しわくちゃの切符

「乗車券を拝見します」

 うとうととしていた私の夢へ忍びこむように、その声はそっとかけられた。

 眠りの水の中から釣り上げられたばかりの魚の私は、どぎまぎと慌てて切符を手探りし、たっぷりと手間取ってからやっと見つけたものを、揺れる通路に立ってじっと待っている車掌に差し出した。

 手の中に握りこんで眠っていたせいで皺の寄った切符を一瞥すると、彼は切符に鋏を入れ、私に返しながら帽子に手をやって小さな礼をした。次の客の方へと去っていく車掌の姿を見送りながら、私はほっと安堵の息をついた。

 握りこむ手のひらの形によく馴染むしわくちゃの切符に目を落とす。私が乗車した駅の名と、終点という単語とともに見慣れない駅の名が印字されていた。

「Q中央駅?」

 私が向かおうとしている駅は、はて、そのような名だっただろうか? 眠気を払いきれない頭を絞って記憶をたどるが、確たる自信を持ってこの手で切符を購入したこと以外は何も覚えがない。実はその時に駅名の確認などしなかった。

 切符の代金の額ははっきりと記憶しているし、検札もされたし、この路線の終点には違いないのだから、きっと通称と正式名称のようなものだろう。私は心穏やかに切符を仕舞って、窓の外を流れゆく景色に目を向けた。

 住み慣れた都心の、乱雑でけばけばしい喧噪の風景がはるか後方へと飛び退っていく。あれはあれで、私はそこでまずまず長く生きてきたし、それほど悪くはない、絶望するにはまだ早いといっていい街ではある。

 先ほどの車掌が、前方の車両でも検札を終えて後方の車両へと引き返していくのを見る頃には、車窓から見える風景はすでに緑がちになっていた。

 初めこそ物珍しく、緑や青や茶とめまぐるしく変化する郊外の自然の風景に、まるで子どものように目をくるくると回して食い入って見ていたが、すぐに飽き、私は再び座席に深く沈みこんだ。長旅向けらしい、いつまでも心地よく座り、眠り続けられる椅子だ。

 もう一度眠りなおそうと、検札の際にとりあえず隣の無人の席へと置いた外套や旅行鞄をもう一度取り上げた時、その下に見知らぬ手帳があったことに気付いた。

 いつからそこにあったのかわからない。うとうとしていた間に誰かが忘れていったのだろうか。

 長年に渡って、しかし丁寧に扱われてきたようで、表紙の革が柔らかな光沢を湛えている。ページの間にやたらと何かが綴じ込まれているようで、小口の方は背表紙よりも大きく膨らみ、その隙間からはいろいろなものが外にはみ出していた。

 体を伸ばして周囲を窺うが、他の客はまばらで、探し物をしているような人物も見当たらない。

 手荷物をそれぞれの然るべき場所に落ち着けて、私は誰かの手帳に手を伸ばした。

 しっとりとすべやかな革の感触が手に心地よく、手帳はずっしりと重い。持ち上げた拍子に、指をかけ損ねた裏表紙から何かがひらりと抜け出た。床に落ちたそれを追ってかがみこむと、足元にもう一枚の切符が落ちていた。

 拾った切符を裏返して、私の胸を鋭い氷が貫いた。

「O中央駅」

 これではなかったか。私が行こうとしていたのは。

 私は見知らぬ隣の乗客の切符を検札に出してしまった。私の分はいい、もう一度車掌に見せれば済む。だが、この手帳と切符の主は、いったいいつになれば戻ってくるのだろう。

 この席に、この列車に。

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