終了し、男は軽く目頭を揉んだ。
慣れないことをするのは、やはり疲れる。
珈琲でも入れようと席を立ち、ふと少女に声をかけた。
「なあ。ずっと気になっていたんだが、何故お前は時間がわかる? 時計は見えないはずだろう」
久々に男に投げられた質問に、少女は心なしか嬉しそうに微笑しながら顔を上げた。
「私の心臓ね、1秒ごとに脈を打つんです」
「…1秒ごと?」
「そう。1分に60回、1時間3600回、一日に86400回。
ずっと一定のテンポで、脈を打ち続けるの。
気づいてからずっとそれを数えていて、今では寝てる時でも数えられるようになっちゃった」
コロコロとたまを転がすような声で笑い、少女はほんのりと頬を赤らめた。
白い肌が微かに色づくその様子が、不覚にも男にはとても美しく感じられた。
「…何故、数えてるんだ。そんなもの」
素朴な疑問を率直にぶつける。
すると、少女はぴたりと笑うのをやめ、大きな一対の瞳で男の目を真っ直ぐに見つめた。
ガラス玉のような目をしていた。
「そうしていないと、生きていると感じられないから」
そっと息を呑む男。
少女の小柄な、細い身体を見つめた。その内部にある、恐らくは小ぶりな心臓を想像した。
「でもね、最近疲れてきちゃったの」
小枝のように細い、しかし美しい両脚を少女は投げ出した。
その足首にも鎖は巻き付けられていて、その部分だけが異質に、鈍く光っていた。
「1日中、寝てる時も、起きてからも、86400まで数えるのって、結構大変なんです。
習慣になったら楽だっていうけど、あれは嘘ね。頭の中にずうっと時間があるの。私算数苦手なのに、止めたいって思っても癖になってて止められないし」
ふうっと細く吐いた少女の息が、絹糸のように細く、伸びていった。
薄い唇から、言葉は漏れ続ける。
「自分で止めようともしたんです。でも、やっぱり上手くできなくて。
止めたい、止めたい、止めたい、気が狂いそうだった」
ギシッ。
カチャカチャッ、カチャリ。
「そしたら、おじさんが私をここに連れてきてくれたの」
肩で大きく、息をついた。息を止めていたのだ、と、そこで初めて気づく。
虚ろな空間から、まさぐるように言葉を探した。
「怖く、ないのか」
陳腐な言葉だと、言ってから後悔する。
しかし少女は気にする風もなく、伏し目がちに首をかしげた。
「怖く……はない、かな。」
「どうして」
「……だって」
少女の腕に余る鎖が、宙に浮く。
「ひとりじゃないもの」
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