モノもの

ふじはる

第1話 《モノ》は《者》と出会う

 誰かが私の前で泣いていた―――。


 大粒の涙が次々と現れては滝のように頬を滴る。目の周りは赤く腫れ、ガラガラに枯れた声が頻りに喉の奥から溢れ出し、周囲に反響する。

 その人が泣いている理由は分からない。ただ、私に向かって、その辛い胸の内を吐露していたことだけは覚えている。

 何かしてあげたい――そう思った。

 でも、私はその人に慰めの言葉をかけたり、涙を拭いてあげることはできない。


 だって、私はモノだから――――。


 自由な手足を持っている生き物たちとは少し違う。自分ではピクリとも動くことができない身体。笑うことも、悲しむことさえ表に出せない表情。何も語れない口。唯一、私にできることといえば、その人を側で見守ること。それ以上のことはしてあげられない。

 

 どうして、私はモノに生まれてきてしまったのだろう?

 同じ〝もの〟でも〝者〟として生まれて来れたのなら、その人のために何かできたであろうに。

 

 もし、私に自由な身体があれば――――。


【……なら、私がその願い叶えてあげようか?】


 えっ…!?

 耳をかすめる声が矢のように私を貫いた。衝撃で心が震え立つ。


【私とひとつになれば、きっとあなたは望むものを手にできる】


 本当なの?

 期待と疑問が激しく混ざり合い、感情の化学反応を起こす。


【ただ…、一つだけ、お願いがあるの。それを承諾してくれるのなら、私はあなたに協力するよ】


               ◆◆◆


 正方形に十字架を足したような窓から朝の日差しが差し込む。モノクロだった部屋がカラーリングされ、木製の大きなテーブルと椅子が二つ、スポットライトを浴びたようにライトアップされる。

 まぶたを掻い潜ってきた日光に目がチカチカした。

「う~ん、朝か……」

 寝癖で反り返った髪の毛を掻きながら俺は上半身を起こした。テーブルの上は昨夜のまま、ドライバーや接着剤などの工具で溢れ返っている。

「……そういや、昨日はコイツを修理してたんだった」

 テーブルの一番端に置かれた金属製のロボット人形をヒョイっと持ち上げる。スリムなボディに刺々しいデザインが目立っていた。

「カッコ良くなったな。見違えるほどだ」

 このロボット人形は昨日街へ買い物に行った帰り、道端に落ちていたものだ。確か、《機動超人ガンダルフィード》とか言うアニメのキャラクターだったような記憶がある。まあ、言うまでもないが、《落ちていた》ということはどこかしら壊れていたということだ。破損個所は右腕。発見当時、何かに勢いよくぶつけたように肩の辺りから砕け散り、腕全体が少し離れた場所に転がっていた。

 こういったモノを、俺、ハイロード・スティッカーという人間は放っておくことができない。それは幼いころから染みついたものであり、もはや癖といってもいいレベルなんじゃないだろうか? 帰宅するなり、すぐさま修理工具をテーブルに広げ、寝る間も惜しんで一晩かけて直したのだ。

 腕が修復されたロボットを適当に近くの棚の上に置き、俺はテーブルの片付けに取りかかった。

 俺の家は世間一般の人が言う〝家〟とは少し違っている。簡単に言うならば〝工場〟。名前は《スティッカー工場》。家系的に代々受け継がれている工場らしく、俺はその九代目なのだ。

 工場という名前は付いてはいるが、何㎡もの広大な敷地が備わっている大規模生産工場ではない。アスナザール大陸の東に位置する港町クラストルド。その街外れにこの工場はひっそりとたたずんでいる。壊れたモノを直し、再び世に送り出す。言わば〝再利用〟。それがこの小さな工場の役目、俺の仕事だ。平均して仕事の注文は少ない。立地条件が悪い小型工場だ。客が来ないのも分かる。

 《客以外》ならたくさんやってくるのだが……

「はぁ…、今日もたんまり置いてあるし……」

 テーブルが綺麗に片付いた頃。いつものように自然と頭が持ち上がり、窓の外の光景に溜め息が漏れる。茶色の錆や汚れに覆われた大量の壊れたモノたち。門の前に佇む彼らはまるで俺のことを嘲笑うかのように一カ所に集中し、大きな山を形成していた。門を開ける前から直視可能なんだ、相当な量だと窺える。

「よくもまあ、一晩であんなに捨てていけるもんだこと」

 この工場はあくまで修理工場。それなのに〝ゴミ捨て場〟と勘違いした人が毎日のように家庭で捨てきれないモノをココに放置して行く。その様子を誰が最初に言ったのか、この工場に付いたもう一つの名前がある。


 〝ゴミ山〟


 ご先祖様にどう言えばいいんだろうか。捨てられたモノの山を見るたびにそう思ってしまう。『スティッカー工場は九代目で見事ゴミ山と化しましたぁー』なんて言ったら呪われてしまいそうだ。

