第6話 とろける笑顔のチーズ【前編】
「いらっしゃいませー!」
昼間のカルム食堂に鈴の音のように透き通った声が響く。
給仕をしているエルフ族の少女ヒスイが来店した新たな客を元気の良い声で出迎えたのだ。
食堂の店主カルムはヒスイの声に反応して視線を来店したばかりの客に目を向けた。
「いらっしゃ……、ってゲルタさん?」
やってきたのはゲルタという無精ひげを生やした男だった。カルムより一回り歳を取っているが老けているわけではなく、30代相応のおじさんという感じの男だ。
顔見知りではあるが、ゲルタは働き者で普段から忙しく食堂には過去に一度も来たことのない人だったためカルムは思わず声に出して驚いた。
「珍しいですね。ゲルタさんがうちに来るなんて」
「んん……。あぁ……、まぁな。」
ぶっきら棒な返事だけが返される。
ゲルタはチーズ作りを生業にしている職人だ。
彼の実家は見晴らしの良い高原にある畜産農家で、元々真面目で働き者だったゲルタは若い頃からチーズ作りにのめり込んでいた。やがて自分の作るチーズに自信を持った彼は数年ほど前に独立してこの街にやってきたのだという。
チーズ作りに人生を捧げた彼の作るチーズは味や香り共に評判が良く、人の多いこの港街でもそこそこの人気なチーズとして有名だった。
もちろん、カルム食堂でもゲルタの作ったチーズを仕入れている。
「いらっしゃいませ、水とおしぼりをどうぞ」
「……ああ」
ドロシーが席に着いたゲルタに水とおしぼりを出すがやはりゲルタの反応は薄い。
出されたグラスを手に持ち、思い詰めたようにそれを見つめていた。
どこか無気力というか落ち込んでいるようにも見える。
「ゲルタさんどうしたのかしら?」
「う~ん……」
ドロシーもゲルタの様子の変化が気になったのかこっそり耳打ちをしてきた。
カルムが知っている限り、ゲルタはつい最近まで忙しくも充実した日々を送っていたように見えた。
チーズの評判は相変わらずだし、これといって問題が起きたという噂を耳にした記憶もない。
「ゲルタさん、何かお作りしましょうか?」
「そうだな……。この店にはメニューとかあるのか?」
「一応ありますけど、お客さんの要望があるならその要望に沿ってなんでもお作りしますよ」
最後に「食材があればですが」と付け加えると、ゲルタは「ほぅ…」と関心したように目を細めた。
「じゃあ、酒。……あとはチーズを使ったもん適当にくれ」
「お、お酒ですか!?」
「なんだ? この店は昼間に客へは酒を出せないのか?」
「いえ、そんなことはないですが……」
まだ昼間だというのに迷いなく酒を頼んだゲルタ。やはりおかしいと確信する。
カルムの中でゲルタという男はそれだけ真面目な働き者というイメージが強かったのだ。
「やっぱり、おかしいわね。今日のゲルタさん」
「そうだね。何か思い詰めてる感じもしていたし」
お酒を取りに一緒に厨房へとやってきたドロシーも同じくゲルタの様子の変化が異常だと確信を持ったのか、低温の
ドロシーが取り出したのは西の方で作られた香りも良く渋みと辛味が特徴でチーズにも良く合う赤ワインだ。
ドロシーはドワーフ族の女性なので見た目こそ子供だが実年齢はカルムよりも年上だ。お酒も当然のように嗜んでいる。これはそんなドロシーが選んだチーズに合うお酒だった。
「ゲルタさんにはいつもお世話になってるから、もし悩みを抱えているなら助けになって上げたいけど」
「やめておきなさい。……とは言わないけど、本人が自分から喋るのを待った方が良いかしらね。人の悩みを自分から聞いておいて、何も出来なかったら
「……そう、だね」
カルムの姉、ドロシーも大概お人好しだがそれはあくまで頼られた場合だ。家族などの近しい立場の人以外には自分から他人の悩みに首を突っ込んだりしない。
それが
しばらくして、カルムが出来上がった料理をゲルタの元に持っていくとゲルタは先にドロシーが持っていったワインを既に半分も空け、頬を赤く染めて料理を待っていた。
