四章 仮婚約者業の憂鬱3
ロルテーム語の授業終わり、扉をたたく音とともにフレンが入室した。
「お疲れ様、オルフェリア。ロルテーム語の進捗具合はどう? 分からないところがあれば私が教えるよ」
耳になじんだフレンの声にオルフェリアは扉の方へ顔を傾けた。ミレーネがロルテーム語授業仲間から一瞬で侍女の顔に戻り、席を立ちあがりオルフェリアの分まで帳面や教科書を片し始める。
「フレンたら、腹が立つほどロルテーム語が上手なのね」
フレンはロルテーム語で話しかけてきた。発音も完ぺきである。以前オートリエが自慢していただけのことはある。オルフェリアは自分の発音を聞かせるのが恥ずかしくてフランデール語で話しかけた。
「腹は立てないでほしいな。ロルテーム語は商売上絶対に必要だから小さいうちから特訓させられていたんだよ」
今度はいつもの言葉、フランデール語で返ってきた。
軽口を叩いていると、片付けの終わったミネーレが礼をして部屋から出て行った。ぱたんと扉のしまる音がして、オルフェリアはフレンと二人きりという事実に少し緊張した。
「ああそうだ。叔母上には私たちの結婚はまだ先だからとくぎを刺しておいたよ」
フレンはなんてことないように話しかけてきた。
こっちはつい意識しちゃうのに。今までミレーネの座っていた椅子に腰かけてオルフェリアは向かいにあるフレンの顔を対峙する。
「そう。ありがとう。わたしから何度説明しても押し切られてしまって。大変だったの。それに花嫁修業も始まるし。今も続いているのよ」
「ちなみに花嫁修業って何をしているの?」
フレンは興味を持ったようだ。
オルフェリアは考えながら手の指を一つずつ折っていく。
「ええと、まず刺繍の練習でしょう。お友達作りでしょう。ロルテーム語でしょう。社交でしょう。慈善事業についてでしょう」
「刺繍の練習も入るんだ」
「アルンレイヒの花嫁衣装の一部に花嫁自らが刺繍を施すのよ。幸せを祈って。わたし刺繍よりも読書の方が好きでさぼっていたから」
「ああ知ってる。レカルディーナの結婚式の時、叔母上が言っていたから。そういえば、今度彼女からお茶会に呼ばれているんだって?」
「ええ。レーンメイナ、ええと、ハプニディルカ伯爵令嬢を囲む会だそうよ」
ミネーレかオートリエから仕入れてきたのかフレンがさらりと尋ねてきた。
婚約したレーンメイナのための会だそうで、王都にいるオルフェリアにも招待状が届いた。同じ年頃の令嬢やすでに嫁いだ若い世代の婦人のみが招待されているためオートリエは留守番、もといレカルディーナの二人の娘と遊ぶと言って張り切っていた。
「ふうん。でも、きみ大丈夫? ハプニディルカ嬢と昔やり合っていただろう」
フレンと最初に出会ったお茶会のときのことだ。
「……たぶん大丈夫」
これも花嫁修業、いや、メンブラート家のためでもある。
「レカルもいるからそんな変なことにはならないと思うけど」
フレンは心配そうにオルフェリアを見つめてきた。
「わたしだってここ最近は同世代の女の子たちに揉まれてきたのよ。大丈夫。それより今度はフレンの番。ルーヴェで何か分かった?」
オルフェリアはフレンを促した。
実はこれを聞きたかった。フレンがミュシャレンに帰ってきてから仕事とオルフェリアの身辺のことでばたばたしていて聞けずにいた。
「まず、ダヴィルド・ポーシャールのことだけどね。やっぱり、というか案の定偽名だったよ。彼の本名、というか彼らしい男の本名はデイヴィッド・シャーレン。出身は西のインデルク王国らしい」
「デイヴィッド・シャーレン……」
オルフェリアはフレンの言葉を復唱した。デイヴィッド、インデルク風の名前である。
フレンはそれから、彼がルーヴェ大学に確かに在籍をしていたが、一年半ほど前に旧従と袂を分かったこと。そして、下宿も引き払ったこと。その後の足跡を知る人物はルーヴェでは見つからなかったことを説明した。
「そうなの……」
要するにとくに進展はなかったということだ。
「宝石の方もね。懇意にしている宝石商に尋ね回ったよ。だが、古品の流通はまた管轄が違うらしくてね。ついでに後ろ暗いものを持つ連中というのはまっとうな商売をしている私たちの前にはあまり姿を見せることはないらしい。ファレンストの名前を使って、曰くつきのダイヤモンドを探していると流してもよかったんだけど、そうすると真実にたどり着く輩が現れる危険性がある」