 通常、捨てられた時点で彼らは〝ガラクタ〟というレッテルを貼られる。だけど、彼らも好きでガラクタになったわけじゃない。人が使えなくなったから勝手にガラクタ扱いにされただけ、ガラクタと言われる筋合いはこれっぽちもない。それに、ココはそんな彼らだからこそ必要な場所。救済所なんだと俺は思ってる。

「ちょっと待ってろよ。今入れてやるからな」

 モノが喋るわけないが、そう呟いて俺は部屋を出た。


 私生活を送っている部屋と工場の門との間にはトラックなどの大型車が出入りできるよう一定の空間(スペース)が設けられている。俺は部屋を出てすぐ左脇に供えられた赤いボタンをいつものように押し込んだ。グイィーンッという音と共にチェーンの付いた巨大なU字の物体が降下してきた。銀色の塗装が所々剥げてきているがスティッカー工場で長年使い続けられている愛用の電磁石だ。

 入り口の門を開け放つ。備え付けのパワーレバーを引き下げると電磁石が起動した。ガラガラと崩れるような音が聞こえる。捨てられたモノたちによって作られた山が一角から崩壊していく。コンクリートの地面と金属が擦りぶつかるこの音もすっかり聞き慣れた。今では打楽器を聴くような心地よささえ感じる。金属たちはそれぞれのパートを奏でながら次々に電磁石へ向かって地面を這っていく。

 全てのモノが電磁石に付くまで数分もかからなかった。俺はコントロール用のレバーに手をかける。電磁石アームは入り口付近に設置されているが、頭上を走るレールのおかげで簡単な操作で工場内を自由に移動することが可能になっている。操作に連動して、チェーンに吊るされた電磁石アームが捨てられたモノたちを引き連れて工場内を移動していった。

「パワーダウンっと」

 目的の場所までアームを動かすと、レバーを元の位置へと戻した。磁石としての効力を失ったアームから次々にモノたちが剥がれおち、雪崩のようだ。

 ここには先ほどの山と比べ物にならない程のモノが密集した山がある。みんな工場前に捨てられていたモノたちだ。この工場の敷地の半分は彼らが占拠していると言っても過言ではない。皆役目を失い、行き場を失ってやってきたモノたちばかりだ。見るたびに心が痛む。すぐにでも彼らを直してあげたいという気持ちはあるのだが、実際問題、俺一人で修理できる容量にも限界がある。頑張っても一日に五つぐらいが限度だろうか。全てを蘇らせるためには気が遠くなるような時間と労力が必要だ。

 でも、いつか絶対に彼らを全て修理し、生まれ変わらせる。

 それが俺の目標。そして、ここで溜まり待つ彼らへの誓いでもある。

「さて、戻って朝飯でも食うか………ん?」

 門を閉めようとした時だ。何かが足にぶつかったように思えた。視線が下がる。

 足元にあったそれは黒く、細長い。サイズは昨日修理したロボットと同等、それほど大きいモノじゃない。でも、明らかに重い。拾い上げると手にずっしりとした重量感が伝わってくる。表面は固く、手でなぞるとザラザラとしたわずかな凹凸と彫刻用の器具で削り出されたであろうカタチが認識されてくる。

 それは人をモデルとした石像だった。微細なテクニックで削られた石は見事なまでに美しい女性の姿を表現している。目を閉じ、胸の前で両手を合わせ、指を組む姿は神に祈りを捧げている修道女のようにも思える。

「金属じゃないから引き寄せられなかったのか、少し汚れてるな…」

 俺は石像を部屋へ持ち帰った。


 ガスコンロのつまみを捻り、火の灯った上に金網を敷く。その上にトーストを二枚並べ終わったところで一旦コンロから目を放した。

 隣にある水道から水を汲むと、ポケットからタオルを引っ張り出した。持ち込んだ石像をテーブルの上に置き、濡らしたタオルで磨いていく。

「こんなになるまで放っておかれたのか…」

 タオルがみるみる汚れていく。

 本来、こういった小さな石像は観賞が目的で作られるモノ。特定の場所に鎮座し、部屋を彩る装飾品として活躍するのが普通である。だが、この石像は違う。汚れを落とすこと自体は案外容易だったが、それにつれて表面に浮き出る無数の擦り傷や雨風の浸食した痕。飾られていたわけではなく、ずっと外の世界にあったことが一目瞭然だった。

 磨き続けながら俺は思った。―――どうしてこの石像は捨てられたのかと。

 別にこの石像に限った話じゃない。工場前に置き捨てられる鉄屑、道端に捨てられた人形。みんな使えなくなったから、壊れたから、もういらない。いらない=廃棄。そんな認識を持った人がこの世界には大勢いるのなら、それはとても悲しいことだ。

 俺ならその人たちにこう言い放つだろう。

『この世に捨てていいモノなんてない』

 例えば、事故にあって下半身不自由になった者がいるとする。モノの視点なら欠陥品。故障したモノだ。しかし、人の場合モノとは扱いが違う。普通に常識があるのなら、その人を見捨てるなんてことはしない。病院へ連れて行き、助けようとするはずだ。そして治療やリハビリテーションを受け、以前と同じとまではいかないがある程度の回復を遂げ、再び二本の足で大地を踏みしめることだって可能性が残されている。

 モノにも同じことが言える。たとえ使い道が無くなったとしても、一つの使い方が無くなっただけであって完全にダメになったわけじゃない。いくらでも直るし、リサイクルの仕方一つで新たな使い道だって生まれてくるはずだ。

 なら、どうして二つの〝もの〟には価値観のずれが生じるのだろうか?

