初夜の作法は妻の心得です!? 6


◇◇◇


 翌日の朝、フレンから手紙が届けられた。

 オルフェリアは黙って文面を目で追った。


『オルフェリアへ

 リシィル嬢からいろいろ聞いたよ。きみが何に対して怖がっているのかも。

 私はきみの意に反することをするつもりはないよ。もしも、きみがまだ子作りに決心がつかないのなら、結婚式をあげてもしばらくはそういうことをするのはやめておこう?

 私はオルフェリア、きみと一緒にいられるだけで幸せだから』


 とても簡潔な文章だった。

 オルフェリアはびっくりした。

 彼は、オルフェリアが決心をつけるまで待っていてくれるのだろうか。

 恐る恐る食堂へと足を踏み入れると、すっかり身支度を整えたフレンが「おはよう」と片手をあげて迎え入れてくれた。


「お、おはよう」

「昨日はよく眠れた?」

 一晩経ってフレンはいつもの調子に戻ったようだった。

「え、ええ。まあ」

 オルフェリアはぎこちなく頷いた。実はあまり寝つきはよくなかった。

「ほんとう?」

 案の定顔色がいつもより白いことがばれたが、フレンは追及してくることはなかったのでオルフェリアは朝食を食べることに専念した。


「あなたは、もう食べ終わったの?」

 食堂にはオルフェリアとフレン以外に誰もいない。リシィルもエシィルも朝はオルフェリアよりも早い。

「ああ。ここの料理はおいしいね。チーズもハムも味が濃いし」

「ありがとう」

「朝食が済んだら、オルフェリアの荷物の整理を手伝おうか? それとも一緒にアレシーフェの街へ行く?」

 フレンは昨日のことなどなかったかのように屈託なく笑う。

 オルフェリアはフレンの顔を凝視した。

 朝届けられていた手紙にある様に、彼はなにもかも了承したということなのだろうか。


「えっと……」

 オルフェリアはどう返事をしていいのかわからない。確かに今日は丸一日空いているけれど、オルフェリアにずっと付き合うわけにもいかないことくらいは分かっている。

 オルフェリアがなんと切り出していいのか迷っていると彼の方から核心に触れてきた。

「オルフェリア、手紙にも書いたけど、本当に気にしなくていいんだ」

「……いいの?」

 やっぱりフレンはオルフェリアが何に対して躊躇しているか理解していた。

「まずは、きみが結婚生活に慣れることが一番だから」

「でも……」

 オルフェリアは言いよどむ。


「大丈夫だから。それよりも、やっぱりどこか出かけようか。何か足りないものはない? 街を散策していたら故郷のもので持って行きたいものとか見つかるかもしれないだろう」

 フレンは話題を転換した。わざと明るい声をだして今日の予定を立てていく。オルフェリアは彼の言うままに頷いた。これ以上続けるのもどうかと思ったからだ。周りには使用人もいるし、朝にはふさわしくない話題でもある。


 オルフェリアは朝食を再開した。

 フレンはオルフェリアが朝食を攻略していく様子を目を細めて眺めていた。

 こんな風に彼と一緒の席で朝食を取るのはアルメート大陸からディルディーア大陸へ戻る船旅以来のことだ。


 その後朝食を終えて着替えたオルフェリアはフレンと一緒にアレシーフェの街へと繰り出した。

 フレンは礼儀正しくオルフェリアをエスコートしてくれた。

 アルメート共和国では必要以上に触れてきたのに、そういうのもなくてまるで偽装婚約のあのころに戻ったかのようにお行儀のよい距離感だった。


 彼の腕に手を添えて歩くとき。頬への口づけも交わされなくなったとき。オルフェリアは自分の心が少しずつしぼんでいくのが分かった。

 フレンはオルフェリアの戸惑いを理解したから、婚約者として正しい距離を保とうとしてくれている。

 そもそもオルフェリアの方がフレンを拒絶したのに。それなのに、彼から触れられなくなると悲しく思うだなんて。オルフェリアは自分の身勝手さに唇を噛んだ。


 昨日はフレンに会うのが怖いと思った。彼と触れるのを躊躇した。それなのに、いざ行儀のよい態度を取られると一人置いてけぼりにされたような気持になるなんて。

 フレンが隣にいるのに、オルフェリアは一人暗い夜道に置き去りにされたような気持になった。


◇◇◇


 ルーヴェ中心部でも一等地にあるホテル『紅玉館』はその名にちなんで南方から取り寄せた赤い大理石の石柱が印象的なホテルである。玄関広間を埋め尽くすのは同じく南方から取り寄せた大理石で、絨毯も深紅色と、赤系統で統一されている。


