大森4

 翌日。

 大森の妹、梓に彼のことを任せたとはいえ、不安を拭えなかったサクラコは若干寝不足であった。

 他人の夢は幾度も覗きみている癖に、昨夜自分が見た夢の内容はイマイチ思い出せないのだった。


 そして、学校に着くと、案の定不安が的中してしまった。

 大森はサクラコが教室に到着した途端、いきなりがっしりと腕を掴んできた。

「ひゃっ」

「く、来るんだ!」

「え?」

「い、いいからくるんだ!」

「ちょっと、痛っ」

 初めは抵抗しようかとも思ったが、大森がどのような行動に出るのか分析するチャンスでもあると思い、サクラコは彼に従った。また教室では外野が何か黄色い調子で騒めいていたが、この際もう気にしても仕方がないと諦めていた。幸い、智美はまだ登校していないようだったので、事が大きくなることもないだろう。

 大森に掴まれるがままのサクラコは、今来たばかりだというのに教室を後にする。そして、とある場所へと連れてこられた。そこは、体育館二階に設けられている男子バレー部の部室だった。


 大森は藪から棒に部室のドアを開けた。

 目の前の光景に思わずサクラコは目を覆う……フリだけをする。

「あらやだ」

「うわっ、ちょ、いきなり開けんなよっ!」

 丁度、朝練が終わり着替え中だった男子バレー部の面々。

 だが狼狽したのは一瞬で、彼らは大森の顔を視認すると態度を一変させた。

「あ? 誰かと思えばクソ森かよ。てめえ、クソ森、どうなるかわかってんのか?」

 当然と言えば当然だが、彼らは立腹した。

 しかし、「クソ森」とは、優秀な学生が集うこの学校の生徒が酷い言葉遣いだ。そしてそのあだ名は、今着替えを覗かれたことで突発的に出た罵りには聞こえなかった。ずっと前から使い慣れているような口調だ。

 と、いの一番にそう返してきた長身の男子生徒をサクラコは睨んだ。確か三年生の先輩だったような気もするし彼が部長の某君だった気もするが、特に取るに足らない容姿だったので記憶が曖昧である。もとい、それはバレー部全員に言えることでもあったが。

「う、うるさい、黙れ!」

 大森は、まるでやられ役の下っ端戦闘員の様だったが、必死に彼らに向かって叫んでいた。

 いったい、ここにきて、彼らを怒らせるような真似までしてどうしようというのだろうか。

――まさか大阪君には男子の生着替えを堪能する趣味が……。

「こ、これを見ろよ」

「え、ちょっと……」

 そんな風に考えていると、サクラコはまるで、オークションの目玉商品であるかのように、大森によって、バレー部員達の前に押し出された。

「あ?」

 バレー部一同はサクラコに注目した。そして彼らの表情は怒り顔から瞬く間にニタニタした表情に変化した。

「うわ、サクラコじゃん。学校一エロ可愛いって噂の」

「うわ、胸やべえ」

 思春期の男子中学生の好機の眼差しを一心に浴びて、サクラコはたじろいだ。

「下品ね、あなた達。この学校の風格をもってしても、やはり男子とはこの程度なのかしら!」

 などと、お嬢様のような口調で言い返してやりたくもなったが、どうも、大森が何か続きを言いたそうだったので、それを見守ることにした。それに正直なところ、やっぱり体育系の男子達はどこか怖かったので、サクラコは若干一歩引いて、すぐさま大森の背中に隠れた。

「い、いや、来るんだエンジェル」

「え、ちょっと……」

 だが、また部員達の前に押し出された。

「いや、おかしいでしょ、この立ち位置!」

 なんであなたよりも私が最前線に立たされるの! と、サクラコは二の口を継ごうと思った。

 しかし、大森の方を向いた途端。

 ぶちゅううううううううううう。


 と、サクラコは突然大森の唇による熱い接吻を受けた。

 は?


 サクラコはカァっと、光速の速さで頬が茹蛸のように赤くなり、脳が沸騰して蒸発するかのようであった。

 大人びた風を装っているが、当然のことながらサクラコにキスの経験などはなく、不本意ながらこれがファーストキスというものだった。

 バレー部員達は突然の出来事に唖然とした表情で立ち尽くす。

 そして、時間にすればわずかのこと、しかし体感的に非常にロングに感じられたサクラコと大森のキスタイムは終了した。

「はっ、あ、あなたっ! なにを……」

 サクラコは思考が追い付かず、うまく言葉を発することができない。失われた酸素を取り戻そうと、息をするのがやっとだった。

 大森も、そんなサクラコと実際は変わらないぐらい頭が爆発していたのだが、しかし大森は力を振り絞って叫んだ。

「ど、どうだお前ら! ぼ、僕は、この天使は、僕の、ぼくのも、ものなんだ! 僕はあのサクラコさんとつき合ってるんだ!!!」

 しばしの沈黙。そして、「は、マジかよ」と言うような表情のバレー部員達。


 しかしそんな中で一番ショックを受けていたのはサクラコだった。

 それは大森に、いきなりファーストキスを奪われたからという浅薄な理由ではなく、今大森から発せられた一言のせいであった。

 明らかに大森は昨日の夢以降様子がおかしかったため、万が一夢の通り飛び降りでもしてしまったらという責任と恐怖。それに比べれば、あるいは疑似的に彼と恋人的な付き合いをすることとなったとしても、受け入れる準備さえ、サクラコの脳では無意識下にプランが構築されていたのかもしれなかった。あるいは、それはあくまで言い訳で、実はちょっぴり、思春期の彼女にとっては乙女心を揺り動かされる、淡い恋心のようなものかもしれなかった。


 だが、聡明なサクラコは、彼が今何を考え、何を表現しようとしているのかがすべて解ってしまった。

 そして、サクラコは途方もないショックと、途方もない失望にかられた。

 もう、彼に対して、何の情が湧くこともないだろうと、そう確信してしまったのである。

「あ、そ」

 サクラコは氷よりも堅く冷たい表情となり、その薄桃色の唇は珍しく紫色になって微弱に振動していた。

「さようなら、大木君」

 そして、普段は割合オトボケ調子な声色のサクラコからは考えられないような絶対零度の一言が、大森に対して発せられると、サクラコはただ無感情でたどたどしいロボットのように、醒めた表情のままその場を去っていった。

 そして、暫しの後、大森はハッと、まるで夢から現実へ、我に返るような顔色の変化を見せた。

 刹那、すべてを悟ったかのように、すごく円らで切なそうな表情を見せ、彼はその場で一縷の涙を流した。

「ごめんなさい、天使様……僕はなんてことを……。違うんだ。こいつらが僕を……それを見返したくては、あぁ、でも……、やっぱり僕は最低だ……」

 と、そんなような一言を呟き、大森もバレー部の部室から退場した。


 残されたバレー部員達は、しばらくの間、まるで事態が呑み込めずに顔を見合わせながら一時停止していた。

だが、部員の一人が「なんか、演劇の練習かなんかだったんすかねえ」と言ったので、全員が自分自身を納得させるために「そうだな、なんだ演劇の練習か」とそう締めくくって着替えを早く済ませることにした。

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