「お、きたきた。待ってたぜ」
酒に慣れてない様子なのが
この様子だとアルコールの強い
「お待ちどうさま。チーズをふんだんに使ったチキンドリアです」
カルムが作ったのは味付けしたライスにホワイトソースとチーズを乗せ、
人によってはライスグラタンとも呼ばれるこの料理の中にはライスのほかに肉厚のキノコと皮がパリパリに焼かれたチキンが入っている。
出来立てなので表面のカリカリに焼けたチーズの下で、ホワイトソースと溶けたチーズがまるで溶岩のようにグツグツと動いていた。
「……ははっ、見ろよカルム。チーズがまるで生きてるみたいだぜ。それにこんなにトロトロだ! ああ、美味そうだ!」
溶けたチーズにゲルタは気分を良くしたのか、まるで子供のようにはしゃいで更に酒を飲んだ。
「香りも良い。色も良い。もちろん味もだ。おい、これはどこのチーズを使ってるんだカルム」
「もちろん、ゲルタさんが作ったチーズを使ってますよ」
「ああ、そうともさ。こんなに美味いチーズを作れるのは街中探してもこの俺だけだろうよ!」
そして、酒を飲み誇らしげに笑う。
食べる。はしゃぐ。飲む。笑う。食べる。はしゃぐ。飲む。笑う。
そんな風にドリアと酒を楽しんでいたゲルタだったが、しばらくして唐突に食べる手を止めた。
「……っ、美味い、はずなんだがな……」
グラスに残った酒をクイッと仰ぐように飲みこむと、ゲルタは店に来たときのように落ち込んでしまった。
店内を見渡せば客の姿はゲルタ以外にはもう居ない。
「ゲルタさん。……その、言いたく無ければ無視してもらって構いません。……何かあったんですか?」
カルムは思い切ってゲルタに尋ねてみることにした。やはり、知り合いが悩んでいるのに放って置くなんて出来なかった。
たとえ何も出来なかったとしても、手を差し伸べることすらしなかったらきっと後悔をする。そんな想いでカルムはゲルタに尋ねた。
ゲルタは一度カルムの目を見たあと、しばらく考え事をするかのように黙って空になったグラスを弄ぶ。
「…………、実はもうすぐ結婚するんだよ俺」
やがて重たい口を僅かに開いてカルムにそう告げた。
「あ、……え? 本当ですか!? それは……、おめでとう、ございます?」
しかし、意外にもゲルタが口に出したのはおめでたい話だった。真面目で働き者のゲルタがいつ嫁をもらってもおかしくは無いという話はカルムも良く耳にしていたので喜ばしくはあるものの驚きはそこまででは無かった。
「……相手はリアナって言ってな。娘を養うために女手ひとつで毎日ヘトヘトになるまで働いてる人だ。……俺ぁそんなリアナをたまたま見かけちまってな。どうにも放って置けなくて、気がついたら好きになっちまってた。……んで、いつしかリアナの方も俺に心を開いてくれるようになって、この間ついに結婚の約束をな。……優しくて、芯が強い。俺には勿体無いぐらいの人だよ」
ゲルタは徐々に
婚約相手には娘が居て、旦那の居ない女性。そこは部外者である自分が深く踏み入らない方が良いことだとカルムは思い、そのままゲルタの言葉に耳を傾けることにした。
「アンナ……、ああ、リアナの娘でアンナって言うんだが。これがまた可愛い子でな。まだ5歳程度で、俺のことも最初は警戒してたんだが今じゃすっかり懐いてくれてよ。今じゃゲルタパパとか呼んでくれるんだぜ」
「えっ……と……?」
しかし、ゲルタの口から出るのは惚気話ばかりだった。さっきまで思い詰めていたゲルタはどこに言ったのか、すっかり悩みのことなど忘れて上機嫌で嫁と娘の自慢が始まる。
実際に二人の話をしている今は悩みを忘れているのだろう。それほどゲルタの表情は朗らかで幸せそうだった。
「この間なんか二人で俺に会いに来てくれ――、……って、ああ、すまない、そうじゃないな」
