四部 婚約破棄するまでが契約です 前編
プロローグ
カリティーファはヴェルニ館の庭園の一角にある薬草園でハーブの手入れにいそしんでいた。
土の上には枯れた草花がまばらに残るだけのこの一角もそのうちたくさんの新緑が姿を現すだろう。根が土の中に残っているからだ。
常緑樹のローズマリーも短く刈られているが、今年もきっと盛り盛りと枝を伸ばすに違いない。
今は殺風景なカリティーファの薬草園だが、初夏のころには色とりどりの花で埋め尽くされる。
「お母さま、ほら。みて」
傍らで土遊びをしていたフレイツが得意満面の顔で何かを差し出してきた。
小さな手の中にはうねうねとうごく細長い生き物……みみずである。
「あらあら。だめよ、彼は起きたばかりなのでしょう。放してあげないと」
「はあい」
カリティーファは動じることなく息子をたしなめた。一方のフレイツは少し面白くなさそうだ。これがユーリィレインだったら大きな声で叫んでいるところだろう。いたずらっこなフレイツはそういう大げさな反応を楽しみにしていたのに、母親が普通の態度だったので拍子抜けをしたようだ。あっさりとみみずを土の上に返した。
「毎日土いじりしているんだから、わたしにミミズをみせたくらいじゃ驚かないわよ」
カリティーファは片目をつむった。
「ちぇー」
やはり図星だったようだ。
このくらいの子供はかわいいなあと思う。特にフレイツは元気いっぱいだ。リシィルの英才教育のおかげか乗馬の腕もめきめき上達中である。
「あ、お母さんいたいた」
「あら、リルちゃん」
双子姉妹の片割れリシィルが庭園へとやってきた。行動力のありすぎるリシィルは毎日領内を元気に駆け回っている。
「早かったのね」
長い髪の毛を頭の高い位置で一つに結わえ、今日もふくらはぎの見える町娘のようなスカートをはいたリシィルは大股でカリティーファのほうへ近寄ってきた。
彼女は今日、領内にある孤児院併設の教会へ足を延ばしていた。
「まあね。お母さんのお茶評判いいって、喜んでいたよ」
「まあ。そうなの。こちらとしてもうれしいわね。趣味で作っていたものが喜ばれるなんて」
「お母さんのお茶、味がしないよ?」
「フレイツにはまだちょっと早いかな。大人の味っていうんだよ」
大人二人の会話に混ざってきたフレイツのおでこをリシィルがつん、とつついた。
「僕子供じゃないもん」
フレイツが口をとがらせる。
「コーヒー飲めない子は子供なの」
「お砂糖と牛乳をたくさん入れたら飲めるもん」
「大人は入れなくても飲めるの」
フレイツの反論にリシィルが返して、そうしてフレイツが再び反論してを繰り返しているうちに話がだいぶそれてきた
「二人とも、今はそういうことを話していたのではないのでしょう」
カリティーファにとっては二人ともまだまだ手のかかる子供だ。
カリティーファとバステライドの間に生まれた子供たち。
「ごめん。話が脱線した。今年もハーブを収穫したらもう少したくさんお茶を作ってもいいんじゃない?」
「そうねえ。そうなると、植える種類も考えなくちゃ。忙しくなりそうね」
「そういうの、いや?」
「まさか。とっても楽しいわ」
カリティーファはにっこりと笑った。
きっかけは冬の休暇に訪れていた娘の婚約者、ディートフレン・ファレンストが話した言葉だった。
『夫人の作ったお茶おいしいですね。どうでしょう。これをメンブラート伯爵邸印のハーブ茶として商品にしてみては』
最初はどういうつもりなのかと訝しんだ。まったくの趣味で育てているハーブである。それを商用利用するなんて。
相手は娘の婚約者だし、ということで適当に相槌を打ちつつ聞いていると話は思いもよらぬ方向へと転がった。売るといっても商店などで売るということではなく、孤児院併設の教会などで委託販売をし、収益を孤児院運営に充ててもらい、また伯爵夫人が慈善活動を行うことでそういった活動への啓蒙をするというものだった。
「フレンのやつ、なかなかやるよね。今度、孤児院に慰問に行ってきなよ。自分たちでもハーブ育ててみたいって興味津々なんだ」
「あらそうなの。それは一度行かないとね。何か種を持っていこうかしら」
カリティーファの笑みにつられてリシィルも笑顔になった。お転婆でいたずらばかりの娘だけれど、これでなかなか素直で明るい一面もあるのだ。
カリティーファは緊張すると気分が著しく悪くなる。おかげでこれまで表立って人の前に立つことに消極的だったけれど、自分の作ったハーブが役に立つとなればなんだかこそばゆい。
「わたしでもトルデイリャスの役に立てるかしらね」
「お母さんは十分に伯爵夫人じゃないか」
「あら、ありがとう。これであなたがもうすこし年頃の娘さんらしくしおらかになってくれればねえ」
「それは無理!」
カリティーファの軽口にリシィルは即座に反論した。この元気娘がいまさら深窓の令嬢のようになったら空から槍が降ってくるに違いない。カリティーファは思わず苦笑した。
子供たちはみんな健やかに成長した。
エシィルは母になるし、オルフェリアも伴侶を見つけた。リシィルは領民から慕われる姉貴分だし、リュオンは寄宿学校で好成績を収めている。ユーリィレインは、まだちょっと心が幼い部分もあるけれど、寄宿学校できっとたくさんのことを学ぶだろう。フレイツはとてもやんちゃで、リシィルの真似をして始めた乗馬や馬の世話が楽しくて仕方ないらしい。
それなのに。肝心の旦那様がいないだなんて。
「ほんとう。どこに行ったのだか……」
カリティーファはぽつりとつぶやいた。
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