五部 婚約破棄するまでが契約です 後編
一章 フレンの反撃1
フレンがファレンスト邸へ帰還した時、すべてが終わった後だった。
まっさきにオルフェリアの顔を見るために階段を駆け上がろとすると、目を伏せるミネーレの姿があった。
それでフレンは何かのっぴきならない事態が起こっていると察した。
フレンはオルフェリアが使用している部屋の扉を開けた。昼もとっくに回っている時間だ。起きているはずだ。なのに、彼女専用の居間にオルフェリアの姿はない。無作法を承知で寝室の扉も開く。
寝台の上の掛物はすでの整えられており、人の気配がなかった。
「オルフェリア?」
フレンは声を出す。
まるで彼女がどこかに隠れているのを探すかのように。
「オルフェリア? どこにいるんだ?」
胸騒ぎがした。
この状況下、彼女が外に出ていくはずがない。
フレンは寝室から出て通ってきた居間へと戻った。ぐるりと室内を見渡すと、書き物机の上に封筒が置かれていた。
近寄って封筒を手に持った。封筒は不自然に厚みがあった。何かが入っている。小さなものが。フレンは封筒をひっくり返した。ころんと、手のひらに落ちてきたのは、婚約指輪だった。
表にはオルフェリアの字で『フレンへ』と書かれている。
フレンは慌てて封筒から便箋を取り出した。
封はされていなかった。
取り出した便箋を開いて、中に目を走らせる。体中の血液が逆流するような錯覚に陥った。
なんなんだ、これは。
どうして、こんなことが書かれている。
誰か、嘘だと言ってくれ。
叫びたいのに、声が出ない。喉の奥に何かがこびりついているように、声を出すのがもどかしい。
手紙には、よく考えた結果フレンとの結婚は出来ないと書かれていた。
フレンのことが嫌いになった、やっぱりわたしに商人の妻は務まらないと思う、と書かれていた。一時の気の迷いで、気を持たせるようなことを言ってごめんなさいと。
フレンは手紙を床に落とした。
手に力が入らない。
信じられるはずがない。
彼女がフレンを受け入れたのはつい数日前のことだ。
あなたのことが好き、と彼女は言った。
ずっと好きだった、と言った直後に手のひらを反すような言葉を彼女が吐くわけがない。
オルフェリアは確かにフレンを受け入れたのだ。純粋培養温室育ちのお嬢様が、フレンの口づけを受け入れた。彼女は自らの意志でフレンの背中に自身の腕をまわした。
心変わりなんてするはずがない。
フレンはすぐに駆け出そうと体を反転させる。
しかし。どこへ向かえばいい。喉が焼けるようだった。いまだに心臓が大きく脈打ち、それがフレンに焦りを覚えさせる。
反転させたが、体がうまいこと動いてくれずにフレンはその場でじっと佇んだ。そのうちに頭の中が冷えてきて、冷静な部分が彼に、何か裏があるはずだと告げる。
フレンは手紙を拾って、部屋から出た。
階下へ下がりエグモントを探す。
証拠はない。ただ、予感がしただけだ。虫の知らせというやつだった。
従僕に聞けば、彼は早朝に飛び込んできたスミット商会の不正の知らせを聞き、自身も外出したとのことだ。
フレンは彼を追うことにした。
外に出ようとしたところに、ミレーネが階段の踊り場から遠慮がちに声をかけてきた。
「フレン様」
フレンは改めてミレーネの存在を思い出した。
「オルフェリアはどこにいった? いいや、何があったんだ? 知っていることを言うんだ」
ミレーネは階段を下り、フレンの側へ近寄った。
彼女はじわりと涙を浮かべた。
「申し訳ございません。今朝早く、メンブラート伯爵が迎えに来ました。お嬢様は、御父上に連れられて邸を去りました」
フレンは手に持っていた手紙をぐしゃりと潰した。
「おまえは、彼女をみすみす行かしたのか?」
フレンはミネーレを糾弾した。
「フレン様。押さえてください」
アルノーがとりなした。
それくらい大きな声だった。
普段のフレンからは想像もできないくらいの声量だった。ミネーレはびくりと肩を震わせた。
「申し訳ございません。お嬢様の決意が固く、また旦那様からも止めるな、と」
ミネーレは頭を深くさげた。
給金を払っているのは自分だと叫びたがったが、彼女を責めるのはお門違いだと、どうにかこれ以上の言葉を吐くのは堪える。
「わかった。父に会いに行く。それから、マルクたちを連れてきているんだ。彼の妹も一緒だから面倒を見てやってくれ」
フレンはそれだけ言って邸を飛び出した。
「フレンの旦那! オーリィがどうかしたの」
フレンの大声に事態の深刻さを感じたマルクが追いかけてきて慌てて声をかけてきた。
「いや、大丈夫だ。きみたちのことは彼女に任せたから、今はしっかり休んでご飯を食べているといいよ」
フレンはマルクに言って、今度こそ父の元に向かった。
ドルム広場近くのファレンスト商会ロルテーム支店に飛び込んだが、あいにくとエグモントは留守だった。
フレンは支店でエグモントの帰りを待つことにした。
「フレン様。未決済の書類が溜まっております」
アルノーはこんなときでも平時とおなじくらい落ち着いている。
「おまえは、知っていたのか?」
フレンは長年連れ添った秘書官に剣呑な声を出した。
アルノーはフレンの言わんとしていることを正確に理解した。
「いいえ。まさか」
アルノーは冷静に答えた。
「そうか」