 者を治すことが医療関係者の役目なら、モノを直すのは修理屋の役目。二つの〝もの〟にはそれぞれ彼らを治す(直す)事ができるスペシャリストがいるというのにどうしてなのだろう?

 答えは簡単だ。〝命〟というものが有るか無いか、たったそれだけのこと。

 者は〝命〟ある生命体に分類されるが、モノは〝命〟があるかも分からない物体というカテゴリーにくくられる。〝命〟はこの世の何ものにも代えられない価値を秘めている。だから尊重されるし、大切に扱われる。だが、モノにはそれが無い。本当に無いとも言いきれないが、少なくともそこが大きな違いとなってこのような扱いの差が生まれているのだと思う。

「?」

 焦げ臭い香りが鼻腔に飛び込んできた。慌てて顔を上げると、モクモクと金網の上のトーストが煙を上げていた。

「やっばッ!!」

 反射に等しい反応で、トーストを裏返した。だが、表になった面は墨汁をこぼしたように真っ黒だった。

「あっちゃー、焦げたか…」

 石像を磨きながら考え事をしてしまったせいで、火を使っていたことをすっかり忘れていた。綺麗になった石像を近くの棚の上に置くと、片面真っ黒になったトーストを『仕方ない』という目つきで皿の上に乗せる。食べ物は粗末にできない。

 片手に平たいスプーンを握った。冷蔵庫から取り出したジャムを焦げた所に広げ、間違いを正すようにトーストの表面を塗りつぶした。

「はぐ…」

 ジャムでベタベタになったトーストを一口かじりする。オレンジ色の甘酸っぱい香り。ジャム独特の甘さが上手い具合に味を中和する。

 食べながら視線を上の方に動かすと昨日夜遅くまでかけて直したロボット人形が目に止まった。次いで磨き終えた石像も。

 何をそこまで思ったんだろう?

 不条理。そんな言葉が浮かんだ。俺に対してじゃない、彼らのことだ。

 残りのトーストを口の中へ放り込み、咀嚼する。残っていたコゲが擦り潰され、シャリっと音を立てた。

「モノに生まれてきたおまえ達は、不運なのかもしれないな…」

 自分は〝者〟に生まれてきた。

 自由な手足がある。声を出せば意思表示だってできる。

 けど、それは選択できたわけじゃない。偶然の産物。ただ〝者〟として生きる権利を与えられたというだけの話。命あれど、動物あるいは昆虫に生まれれば高度な知能を得ることもなく、本能のまま弱肉強食の世界を彷徨っていたかもしれない。

 ただ、〝モノ〟に生まれればその価値観はがらりと変わる。

 そもそも、モノに《生まれる》という表現は適していないかもしれない。でも、あえて使おう。モノを作る人たちが《生み出す》という言葉を使うぐらいだ、間違ってはいないはず。中でも芸術家はまた違った言い方をする。

《命を吹き込む》――と。

〝命〟があるかないか、それが者とモノとを分ける。〝命〟の所存など大した違いじゃないかもしれないが、世間の認識は変わらない。二つの〝もの〟は確実に区切られ、線引きされ、それを確かめる術はない。

 だからこそ、憐れむ。

 きみたちがどれだけ欲しても手に入れることのできないもの。それを持っている俺たちは雲の上の存在。生存戦争の頂点に君臨する。上に立っているから足元が見えにくく、当たり前に思えてしまうことがこの世界にいくつあるだろう? 数え切れるものじゃない。