「い、いえ、ゲルタさんがその二人をどれだけ愛してるか良く分かりました。ただ、聞いた限りだととくに問題無いように思えますが」
婚約相手のリアナさんは今の話を聞いた限りでは悪い人でも無さそうだし。さらに妻と同時にアンナちゃんという可愛い子供まで出来る。仲も聞く限り悪くない。そして、ゲルタもそれを喜んで受け入れている。悩むどころか今は幸せの絶頂と言えるだろう。
「その……えっとだな、そのアンナのことなんだが、その……な」
歯切れが悪そうにゲルタがごもる。どうやらここからが本題のようだ。
「……どうもチーズが嫌いみたいなんだ」
「…………はい?」
思わず
ゲルタはそんなカルムに気づかず深いため息を尽き、喋りすぎて乾いた喉を潤すために再びグラスに酒を注ぎ、口に含んだ。
「俺はチーズ作りが生きがいの馬鹿野郎だ。チーズ作りこそ俺の全てだと言っても過言じゃねぇ。だけど、これから娘になる子がチーズが嫌いだって言うんならいっそのこと……」
ここまで聞いて、ゲルタが何をそこまで思い悩んでいるのかがようやく理解出来た。自分の全てとも言えるチーズ作り。そんなチーズを嫌いだと言う娘のアンナちゃん。
ゲルタは真面目過ぎる性格ゆえにその両方を天秤にかけようとしているのだ。
「なぁ、カルム。俺はどうしたら良い? 娘のためにチーズ作りなんて辞めた方が良いのか?」
「いやいや、さすがにそこまでしなくても……」
単に娘のアンナがチーズが嫌いというだけの話で、そこまで極論的な話では無いはずだ。
そもそも、チーズが嫌いだからチーズ作りをしているゲルタも嫌いだと言うのならアンナがゲルタに懐くはずが無いし、二人でゲルタの元に会いに来るはずもない。
これは、ゲルタの真面目すぎる性格のせいで勝手に明後日の方向に迷走しているだけの話だった。
「だがよぅ。俺はチーズ作りしか才能がねぇ。チーズ作りを辞めちまったら何をすりゃ良いんだ」
「ゲ、ゲルタさん、とりあえず一度深呼吸して落ち着きましょう。そんなに思い悩む話じゃないですよ」
もはやゲルタは話を聞いていない。完全に酔っ払いのそれだ。こうなるととことん酔いつぶれるまで終わらないだろう。
だが、それだけアンナがチーズ嫌いだったという事実がショックだったということだ。
「…………はぁ。それとも、血の繋がりがねぇと家族にはなれねぇのか」
すっかり弱気になってるゲルタがそんな言葉をポツリと漏らす。
その時だった。
突然ゲルタの身体が宙に舞い、床に強く叩きつけられたのだ。
ドシンッ!という大きな音にテーブル席の拭き掃除をしていたヒスイがビックリしてこちらを見る。
「ふざけたこと言わないでッ!!」
ゲルタを投げ飛ばしたのはいつの間にかゲルタのすぐ近くに立っていたドロシーだった。
「ちょっ!? 姉さん!?」
片手には水差しが握られている。酔っ払い気味だったゲルタに水のおかわりを淹れようと持ってきたのだろう。
ゲルタは突然のことに何が何やらといった感じで混乱していた。
しかし、ドロシーはそんなゲルタにお構い無しで水差しをカウンターに置くと胸ぐらを掴み詰め寄った。
「あなた、それでもこれから父親になる男なの!? くだらない理由で甘えてるんじゃないわよ!」
「ド、ドロシー!? ストップ! ストップー!!」
「姉さん落ち着いて!」
慌ててカルムとヒスイがドロシーを止めに入る。チカラはあっても体格の小さいドロシーはすぐに引き離された。
「離しなさいカルム! ヒスイ! この大馬鹿者を殴れないでしょ!」
ドワーフ族であるドロシーが殴ったらゲルタは怪我どころでは済まないだろう。カルムは必死でジタバタと暴れる姉をヒスイと共に押さえつけた。
普段から少し子供っぽくてムキになるところがあるドロシーだが、こうして表立って怒るのは初めてだった。
これまでも質の悪い酔っ払いや態度の悪い客など手に負えない客が来たこともあったが、ここまで本気で怒ったことは一度も無かったというのに。