「しかし。エグモント様からオルフェリア様について聞かれましたので、私の所感を正直にお伝えはさせていただきました」
「なんて答えたんだ」
「正直に申し上げて、オルフェリア様にフレン様の、いえ、ファレンスト商会の時期社主の妻は重荷になるだけ、だと。そのように」
アルノーはそれだけ言って、フレンの側から離れて行った。
フレンは椅子に体を沈めた。
アルノーの本音など、今はどうでもいい。
いや、よくはない。それもエグモントにとっては一つの判断材料になったのだろうから。
彼がオルフェリアの力量に不満を持っていたことは知っている。別にフレンだってオルフェリアにファレンスト家の妻の務めを完璧に果たせるかと問われれば、難しいだろうと、答える。オートリエの下で花嫁修業をしているとはいえ、まだ経験が浅いからだ。
フレンは完璧な妻が欲しいわけではない。
オルフェリアだから、愛したし妻にしたいと願った。
フレンはオルフェリアに対してファレンスト家の妻の役割を完璧に果たせなどとは望んでいない。彼女が心穏やかに笑って過ごすことができれば、それがなによりだ。
偽装婚約したころの自分とは意見が正反対で笑えてしまう。
フレンは何も手に付ける気力がわかないまま午後の長い時間を過ごした。
エグモントが支店に戻ってきたのは、夕刻のことだった。
エグモントの帰還を素早く聞きつけたフレンはすぐさま彼の元に向かった。
「お父さん、オルフェリアをどうして伯爵の元へ返したのですか」
フレンの剣幕にエグモントは煩わしいさを隠そうともしなかった。
上着を従僕に預け、彼は机の上にいくつかの封筒を置いた。
「彼女が自発的に帰ると言ったんだ。そもそも、娘が父親の元にいることのなにがおかしい?」
「彼は娘であるオルフェリアの意志を尊重しようとしていない。アルンレイヒに帰したのならともかく。いや、トルデイリャスから彼女の母親がこちらに来るまでは、私が庇護するつもりでした」
「その件はもう片付いた」
「片付いてません」
「いいや、終わったことだ。私の方でも証拠書類を手に入れてね。おかげでようやく片付いた。おまえも、ご苦労だったな。昨夜のことは聞いている―」
「証拠書類? まさか……伯爵と取引でもしたんですか」
フレンはエグモントの言葉を遮った。
「おまえにはいずればれるだろうから、話しておくよ。伯爵から取引を持ちかけられてね。娘を返せば、スミット商会のこれまでの不正に関する証拠書類を渡すと。だからメンブラート嬢には丁寧に説明をして納得してもらったんだよ。彼女は賢い。少なくとも、おまえよりも冷静だった。おまえも少しは彼女を見習え」
「なんですって……」
フレンは腹の中に怒りが沸き起こるのを感じた。
オルフェリアが冷静だと? 違う、彼女は自分を殺しただけだ。自分が引けば丸く収まると、フレンのことを考えて舞台から降りることを選んだ。
だからわざとあんな内容の手紙を書いた。
フレンは歯噛みした。
彼女を幸せにしたいと思った。
なのに、こんな方法で傷つけることになるなんて。
「おまえもいつまでも感傷的になっているな。スミット商会が落ちた今、こっちだってやることはいくらでもある。やつの不正証拠はさっき役人たちに提出をしてきた。これでアウンスタイン・スミットも終わりだろう。あとはロームで落ちたファレンスト商会の信頼を取り戻さないといけない」
「お父さん!」
フレンはたまらずに叫んだ。
「最後はオルフェリア嬢が決めたことだ。彼女は手紙を残していただろう。それが彼女の想いのすべてだ。本当におまえとわかれたくなかったら、私の言うことなど聞かないはずだろう。しかし、彼女は受け入れたんだ。それが答えだ。おまえもいつまでも未練がましく去った女に想いを残すな」
「それは、お父さんの経験の話ですか?」
フレンは低い声を出す。
言わずにはいられなかった。
「なんだと」
エグモントが息子の挑発に色めき立つ。
不愉快そうに瞳を怒りに燃やしかけて、結局は大きく息を吐くだけに留めた。
「……昨日から出ずっぱりで疲れているんだな。少し休め。頭を冷やしてこい。事後処理なら、私の方で進めておく」
「お父さん、まだ話は終わっていませんよ」
フレンは尚も食い下がったがエグモントは部下を呼びつけた。
部下にフレンを退出させようと命じる。
彼の部下はあからさまに恐縮そうな顔をして、フレンはこれ以上何を言っても無駄だと判断した。納得はしたくなかったが、他人の前で親子喧嘩の醜態を見せるのも憚られた。
納得なんてするものか。
フレンはあきらめるつもりなどない。
絶対に彼女を取り戻す。
フレンは支店を飛び出した。
『フレンへ
単刀直入に言います。
あなたのことを嫌いになりました。だから、結婚のことは白紙に戻してください。
この間は気を持たせるようなことをして、ごめんなさい。きっと、あなたへの想いを錯覚していたのね。急に会えなくなったから。
そもそも、わたしに大きな商会の社主の妻など務まるとは思えない。貴族の生活とはまるで違うのでしょう。
いま、ここで伝えます。婚約破棄しましょう。
おそらく、もうあなたに会うことはないでしょう。さようなら
オルフェリアより』
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