 だからこそ、俺はきみたちに謝罪する――。


【そんなことないよ】


「!?」

 透き通るガラスのように綺麗な声が俺の耳を貫く。驚いて座っていた椅子から転げ落ち、尻もちをついた。

「痛っ…、だ、誰だ!?」

 周囲を見渡すが、声の主と思われる人はいない。〝女性〟確かにそう分かった。

 そもそも、この工場内に俺以外の人は……。

【あっはは、そんなに驚かなくてもいいのに】

 声は苦笑する。どこの誰かも分からないヤツに笑われていた。

 勝手に人の家に入り込んでおいて、その家主を笑うなんて非常識にも程がある。

 一発ガツンと言ってやろう。そう思って、声のする方向へ振り返った。

「えっ?」

 そこに人などいなかった。

 誰もいない。あるのはさっき磨いた石像。戸棚の上から見下ろす形で、俺を見ているような気がしなくはない。

「は、はは…、俺、疲れてるんかな? モノが喋るわけ……」

【喋っちゃいけないの?】

「うわっ!?」

 驚いて跳び下がると、今度はテーブルの角に腰を強打してしまった。ジーンっと鈍いしびれにも似た感覚が広がる。

「くう~~~~っ!!」

 苦痛に顔が歪む。

【あはははははっ、私よりもあなたの方が不運だったりして!! あははっ】

 痛みで悶絶する俺を見て、石像はくすくす笑い続けた。

〝奇妙な光景〟と言い表す他に言いようがない。顔色一つ変えない石の塊が、俺の前で腹の底から笑っているのだ。とても現実とは思えない。

 頭が痛かった。

 ぶつけたわけじゃない。この場を理解するのに処理が追い付いてないんだ。様々な経験と学習が記憶という情報として蓄積されているが、そのどれとも適合しない。つまり、俺の脳は慌てている。何? 俺はファンタジーの世界にでも迷い込んだのか!?

 とにかく、今は落ち着くべきだ。冷静に冷静に。状況を把握できなければ対策のしようもないというものだ。何か手は――。

「………」

 そんなにすぐ解決策が浮かぶものでもない。モノに話しかけるなんて変な事だというのも分かっている。けど、そうするしか他に思いあたらなかった。

「あ、あのさ…、そろそろ笑うのやめてくれない?」

 するとケラケラと笑い死にそうな石像は素直に応答してくれた。

【ご、ごめんなさい…、あまりに面白すぎて…】

「そんなに面白かったか…?」

【ええ。こんなに笑ったの今日が初めてだもの】

〝初めて〟そう言うからには、この石像が喋りだしたのは、少なくとも今この瞬間ということになる。

 ただ、同時に気になった。これは新手のイタズラなのではないかと。最近新聞で読んだことがある。世の中には豆つぶのような小型マイクも存在していて、セットすれば、遠くからでも自分の声がマイクへ転送され、声を出せるられるらしい。

「………」

 俺は無言で石像に掴みかかった。

【ちょっ、いきなり何するの!? く、くすぐったい……あははっ!!】

 いちいち言動を気にしてられるか。どこかにトリックが施されているに決まってる。そうじゃなきゃ、現状の説明がつかない。

 あらゆる角度から石像を見渡す。持ち替えては表面を摩り、妙なモノがないか念入りに確かめていく。

「どこだよ、マイクは……」

【あっははっ! ま、まいくぅ? 何それ……あっはは!】

 点検してる間も『くすぐったい』と連呼しながら、石像は笑い続けた。

 ええい! 集中できない!! これじゃまるで、無抵抗な子をイジメてるみたいじゃないか。大人しくしてくれないかな、この石像は――。

 そう思った時だ。

 何が起こったのか。突如として石像は笑いを止めた。

【………】

「お、おい…? どうかしたのか?」

 揺さぶったり、叩いたりしたが、石像からの返答はない。

 音楽プレイヤーを一時停止したような感覚だった。あまりのボリューム差に、俺のテンションまで下がった気がする。

 そして、考えてしまった。

(壊れた――のか?)

 身体が大きく脈打つ。《直せ》と自分では抗えない命令が、脳から発せられる。

 こうなると、どうにも自分では制御が効かない。

 どう直すか? どこが原因? 修理に必要なモノは――――。


【……大丈夫。壊れてなんかいないよ】


「エッ!?」

 刹那、石像が俺の手の中で輝いた。夏に咲き誇るひまわりのように色鮮やかな黄金色の光。光には不思議と温かさと安心感があり、視界を一色に染め上げた。

 およそ数10秒は光っていただろうか。目を開こうにも至近距離からの発光で、すぐには瞼が上がらなかった。

 目がチカチカする。ぼんやりと霧がかったように周りがよく見えず、手に重量感がなかった。

 石像がない。驚いて落としたのか? 

 四つ這いになりながら、俺は手探りで石像を探し始めた。落としたのなら、近くに転がっているはず。

「……もしかして、私のこと探してる?」

 石像の声だ。

 やはり近くにあるのか。声の距離からしても、そう遠くない。

「見えてないの? 私、あなたの目の前にいるんだけど」

 ん? 目の前?

 顔をあげるが、霞んでよく見えない。

「大丈夫? 私何かしようか?」

「ん? そ、そうだな…、そこの棚。一番下に目薬入ってるから…持って来てくれると助かる」

「めぐすり…?」

「目薬…って、分からないのか!? ええっと、アレだ、透明で小さな入れ物に液体が入ってる」

「うーん、何となく…わかった」

 ギシギシと木の床を踏みしめる音。

 ズズズッと引き出しを開ける音。

 ガサガサと引き出しをあさる音。

「コレ…かな? 水が入った小さなビン。はい、手出して」

 右手を差し出すと、手のひらに目薬と思われる形状のモノが置かれた。

「おっ。ありがとな。助かったぜ」

 細いキャップを回す。顔を天井に向け、片手でまぶたを開いたまま固定し、潤いに満ちた液体を一滴ずつ両目に垂らした。

「くううううっ!!」

 目に沁みわたる爽快な感覚。数回瞬きをすると、大分目の霞みは取れたきた。

 これで捜索も楽に……?