「てめぇ、ドロシー! 俺のどこが甘えてるだって!? くだらないってなんだ! 俺は真剣に家族のことを考えてるだよ! 考えてるから悩んでるんだろうがっ!」
「家族のことを真剣に考えてるですって? 笑わせないで! あなたが悩んでるのは自分のチーズのことだけじゃない! 家族のことなんかなんにも見ちゃいないわ!」
「ね、姉さん」
「娘のアンナちゃんが、いつあなたを拒絶したかしら!? チーズが嫌いだから作ってる人とは家族になれないって言ったのかしら!? あなたが一方的にアンナちゃんのチーズ嫌いを嫌だ嫌だとワガママ言ってるだけじゃない!」
「ぐっ……、この……!」
「あまつさえ、血の繋がりが無いと家族になれないとか、ふざけたことを私の前で言わないで! そんなもの無くったってね家族には慣れ――」
「ドロシーごめんっ!!」
ゴンッ! と鈍い音が響く。
ヒスイがドロシーの持ってきた水差しの水を魔法で凍らせ頭部を殴打したのだ。
カルムもゲルタもその光景に呆気にとられて言葉を失う。
ドロシーが「きゅぅ~……」と声を出してその場に倒れるとようやく店内に静けさが戻った。
「……っと、ゲルタさん大丈夫ですか? すみません、うちの姉が……。普段はこんなことはしないんですが」
ドロシーの介抱はヒスイに任せてカルムは冷やしたおしぼりをゲルタに手渡す。
「…………いや、……俺も少し、感情的になりすぎてた。……すまなかったな。お前の店で騒ぎを起こしちまって」
「いえ、これは姉の責任ですから、ゲルタさんは気にしないでください。むしろこちらが謝罪しないとイケナイことです」
ゲルタは受け取った冷たいおしぼりを額に当てて、しばらくぼんやりと食堂の店内を見上げた。釣られてカルムもその視線を追う。
「…………良い店、だな」
「……え?」
唐突に、ゲルタがポツリと呟いた。
「客を暖かく迎える木造の内装。広すぎず狭すぎない席の間取り。それに、よくよく見れば見やすい位置にメニュー表もかけてやがる」
突然、店のことを褒め始めたゲルタの目は先ほどと打って変わって冷静さを取り戻していた。
ひとつひとつ、ゆっくりと言葉にしてゆく。
「この店は客のことを考えてやがる。……だと言うのによ、俺はここに来たときには何一つ気づかなかった。ドロシーの、……お前の姉ちゃんの言う通り、俺は自分のことしか見て無かったわけだ」
「そんなことありませんよ。ゲルタさんも二人を想っていたからこそ悩んでいたんです。……本当に自分のことしか見えてない人は悩んだりしませんよ」
「ははっ。言うじゃねーかカルム」
ゲルタは「どっこいしょ」と言いながら身体を起こすと財布から銀貨を数枚取り出してそれを手渡した。
酒とドリアの代金としては多すぎる額だ。
「迷惑かけたな」
そう言ってゲルタはゆっくりと店の出入り口へと向かう。
「待ってください!」
しかし、カルムはそれを引き止めた。
まだ、解決してないことがあったからだ。
「ゲルタさん。明日の昼過ぎ、この店に来てください。今度はアンナちゃんたちを連れて」
「あ? なんだってそんな――」
「俺が、アンナちゃんがゲルタさんの作るチーズを好きになるようにしてみせます!」
今回の件は思い悩んでいるゲルタに理由を聞いたのが始まりだった。なら、その責任を出来る限り果たす義務があるとカルムは思った。
ただ話を聞いただけで何もしないのでは今そこで倒れている姉の言葉通り、野次馬と一緒だ。
なにより、これから幸せを掴もうとしてる人に笑顔でいてもらいたかったからだ。
ゲルタは一瞬驚いたような顔をしたが、そのあとすぐに微笑むと片手を上げて無言で店を出ていってしまった。
「ドロシーしっかりしてー! 死んじゃやだよー!」
「きゅぅ~~……」
店には鈴の音のように透き通ったヒスイの必死に介抱する声がだけが残った。
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