7・ちよこ
県居の案内に従って、また小一時間走ると、ついに県居の実家のある石川県富戸名市にたどり着いた。
「ケンちゃん、お疲れ様〜」
「ああ、長旅だったな」
正確には、県居の実家である旅館鈴屋に、だ。
駐車場にケンメリを停めて、後部座席の荷物を担いで旅館の門扉をくぐると、妙齢の中居さんが小走りで俺と県居の前に寄ってきた。
「学さん、多田様、お待ちしておりました。お荷物をお預かり致します。」
「中川さん、お疲れ様です。荷物は自分で持ってくんで大丈夫ですよ。彼の部屋は何処を取ってくれたの?」
「はい、201号室をお使い下さい」
中居さんは準備していたのであろう、その部屋の鍵を県居に手渡すと、俺の方に向き直って小さくお辞儀した。
「多田様、御夕飯は午後七時にお部屋にお届けします。お風呂は午後二時から翌朝九時までご利用できます。何かご用命がありましたら備え付けの電話でフロント12番までご連絡下さい」
「分かりました」
俺の返事を聞いて、中居さんは丁寧にお辞儀をして奥に歩いていった。
「ケンちゃん、部屋でゆっくり一服しててよ。ちょっと馴染みの所に顔だしてくる」
県居はそう言って部屋の鍵を差し出した。
「まだどっか行くのかよ。…じゃあ、お言葉に甘えて一服させてもらっとくわ」
俺は県居から鍵を受け取って201号室を探し始めた。
県居の行き先は気にならないといや嘘になるが、長旅の疲れが効いていた。
兎に角、横になりたかった。
*
ふいにカラン、とドアベルが鳴った。
癖の強い天パーとひょろりと長い手足、ふにゃりとした笑顔。
「やあ、久しぶり。チョコちゃん」
そして、懐かしい声。
「おかえり。学兄ちゃん」
「ただいま。久々に帰ったから古巣に挨拶しとこうと思ってね」
そう言って、番台に1200円を置き、冷蔵庫の前の机に座った。
「見ての通り、今は誰もいないけど」
「チョコちゃん指そうよ。僕が負けたらジュース奢るよ」
冷蔵庫を開けて、兄ちゃんはコーラを二本取り出した。
「そんなのいらない」
「じゃあカルピス?」
「いや、そうじゃなくて…」
「兄ちゃんは何で奨励会を辞めたの?」
私の言葉で兄ちゃんの顔色が変わる。いつも適当な事を言ってはぐらかされる、その理由を私は知りたかった。
「私が勝ったら教えてよ」
「…いいよ、チョコちゃんが勝てればね」
勝てるわけないだろ、って顔だ。
そりゃあ勝てる訳がない。私は初段。兄ちゃんは元・奨励会三段。初段と三段と言えばまだ勝負になろうかと言えるけども、奨励会つまりプロの卵の三段はアマで言えばアマ名人級。私とは別次元の将棋を指す。RPGで勇者がレベル20くらいでラスボスと戦うようなもんだ。
ただ、この人はとんでもない奇跡を起こしてくれるから、富戸名ファンタジスタと呼ばれている。兄ちゃんの奇跡という名の大ポカに賭けるしかない。
私は兄ちゃんと向かい合って座った。
「時間は?」
「15分切れ負けでいい?」
「オッケー。ぶちのめしてやるぜ、ファンタ野郎」
「…チョコちゃんがどれぐらい強くなったか、期待してるよ」
にこり、と笑う兄ちゃんの顔にはいつもの柔らかい印象はなく、引き締まった真剣な顔をしていた。
「まさか初段の私に本気は出さないよね?」
「いつだって本気さ。将棋を指す時はね」
そう言うと思ってた。
「ケチ」
「さあ、始めようか」
「「お願いします」」
「先手はあげるよ」
「どーも」
トン、と兄ちゃんがチェスクロックを叩いた。
ブザーの音と同時に私は▲7六歩と指した。兄ちゃんは△3四歩。
久しぶりに指した将棋は、私の居飛車と兄ちゃんのノーマル四間飛車というオーソドックスなものだった。