 オルフェリアは家族と共に最上階の客室に滞在することになっている。

 結婚式のためにルーヴェへとやってきた。

 現在はドレスの最後の試着である。

 ルーヴェでも人気の仕立て屋に注文をした花嫁衣装はふんだんに真珠があしらわれている。


「お嬢様とってもおきれいですわ」

 試着をしたオルフェリアをほめちぎるのはミネーレである。


「ありがとう」

 彼女は瞳をうるうるさせてこちらをみつめている。

「ああもうっ。ミネーレは生きていてほんとうによかったです。お嬢様のこんなにも美しく可憐なお姿をお目にすることが叶うだなんて。このままガラスのケースに閉じ込めて観賞用に取っておきたいくらいです。数日後にフレン様のものになってしまうのかと思うと毎日涙で枕を濡らす毎日で……。も、もちろん、わたしはオルフェリアお嬢様が奥様となられた後も誠心誠意おつかえしますわ」

「なんか、すごいね、彼女」

 一気に言い放ったミネーレの長台詞におののいたのはリシィルだ。

 リシィルはオルフェリアに付き添ってくれているが、早くもドレスの試着に飽き気味だ。先ほどからあくびをかみ殺している。


「あれが彼女の標準装備だから……」

 最初こそオルフェリアもびっくりしたが、最近ではあまり動じない。

 ヴェルニ館に仕える使用人はみな無口な人間が多かったから、ミネーレのように明るい侍女は初めてだった。

「にしても重そうなドレスだね。結婚式ってほんとうに面倒そう。わたし、こういうの見ると自分は結婚に向いてないって思う」

「……確かに重いけれど……。でも、きれいだしうれしい」

 オルフェリアは姿見に全身を映しこむ。

 銀色の光沢のあるタフタ生地は光の加減によりわずかに紫色に見える絶妙な色下限の生地だ。


「オルフィーが刺繍したところってどこ?」

 アルンレイヒでは花嫁が自ら花嫁衣装に刺繍をする風習がある。オルフェリアもあらかじめドレス生地の一部をトルデイリャス領に送ってもらって指定された箇所を刺繍した。カリティーファや双子姉妹、エルメンヒルデも刺繍をしてくれた。

 花嫁の女家族や友人らが祝福を込めて刺繍針を刺すのだ。

「このあたりかしら」

 みんなからの祝福がこもっているかと思えばオルフェリアの顔もほころぶ。


「わたしのところは……なんか、ごめんね。いびつで」

「ううん。わたし、まさかこんな風に自分がお嫁に行くなんて思ってなかったから……うれしい」

 ルーヴェへとやってくればいやでも数日後にせまった結婚式のことが頭に浮かぶ。

「そっか」

 リシィルは座っていた椅子から立ち上がった。今日のリシィルは珍しく髪の毛を下ろしている。そうするとエシィルとそっくりで見分けがつかなくなる。もちろん口を開けば一発でどちらか、なんてわかるけれど。


「さみしくなるね」

 リシィルはオルフェリアの頭をくしゃりとなでた。

 少し乱暴な仕草だけれど、リシィルはもうずっとこんな風にオルフェリアの頭をなでる。小さいころからずっとだ。

「お姉様ったら。気が早いわ」

「でも、あっという間だ。明日にはレインもこっちに到着するし、お父さんもくるんだろう」

「ええ。お父様に会えるの楽しみでしょう」


 リシィルがバステライドと再会するのは彼がヴェルニ館から出奔して以来となる。

「うーん。どうだろう。怒りを貯めたままだったのに、全部終わっちゃってなんだか消化不良なんだ。正直どんな顔をしていいのやら……」

「お姉様にしてはめずらしいわね」

「そうかな。殴っていいっていうのなら殴るけど」

 リシィルが物騒なことを言い始めたからオルフェリアは困った。彼の暴走についてはもう決着がついたのだ。


「だ、だめよ。リルお姉様の代わりにお母様が向こうで一度お父様のことを殴ったもの」

 さすがに結婚式前に流血沙汰はやめてほしい。

「そうだね」

 オルフェリアはほっと息を吐いた。


 姉妹の会話に気を止める風でもなく仕立て屋は黙々と仕上がったドレスの具合を確認していった。採寸と実寸がちゃんとあっているか、胸元のレエスや飾りの見栄えなどを確認していってオルフェリアはドレスを脱いだ。