「………」

 ここまで来て、俺はようやく気がついた。どうやって引き出しの中に閉まってあった目薬が、元に届いたのだろうかと。石像は〝モノ〟だ。いくらアイツが喋る石像だとしても、自由に動き回れるわけがない。

 ならば、一体どうやって?

「ねぇ、みえるようになった?」

 天井を向いたままの俺に向かって、石像は言う。背筋がひやりとした。

「あ…ああ、ば、ばっちり……かな」

 そのまま返答する。声が震えていた。

「ホントに? なら、どうして上ばっかりみてるの?」

「どどど、どうしてって言われると……なんとなく……かな?」

 正直、この体勢辛い。

 早く頭を元の位置に戻したい。けど、そんなことをすれば、自分の目の前にいるモノを直視してしまう。

 考えたくない。そんなことがあるわけないのだから。

「……やっぱり、変かな?」

 変? 喋ってる時点で十分変だよっ!! これ以上どう可笑しくになったって言うんですかいっ!? 喋って動く石像? 魔法で動く鎧みたいなヤツか? あるいは怪物? あらぬ妄想が次々と膨らんでくる。

 ともかく、下手に刺激しない方が身のためかもしれない。

「へ…、変ではないんじゃないか?」

 考えた末に出た言葉がコレだ。石像から返事がくるまで、少々間が空いた。

「私のことみてないのに、どうしてそう言い切れるの?」

 鋭い質問が俺の胸を貫く。

「そ、それは……」

「頭の中の勝手な想像で言ってない?」

「………」

 そう言われてしまっては何も言い返せない。

「ああっ! もう、分かったよ、見りゃいいんだろ? 見れば!」

 意を決して、俺は正面に向き直った。取りあえず、目はつぶったままで。

 今、自分の前にはどんな怪物が立っているのか?

 不安を抱きながらも、ギュッとつむった目のチカラを緩めていく。真っ白なスケッチブックに絵具を塗ったように、形よりも色が先に捉えられた。

「………は?」

 目の前に怪物などいなかった。

 ましてや、石像でもなかった。

 少女が一人、何食わぬ顔でぽつんと立っている。長く垂れ下がる黄色の髪。夕焼けを連想させる紅の瞳が俺を覗きこむ。胸元には黒いネクタイ。紺色のブラウスを纏い、同じ色で白いラインが入ったロングスカートは足くるぶしまで届きそうであった。一見してその姿はショーウインドウに飾ってある着せ替え人形と間違えてしまいそうである。

「………」

 開いた口が塞がらなかった。

 もしかしたら、人生で初めて顎が外れたのかもしれない。小さな石像から本当に女神のような子が現れたのだから。

 驚く俺を余所に、少女は両手を膝の前で重ね、深々とお辞儀をした。

「はじめまして。さっきは助けてくれてありがとう」

「あ、いや…、ど、どういたしまして…?」

 俺が頭を掻きながら返答すると、少女は頭をあげた。ふわりとした黄色い髪が舞う。どこか子供らしさが感じられる顔つきで、天使のような微笑みを俺に向ける。

 思わず、頬が熱くなった。

「ねぇキミ、名前なんて言うの?」

「えっ? お、俺はハイロ…、ハイロード・スティッカーだけど」

 戸惑いながらも答えた。この子がさっきの石像? どう考えてもそうは思えない。だって、今、自分の目の前にいる存在を〝少女〟以外に言い表すことができないのだから。

「ふ~ん、ハイロね。それじゃ、ハイロ」

「な、なに?」

 少女は馴れ馴れしく俺を呼び捨てにした。

 蛇に睨まれたカエルのように、俺は彼女の視線から目を逸らすことができなかった。彼女の瞳の中に吸い込まれるような感覚とともに、その赤く滾る灼熱の眼光に焼き尽くされそうになる。