お互い高美濃囲いに組んでから開戦し、100手を超えた辺りで、私の玉は詰んだ。ごっそりと綺麗に捌かれて、堅実にリードを守り抜かれて最後は大差で負けた。
つまり完敗ってことだ。結局奇跡は起きなかった。
「たまには負けてくれてもいいんだよ?」
「ははは…そういや、チョコちゃんが負けたらどうするか決めてなかったね」
「えー、そうだった?コーヒーくらいなら奢るけど?」
「それじゃあ、もう一局付き合ってよ」
「じゃあ、2枚落ちで」
そう言って、結局駒落ちで3局指して、一つも勝てなかった。悔しくないと言えば嘘になるけれど、兄ちゃんとの将棋が楽しくて、勝ち負けはどうでも良くなった。
兄ちゃんの差し回しは鮮やかで美しささえ感じた。小学生の頃の猛牛のような粗削りで一方通行の将棋ではなく、高校生の頃の気の抜けた将棋でもなく、洗練された新しい強さを手に入れていた。
駒の影が伸びていることに気が付いて、外を見ると、街は夕陽で赤く染まっていた。
もう夕暮れか、と時計を見ると午後7時を回っていた。兄ちゃんも私の目線につられて、時計を見た。
「…もうそろそろ帰るよ、付き合ってくれてありがとう」
兄ちゃんはそう言って、立ち上がろうとした。
私の頭に明後日の祭りがよぎったが、言葉は出ず、私は生返事を返した。
そんな時に、またドアベルが鳴った。
「おう、学。帰ったのか」
来客は橘さんだった。
「あ、橘さん。お久しぶりです」
「いらっしゃい」
「いつ帰ったんだ?まあ、一局付き合えよ」
橘さんは私の隣に座って、駒を盤上に零した。
「帰ったのは今日ですよ。…橘さん、友達を待たせてるんで、もう帰りますよ」
兄ちゃんは申し訳なさそうにそう言った。
「なんだ、つれないじゃねえか。富戸名ファンタジスタ」
橘さんは構わずに駒を並べていく。それは詰将棋だった。
「解いてみな」
「2四飛打、同玉、3五銀まで」
兄ちゃんは即答で答えた。
「正解。まあ、お前にこれは最早無礼だわな。…バカ詰めって知ってるか?」
橘さんはニヤリと笑った。そして、音を立てながら駒を片付けた。
「いえ…」
「先手後手で協力して玉を詰ませる、ただ玉が駒の効きを避けないとかはダメだぞ」
橘さんはそう言って、玉を4九に置いた。そして兄ちゃんの方の駒台に角を一つ置いた。普通の詰将棋なら決して詰まない形だ。
「…んー?」
兄ちゃんは盤を上から覗き込んで、唸り声を上げた。
「パッと出ないだろ?普通の詰将棋の思考で考えてるからだ。…ま、あんまりこだわんなよって話だ」
「…ええ」
「ちなみにお前、友達ってのは女か?」
「え?男ですけど」
「そうか、よかったな」
「何がです?」
私が橘さんの椅子を兄ちゃんに見えないように蹴ると、橘さんはまた笑っていた。
「学、3日後は天王祭だぞ。智代子と一緒に行ってきたらどうだ?」
「ああ、天王祭。…じゃあ、一緒に行こっか、チョコちゃん?」
「…うん」
「じゃあ、3日後に。チョコちゃん、またラインするよ」
「分かった、待ってる」
私の言葉を聞いて、兄ちゃんは笑顔で道場を出て行った。
「言ってみるもんだろ、智代子。この調子で告白してみたらどうだ?」
「うっさい」
私は無遠慮な橘さんにムカつきながらも、感謝していた。
「まあ、あいつはとんでもなく面倒臭い男だと思うがな」
「…私もそう思う」
かっかっか、と橘さんは笑いながら、片手をあげて帰っていった。
ポツンと一人残されて、私は暫く外を見ていた。
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