メンブラート伯爵家に伝わるダイヤモンドの特徴そのままを流せば、背景を勘ぐる人間が出てくる。そうなると、先に件の品物を手に入れて高額を吹っかけようと企む輩が出てくるとも限らないし、ダヴィルドに勘付かれる可能性もある。
「ダイヤモンドのことは秘密裏にしたいわ。伯爵家のごたごたを知られるのは『蒼い流れ星』だけで十分よ」
オルフェリアは力なく言った。
フレンは唐突にフロックコートのポケットに手を突っ込んだ。小さな小箱を取り出してオルフェリアの前に差し出した。
「そうだ。はい、これ」
「なあに?」
「きみに似合うかなって思って」
フレンに促されるままにオルフェリアは小箱を開けた。
オルフェリアは小箱を開けた。大粒の紅玉が二粒。耳飾りが鎮座していた。
「どうしたの? 急に」
オルフェリアは眉根を寄せた。
誕生日の贈り物なら、先日たんまりともらったはずだ。
「宝石商からいい情報を引き出すためにお買い上げした宝石。ほかにもいくつかあるから今度持っていくよ」
「一体どれだけ経費使ったのよ!」
オルフェリアはたまらず叫んだ。
「必要経費だよ。金を落としてやると彼らは饒舌になる」
「だからって!」
「いいじゃないか、別に。私の私的な財布から出しているものだ」
フレンの声が一段と固くなった。
「だったら余計に悪いわ。わたしなんかのために無駄遣いしないで」
「なんかのため? 私はきみのことを甘やかしたいんだ。私が好きでやっていることなんだから、きみはただ笑顔で受け取ってくれればそれでいいんだ」
フレンの言い分はめちゃくちゃだった。別にオルフェリアはフレンに甘やかされたいとは思っていない。優しくされると嬉しいけれど、偽装婚約なのに余計なお金は使ってほしくない。
「わたし、宝石がほしいなんて一言も言っていない。贅沢好きじゃないもの」
もっとやんわりと言うこともできるのに、オルフェリアはついはっきりとした言葉を使ってしまう。
「どうしてきみはそんなにも聞きわけがないんだ」
「そういうわたしを選んだのはフレンだわ」
オルフェリアとフレンは睨みあった。
オルフェリアは悲しくなった。どうしてこんな風に喧嘩する羽目になったんだろう。
オルフェリアは視線はそのままフレンにぶつけたまま心の中で嘆息した。
「……いまあなたと話すともっと嫌なことを言ってしまいそうだから、今日はもう帰るわ」
オルフェリアは固い声のまま立ち上がって部屋から出て行った。
フレンは追ってこなかった。
自分から出て行って、引き留めてくれなかったことに傷ついて、そんな自分勝手な思いに笑ってしまった。
「……馬鹿みたい」
笑みを浮かべているのに、つんと目頭が熱くなった。
◇◇◇
ミュシャレンの王都にあるアルムデイ宮殿。ご存じ国王、王太子一家も住まう宮殿だ。
昼下がり、宮殿にある日当たりのよいサロンではお茶会が開かれていた。王太子妃レカルディーナが主催する茶会の主賓はレーンメイナ・ハプニディルカ伯爵令嬢である。
いくつかのテーブルを囲むように置かれた長椅子。色とりどりのドレスを着た独身、既婚を問わず集められた妙齢の貴族令嬢たち。その中でもメイナは今日の主役である。
王太子妃レカルディーナが隣国の王室へ嫁ぐメイナのために懇親を兼ねて開いてくれた会だ。
(これが王子妃になるということ……)
メイナは心の中でゆっくりと反芻した。年明けに結婚を約束して慌ただしい日程の中ファティウスの故郷デイゲルンへ帰り国王に結婚の許可を貰いうけた。古いしきたりが幅を聞かせるデイゲルン王室があまり好きではないファティウスはすぐさまアルンレイヒへと戻った。メイナももう少し故郷でゆっくりしたいだろう、なんて言うけれど、本当は彼が国に帰りたくないだけのことだ。彼は許されるぎりぎりまで帰国しないだろう。
「レーンメイナ様はいつまでミュシャレンにいられるのかしら」
レカルディーナは手はずからメイナにお茶を注いでくれた。
「もうしばらくはミュシャレンに滞在をすることになると思います。そのあと、一度殿下の所有している商会の視察を兼ねて南の飛び地へ赴くことになるかもしれません」