「私、さっきからおなかの辺りが変な感じがするんだけど…」

「へ?」

 ぐぐうっと鳴るお腹を押さえながら少女は言う。その瞬間、緊張感が消え、立場が逆転した。

「なんだ、腹減ってるのか?」

「はらへってる?」

 少女は首をかしげる。

「お腹が空いてるってことだよ。分からないのか?」

「うん…、こんな感じ初めてだから……ねぇ、どうしよう?」

 どうしようと言われても困る。

 何? 石像が女の子に変身したと思ったら、今度は腹減った? しかも、あからさまに俺に何かを求めるような眼差しを向けてくる。

「ねぇ…」

「………」

「ねぇってば…」

「ああっ!! 分かったよ! 何か作ってやるからそこの椅子に座って待ってろ」

「作る? 私何か作ってほしいっておねがいしたっけ?」

「とぼけんな! 《腹減った》=《何か食べ物よこせ》って意味だろ」

「そうなの?」

「………」

 悪意の無い表情。俺は続けて言おうとしていた言葉をグッと抑え、飲み込んだ。

 彼女にとぼけているような様子はない。ただ単に分からないことに直面して首をかしげている。

 無知な子供のように――。

「理屈はどうにせよ。とにかくそこの椅子に座ってろ。いいな?」

「うん…」

 彼女が座ったのを確認すると黙って冷蔵庫を開いた。相変わらず大したものは入っていない。残っていた卵を一つ取り出し、熱した鉄板の上に落とす。じゅうっと音をが立ち、いい感じに火が通ったところでそれを手早く回収、トーストの上に載せて彼女の前に差し出した。

「………」

 何の変哲もない目玉焼きをのせただけのトースト。だが、彼女の瞳は興味深々に湯気を上げるそれを見つめる。

「ハイロ…、コレは何?」

「いいから、食べてみな」

 食べる。その意味も分からないのだろうか。困った顔をしていたので、俺はその場で自分の口を大きく開き、噛みつく動作を模倣した。

 それを見た彼女は躊躇しながらも小さく口を開け、トーストの端をかじる。

「んんんっ!?」

 電撃でも走り抜けたように彼女の全身がピクリとした。飛び出しそうな程に目を見開く。次の瞬間には無我夢中と言う感じでトーストを口に押し込んでいた。まるでハムスターの頬袋のようだ。噛み砕きながら少女の頬が膨らむ。

「なんて言えばいいのかな? すごくて、あったかくて、それで……」

 忙しなく咀嚼しながら彼女は答える。卵の黄身が口の周りにベッタリとついていても気づいていない様子。

「そういうのは〝美味しい〟って言うんだよ」

「へぇ…、おいしい……これがおいしいって感じなんだ」

 普通モノは食べ物を摂取しない。それは普通であった場合の話。

 今、俺の目の前に冷蔵庫の残り物を食べる普通じゃないモノが存在している。そもそも彼女のことを〝モノ〟と言い表していいのだろうか? 非現実的なことを深くは追求できないが、この子はつい数分前までただの石像だった。これだけは紛れもない事実。しかし、今はどこからどう見ても一人の少女。言うならば〝者〟。

〝モノ〟が〝者〟に変化するなんて聞いたことがない。それこそ魔法や超能力といった空想の話のようだ。

「ぷはぁ、おいしかった……」

 トーストは綺麗さっぱり彼女のお腹の中へ姿を消した。満足そうな顔。美味しいを満喫しきったと言うように椅子へもたれ込む。

「なあ、一つ訊いてもいいか?」

「なに?」

「おまえは一体何なんだ? もしかして……『悪い魔女に石像にされてました』なんて言わないよな?」

「……魔女ってなに? 私は私だよ?」

「あ、いや…、そういうポカンとした表情されてもこっちが困るんだけどな…」

「ねぇ、〝魔女〟ってな~に?」

「そこっ!? 訊くとこ違うくない?」 

 驚く暇はなかった。彼女は駄々をこね始める。

「ねぇ~、教えてよ~、私何も知らないんだよ? 私より色んな事知ってるハイロが教えてくれるのが普通でしょ?」

 普通じゃないものが普通とか口にする。聞いてるこっちは違和感しかなかった。 正直、彼女が知らないワードを口にしてしまった自分の責任であると考えると余計に溜め息が漏れた。

「……説明しないといけないか?」

「うん。私、〝魔女〟って何なのか知りたい!!」

 彼女の瞳はキラキラと輝いていた。おやつを期待して待つ子供のように。

 とはいえ、説明が難しい。《美味しい》も分からなかったんだ、普通に説明しても通じるかどうか。何か良いアイディアは……

「ハイロ、アレは何?」

 今度は何だ!? こう次々と質問されたんじゃたまったもんじゃない。

「ああ…、なんだ本じゃねーか」

「ほん?」

 彼女がの指の先は、雑誌や文庫など大小様々な本が積み上げられていた。もちろん、この本たちも捨てられていたモノたちである。

「色んな情報が文字と絵で書いてあるモノだよ。何か読んでみるか?」

「うん!」

 嬉しそうに彼女は返答した。

 ちょうどいい。俺の考えがまとまるまで時間をつぶしてもらえれば……

 ん? 本?