 オルフェリアの泊まっているホテルには続々と結婚のお祝いも届いている。

 そのほとんどがファレンスト商会関係のものだ。結婚式が終わったらお礼状を書かないといけない。フレンの妻になって、最初の仕事がそれになりそうだ。


 試着の終わったオルフェリアはリシィルと一緒にホテルのサロンへとやってきた。

 部屋にばかり閉じこもっているとつまらないからだ。

 ココアを飲みながらオルフェリアは思案する。

 本当に、フレンと何もしない初夜を迎えていいのだろうか。

 確かにまだ少し怖い。

 夫婦の営みについてちゃんとした知識を教えてもらって、ショックを受けた。


 けれど、辺りを見渡すと、みんなそれを乗り越えてきた人ばかりなのだ。

 エルメンヒルデも、エシィルも、そして王太子妃レカルディーナも。みんな結婚して夫婦で肌を重ねて子供を身籠った。オルフェリアとあまり変わらない年齢の彼女たちは、そういう戸惑いなどを乗り越えて母になった。


 だから、オルフェリアだって覚悟を決めないといけないと思う。

 それに相手はフレンだ。

 オルフェリアの階級では結婚は親同士が決めることだって当たり前で、ちゃんと当人同士が好き合って結婚するということ自体が恵まれている。


「オルフェリアちゃん、元気ないわね。やっぱりあれかしら。あなたでも憂鬱症を発症するのかしらね」

 カリティーファは心配そうだ。

 彼女はずっとオートリエらと結婚式について打ち合わせをしていたのだ。

「大丈夫」


 オルフェリアは簡潔に答えた。

 結婚式を前に情緒不安定になる女性がいることは聞いていた。

 たぶん、そういうのもあるかもしれないけれど、ここにきて不安とかを吐露するのも違う気がする。オルフェリアは首を横に振った。


「そう? あまり一人で思い詰めないのよ」

「大丈夫よ。お母様」

 オルフェリアは頷いてみせた。

「気分転換に散歩にでも行く? それとも今夜はユーディたちと飲みに行く?」

 ルーヴェ入りしてからユーディッテと連絡を取り連日飲み歩いているリシィルである。

「リルちゃん。飲み歩くなんてだめに決まっているでしょう」

「はあい」

 リシィルは悪びれた様子もなく小さく舌を出した。


 家族でゆっくり談笑しているところにフレンが現れた。

「まあフレンさん。お仕事はもういいのかしら」

 カリティーファが代表して声を出す。

「ええ。ひと段落つけてきました。結婚式も近いので、あまり予定をいれるなと厳命したんですよ」


 フレンがそう言って笑ったからつられてカリティーファも笑った。カリティーファはフレンとすっかり打ち解けた。彼が同じ席にいても緊張で顔を青くすることが無くなった。それはオートリエに対しても同じだ。


「まあ」

「今さぼっていると新婚早々に事務所に缶詰めにされるよ」

 リシィルがまぜっかえす。

「結婚式のあともちゃんと休みを確保しているよ。それはそうとエシィル嬢は?」

「エルはセリシオと出かけた。河沿いを二人で散歩したいんだって」

 リシィルが少しだけ拗ねた声を出す。

「もうリルちゃんたら。フレンさんもオルフェリアちゃんを誘いに来たんでしょう」

「ええ、実はそうなんです。オルフェリア、少し二人で歩かないか?」

「フレン」


 フレンと一緒にルーヴェへとやってきたが、彼は相変わらず仕事に忙しくて結婚式前日まで仕事の予定が入っていると言っていた。

 オルフェリアは立ち上がった。

 彼とは相変わらずお行儀のよい距離を保ったままだ。


「あら、仲がいいのね。行ってきなさい、オルフェリアちゃん」

 カリティーファの声にオルフェリアは小さく頷いた。

「ありがとうございます。夕食までには送り届けますよ」

「あら、少しくらい遅くなってもいいのよ」

 カリティーファはおどけてみせた。

「お母様っ」

 オルフェリアの方が赤くなった。

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