「ファティウス殿下は商会を持っていらしたのだったわね」
レカルディーナが得心したように頷いた。メイナはにっこりと笑った。
「はい。殿下自身旅がお好きなようで、様々な国のお話をしてくださいます。とても興味深いですわ」
「たしかフラデニアに留学していたことがあるのだったわね」
「はい。自由な気質のルーヴェの空気がとても性に合っていたとおっしゃっておいででしたわ」
「そうなの。きっとよい思い出がたくさんおありなのね」
自身も青春時代を隣国の寄宿学校で過ごしたレカルディーナは懐かしそうに瞳を細めた。
「わたしもいつかファティウス殿下と一緒にルーヴェへ行ってみたいです。その前に花嫁修業が始まりますので、いつになるのかはわかりませんが」
メイナはお茶に口をつけた。
「あなた、ミュシャレンではデイゲルンの大使館に滞在しているのでしょう。緊張することもあるかと思うの。わたしも、婚約したばかりのころからこちらの宮殿に滞在することになって当時は慣れないこと続きだった覚えがあるわ。なにか不安なことがあればいつでも相談に乗るから、気兼ねしないで頼ってね」
「まあ、もったいないお言葉ですわ。レカルディーナ様」
メイナはおっとりと微笑んだ。
心の中では、これまで雲の上の存在であったレカルディーナから親し気に話しかけられた喜びでいっぱいである。
アルンレイヒの貴族が隣国の王子へ嫁ぐことになったからか、王家はこの時期にしては珍しく夜会を開くことにした。もちろん主賓はファティウスとメイナである。二人の婚約を祝っての舞踏会なのだ。
王室主催の舞踏会はそれこそ、久しぶりのことで貴族の間でもこの話題で持ちきりだ。
レカルディーナが自分に優しくしてくれる。特別に目を掛けてくれる。そのことが純粋に嬉しい。レカルディーナは若い貴族女性の間で人気だからだ。一見するとハッとする美貌の持ち主で、肩口にそろえた短い髪の印象から、近寄りがたい印象を持つレカルディーナだが、口を開けば明るく気さくだ。にっこり笑えばえくぼができて途端に親しみが沸く。普段は取り巻きのお姉様世代の女性たちががっちりと周囲を固めているけれど、その一角を成すイグレシア侯爵夫人は現在家の都合で領地へと帰っている。
「わたしと違って他国の王室に嫁ぐんですもの。文化の違いなどもあるだろうし、デイゲルンはアルンレイヒより閉鎖的だというし。本当に、気兼ねしないでね」
「ありがとうございます。でしたら、お言葉に甘えてまた一緒にお茶をしていただければ嬉しいです」
「わたしでよければいつでも。そうだわ、一度子供たちとも一緒に遊んであげてね」
「是非ご一緒したいです」
「約束よ」
同じテーブルを囲む女性はもう何人かいるけれど、現在レカルディーナを独占しているのはメイナだけだ。そのことがとても嬉しい。
だって、これからは同じ王族同士だもの。同じ立場同士分かりあえることだってある。まあ、こっちは気楽な三男坊のお嫁さんだけれど。それでもファティウスの父王が王位を退くまではメイナだって王子妃だ。王室の、王子の妃なのだ。
「そうだわ。オルフェリア、あなた最近花嫁修業と称して母に色々と連れ回されているんですって? 大丈夫? あの人、ちょっとふわふわしたところがあるから、嫌なら嫌って言った方がいいわよ」
残念。どうやらレカルディーナの独占時間は終わったらしい。レカルディーナは同じテーブルを囲んでいるオルフェリアに話しかけた。彼女の婚約者はレカルディーナの母方の従兄である。普段ディートフレン・ファレンストは自身が王太子妃の身内だと誇示しない。しかし、上流階級では皆が知っている。ただし、普段は忘れているが。たまに、こういうときに思い出す。
「大丈夫です。わたしずっと領地に籠って暮らしていたので、とてもいい勉強になっています。社交も慈善活動も立派にこなせるよう努力します」
まじめなオルフェリアはレカルディーナの言葉にお堅い女学生の見本のような返事を返した。普段よりも赤い顔が、彼女の緊張を如実に表している。
「ロルテーム語の勉強もしているのですって」
「はい。小さい頃は主にリューベルン語を勉強していたのでロルテーム語は苦手なんです。ロルテーム語を流暢に操れるようになってみせます」