 俺の頭の中で何かが弾けた。そうだよ、良い方法があったじゃないか! きっとあの本なら。 

 俺は本の山に駆け寄った。積み上げられた順に上から探して行く。確か、普通の本よりも大きかったはず……。

「おっ! あったあった」

 表紙の埃を丁寧に払うとタイトルが見えてきた。


《アリス・イン・ワンダーランド》

 

 この世界で知らない人はいないと思われるメジャーなおとぎ話。ある日、主人公の女の子が時計を持った二足歩行のウサギを見つけて追いかける所から話は始まる。街の中央を流れる川のほとりに誰も知らない隠し通路があった。ウサギを追ってそこへもぐり込むと、そこには不思議な世界が広がっていて動物たちが普通に喋る魔法の国<スイルディーン>。そこは悪い魔女の侵略を受けていて、日が昇るたびに住民が一人ずつ石にされてしまう呪いに苦しんでいた。その悪い魔女に立ち向かうため、少女はその国の王様から伝説の剣を託される。剣には七つの小さな穴が空いており、世界各地に封印されている七つの魔法の宝石を全てはめ込むことで魔女を倒せるチカラが手に入る仕組みだ。

 女の子と共に旅をした仲間は二人いる。一人は、大きな巨漢が山を彷彿させる黒い熊。もちろん喋る。スイルディーンの憲兵をしていた彼は、国王の命令で女の子に力を貸すことになる。力自慢ゆえ着ている服が浮き出る筋肉の影響を受け、木端微塵に裂け散ることも多々。とても好戦的で相手が動かなくなるまでたたみかける性格であったため、女の子からも初めは怖がられていた。

 もう一人は歳が同じぐらいの女の子。人間だ。青い髪。波のようにうねる癖っ毛を気にしていたが、とても仲間想い。髪の色からして彼女は珍しがられ、人身売売買されていたところを助けられる。両親を探すという目的反面、助けてくれた女の子たちに感謝の意を表し、旅に参加する。しかし、戦いに身を投じるには彼女は優しすぎた。刃物など触れたこともないような子。戦力にもならない。そのため彼女が苦悩し、それでも力になりたいと思っている心理描写は絵本ながらも目を見張るものがある。最終的に彼女は皆と旅を続け、自分に秘められたチカラの存在を知り、最後まで皆をサポートしていくことを選んでいる。

 道中、魔女の手下やモンスターとの戦い、仲間内での対立、国絡みの問題や死を目の当たりにしてなお、女の子は突き進み、旅を通じて成長していく。やがて伝説の剣が完成し、結果、異世界を救うが、単に悪い魔女を倒して物語が終わらないというのは、この絵本の評価すべき点だと思う。

 悪者は倒す。悪は善によって滅ぼされる存在。決して許されるものじゃない。

 では、ここで尋ねよう。誰が初めにそんなことを言ったのか? 答えられる人はいるだろうか? 『そんなこと考えたこともない』きっとそう言う人が多いはずだ。

 誰が魔女のすることを悪いことだと決めつけたの? 何かするってことは必ず理由がついてくる。

『もし、魔女が行ってきたことが悪いことでないとわかった時、私は魔女とは戦えない…戦うことないと思う』

 旅の終盤。女の子はこう言っている。まだ子供、少女が言うにしては随分と大人びた考え方だ。

 けど、理に適っている。いじめる子、いじめられる子、二種類あるのと同じ。『いじめられる子が可哀そう』そう思うのは当然だ。でも、『いじめる子側にも理由がある。理由なくいじめることはまずない』そう考えたことはあるだろうか?

 物語のクライマックス。主人公と対面した魔女はこう言う。

『あたしたち魔女の国では疫病が流行っている。大地は枯れ、生命力を失い、絶望的な状況さ。それも全部、あんたたちのせいなんだよ! 魔法は大地の生み出すマナを糧にしてる。民衆が個人で使う分には大きな問題はない。けど、魔法を動力に稼働する建築物や機械は大量のエネルギーを必要とする。そいつらが増えるたび、大地はチカラを奪われる。あんたたちの国はそれを知ってて無視してたんだ、建物や機械を増やす一方だった。その被害が最も早く出たのがあたしたちの国なんだよ! だからあたしは呪いをかけた。石になってしまえば、動けない。これ以上大地が住民の手で苦しむこともない。消さなかっただけありがたいと思うんだね!!』

 魔女には魔女の言い分があった。それがわかったから、女の子は剣を突きたてなかった。この剣は魔女を刺すためのものじゃないと気づく。

 女の子は剣を大地へ突き刺した。剣にはめ込まれた七つの宝石のチカラを大地へ注ぐことを決めたのだ。両者が解り合える結末を模索した結果だった。そして世界は再び息吹を取り戻し、スイルディーンや近隣諸国は、豊かな環境づくりと評して進めてきたプロジェクトを見直す方向へ考えを改めることになる。

 

 絵本という形でこれだけのテーマを伝えている作品は他にない。全て理解するのは難しいかもしれないが、子供のうちからこういったものの考え方に触れられるのはいいことだと今は思う。

「………」

 物語を読む彼女は真剣そのものだった。一言も喋ることなく、物語の世界にどっぷりと浸かっていた。初めは、文字が読めるか心配で、俺が『読んであげようか』と声をかけたのだが、その辺はさすがに常識があるらしく『一人で読めるよ』と元気よく否定された。

 静かに本を読み続ける彼女の横顔。こうして見るとどう見ても普通の女の子だ。ちょっと子供っぽくて、世間知らずなところはあるが、誰がどう見ても一人の人間。石像だったなんて思わないだろう。

 そう、彼女は石像だった。でも、今は違う。

 彼女の存在は謎が多すぎる。やはり、常識では説明できない何かが関わっているのだろうか?

