置き忘れた切符
やっと目的の車両に着いて、僕はほっと息をついた。乗り遅れるかと思った。
出発前、切符に指定された座席に着き本を読み始めていたものの、発車時刻までいくらか時間があったので、長旅を少しでも快適にしようと考えを変え、食べ物を調達しに抜け出した。
ところがわずかに早い時刻に、ゆっくりと動き始めた列車を見て慌ててプラットホームを駆け、何とか最後尾の車両にかじりついたのだった。
車掌はすでに検札に出てしまったらしい。無人の車掌室を通り抜け、記憶にある座席番号を目指して前へ前へと向かってきた。
どの車両も空席が目立ち、客はまばらにあちこちへ散らばって座っているというのに、僕の席の隣に限って誰かが座っていた。白髪交じりの男性で、膝に乗せた旅行鞄と外套を枕に突っ伏すようにして眠りこんでいる。くぐもったいびきが聞こえる。
席に着こうとして、革装の分厚い手帳に気がついて肝が冷えた。読みかけの本を目印に置いて行ったつもりが、うっかり自分の手帳と取り違えたらしい。この中に切符を挟んであったものだから、不注意にも程がある。
急いで手に取って席に着き、さっと中身を改めたが、挟み込んだ写真や手紙はどうやら無事らしい。しかし、切符だけが見当たらない。青ざめて座席の周囲を見回すが、どこにもない。
僕の身じろぎで、隣の男性が目を覚ました。
「何かお探しですか」
あくび混じりの問いかけに、僕はどぎまぎとして言い淀んだ。彼が? まさか。
「ここに置いてあった切符が見当たらなくて」
「ああ、先ほど検札が来ましたから、失礼ながら、一緒に出しておきました」
唖然とする僕から気まずそうに目を伏せて、彼はポケットに手をやり、二枚の切符を取り出した。どちらも検札済みだった。
「それは……ご親切に、ありがとうございました」
僕は僕で、軽率にも疑ってしまった気まずさから目を伏せながら、二枚の切符と二席の座席番号から、自分の座席番号の方を抜き取った。
僕は安堵の息をついて、ぐったりと座席に沈み込んだ。
「かえって驚かせてしまって、申し訳ない」
「とんでもない。置き忘れてしまったものですから、助かりました」
ふと思いつき、思いがけない冒険の戦利品となった買い物の袋に手を突っ込んだ。
「お礼と言ってはなんですが、よかったらどうぞ。長旅ですから」
駅の売店で購入してきた菓子をお裾分けする。
「ああ、私、これには目がないんですよ。では遠慮なく」
菓子をつまみながら、取るに足らない世間話をしていると、ふと男性が尋ねた。
「Oの街に、ご旅行ですか?」
「え?」
「O中央駅まで行かれるなら」
そんな名前だっただろうか。これから僕が行こうとしている街の名は。
とまどって答えるどころではない僕の様子を、男性が怪訝そうに首を傾げて見ている。僕はポケットから切符を取り出した。そこにちゃんと書いてある。
「O中央駅」
そんな名前だっただろうか。
なぜか、そこに答えがあるような気がして、僕は目の前の男性を見つめ返した。
その不思議に昏い窓、黒い目を。
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