「まあ頼もしい。ロルテーム語はわたしもずっと寄宿学校時代に勉強していたのよ。逆にリューベルン語が苦手でね。殿下と婚約している時に必死に習ったの。懐かしい」
「わたくしもリューベルン語は苦手ですわ」
「王太子様はロルテーム語をとても流暢に操って羨ましいですわ」
「本当、今度発音のコツを教えていただきたいですわ」
レカルディーナの言葉に、何人かの女性らが追従した。以前のメイナだったら、同じく最後にやっと「わたくしもですわ」と言うのが精いっぱいだっただろう。
「オルフェリア、わたしでよければ今度ロルテーム語教えてあげるわ」
レカルディーナはオルフェリアに親しげに笑いかけた。余所行きの笑顔ではない、本物の笑顔。メイナは少し面白くなかった。オルフェリアはいつの間にあんなにも王太子妃と親密な間柄になったのだろう。
しかし、それと同時に納得する部分もある。彼女の婚約者は王太子妃の従兄なのだから。
「ありがとうございます」
オルフェリアがはにかんだ。人形のような精緻な美貌を持つオルフェリアが笑うと、少しだけホッとする。あまり表情が変わらないので、たまに彼女は本当に生きているのかと疑うことがあるから。
メイナはオルフェリアのことが嫌いではない。
最初に話をしたときは呆気にとられた。彼女は、とても正直だ。というか率直で言葉を飾らない。飾ることを知らないし、そのせいできつい単語を選ぶことがある。
メイナはオルフェリアと話した時に、馬鹿な子だと思った。そんなに素直だと、すぐに潰されるのに、と。もっと賢く立ち回らないと生きていけないし美味しいところは全部誰かに持っていかれちゃうわよ、と。美味しいところを持っていくのはメイナやカリナ、ミリアムだったこともあるし、別の令嬢だったりもした。
元は公国だった由緒ある名門貴族の令嬢。この肩書を持った人形のような美貌の令嬢。そんな脅威はさっさと潰すに限る。思ったことはみんな同じだったようで、普段は牽制し合う令嬢たちが対オルフェリアでは共闘した。
そうこうしているうちにオルフェリアは奇行に走った。突然フラデニアの商人と婚約したのだ。六百年もの歴史を誇る、名門貴族の令嬢がたかだか三代もさかのぼれないような商売人の人間と婚約。まさかでしょう、と思った。
けれど、相手はあのファレンスト商会で、この手の話題はタブーだった。なにしろ王太子妃の母親の実家がファレンスト商会だからだ。母親の実家が爵位なしだろうと、父親は伝統ある侯爵家なのだからレカルディーナだってれっきとした侯爵令嬢である。しかし、微妙な問題には変わりない。
「では、ゆっくり楽しんでいってね。わたしはあちらに挨拶をしてくるわ」
レカルディーナはそう言って別のテーブルの方へ離れて行った。
王太子妃が席を離れて、妙な緊張感から解放された面々はどこからともなく息を吐いた。同じテーブルにいるのはメイナと同じ年頃の令嬢ばかりで、レカルディーナと話してみたくても外野を取り囲むくらいかできない。
それぞれがお茶やコーヒーなどで口をうるおしお菓子をつまんで、ようやく人心地がついてきた。それぞれが銘々に話し始めた。
「緊張したわ」
「ほんとう。王太子妃様やっぱりお綺麗ね」
「それにしても、オルフェリアはいつの間に王太子妃様とあんなにも仲良くなったのよ」
「あんなにも王太子妃様に気にかけてもらってうらやましいわ」
同じテーブルの少女たちは羨望のまなざしをオルフェリアに送った。
「婚約者がファレンスト氏だものね。いくらでもコネがあるわよね」
と、最後のこれはミリアムだ。その声はメイナが聞いても冷ややかに感じ取れた。
ファティウスとメイナのお披露目のための夜会に合わせてミリアムは寄宿舎に休学願を提出したと言っていた。今度の舞踏会に賭けているようで、呆れ半分彼女の場合は仕方ないか、と納得半分なメイナだ。彼女の言い分は寄宿学校時代から嫌というほど聞かされている。
オルフェリアが婚約して婚活市場から降りたにもかかわらずミリアムは相変わらずオルフェリアに冷たい。
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