 もしかして、この子は絵本に描かれていた国の民で、本当に悪い魔女によって石にされていたんじゃ…?

「おわった~! おもしろかったよ、ハイロ」

「お…、おう!? それはよかった。魔女って何なのか分かったか?」

「うん。とっても悪い女の人なんだね。でも…悪いっていうのも難しいね」

 彼女に話しかけられたおかげで変な考えも頭の中から吹き飛んでくれた。絵本の国の住人だって? そんな都合のいい理由があるわけがない。だいたい彼女は…。

 あれ? コイツ…。

「なぁ、今さらなんだけど」

「ん?」

「おまえ、名前は何て言うんだ?」

「なまえ?」

「名前だよ、な・ま・え!! まだ訊いてなかっただろ?」

「知らない」

「えっ?」

「何も覚えてないの…、ハイロにひろってもらったときよりも前のこと。だから名前はわからない。それにもともと私に名前があったのかもはっきりしないんだ…」

 明るかった少女は俯いた。俺は一番訊いてはいけないことを訊いてしまったかもしれない。

 冷静に考えれば分かったことだ。〝者〟としての常識がほとんどない彼女にとってこの世界は知らないことだらけ、言うならば、生まれたての赤子に等しい。

「悪い…俺、何も考えないで訊いちゃって……」

「ううん。気にしないで。私に名前がないのは事実だもの」

 ぱたんと本をテーブルの上に置いた。

 そして彼女は静かに言った。

「ねぇハイロ、私に名前つけてくれない?」

「え…」

「ハイロが私の名づけ親になってほしいの」

「………」

 以前、似たようなことを言われたことがある。

 名前を付けて欲しいと――。

 でも、俺は名前を付けることができなかった。

 それは俺の最初で最後の償えない罪だったのかもしれない。

 気づけば緊張して手に汗がにじんでいた。呼吸が乱れる。落ちつけ、焦るな、今はあの時と違う。怖がる必要はない、思い出して苦しむこともないんだ。

 胸元に当てた手をぎゅっと握りしめる。

「きまった?」

「え?」

「私の名前」

 きょとんとしたまま彼女は俺を見ていた。

「…俺なんかが決めていいのかよ、一応、初対面だぞ? 自分で付けるって選択肢もあるんだ、考えてみてもいいんじゃないか?」

 彼女は首を振った。

「私、モノだったからかな? やっぱり誰かに名前をつけてほしいって身体がそう言ってるの。人は壊れたり、汚れたモノを見れば普通すぐ捨ててしまう。でも、ハイロはそうしなかった。私をひろって綺麗に磨いてくれた。すごくうれしかった。やさしい人なんだって思った。だから、私の名前もこの人にきめてほしい。そう思ったの。何でもいいんだよ? ハイロがいいと思ったのなら」

 彼女は笑みを浮かべる。そう言われてもすぐに思いつかなかった。

名前は何種類もあるし、世界には名前が同じ人はだってたくさんいる。でも、一人として同じ人なんかいない。いるはずがない。

 なら、どうして名前が必要なのか? そんなの決まってる。〝その人と関わりを持つため〟コミュニケーションするためだ。モノに使ってくれる人がいなければ何にもならないのと同じで、人も一人では何もできない。他者との交流を持ち、互いに役割を決め、支え合って社会というものが成り立っている。だから互いの存在を確立するもの〝名前〟が必要になってくる。

 実際、俺がそうだったように、彼女も俺と関わるために名前を尋ねてきた。一方的な関係なんてダメだ。双方向性な関係を築くためには、この子にも名前が必要なんだ。

 父さんと母さんも俺に名前を付ける時こんな風に迷ったのかな?

 そういえば、昔、母さんに俺の名前の理由訊いたことがあった。


 確か、あの時――。


『自分の名前の理由が知りたい? へぇ~、いつの間にかそんなことを気にするような年頃になったんだ。そうね、特に由来とかはないけれど、大事なのはその何を感じたかかな。あんたを生んで初めて見たとき感じたんだ。《この子は大きくなる。誰よりも高く、そして、真っすぐな道のように人生を突き進んで行くんじゃないか》ってね。だから、あんたの名前はハイロード。簡単な理由でしょう?』



「……〝アリス〟ってどうかな? きみの名前」

「ありす?」

 どこかで聞いた。彼女はそういった顔をした。

「さっきおまえに読ませた本の主人公と同じ名前だよ」

「ああ、そうそう。あの異世界を救った……でも、何で同じなの?」

「ん? 読んでて気づかなかったのか?」

 テーブルに閉じて置かれた絵本を再び開く。

 伝説の剣を構え、魔女と対峙する少女が描かれたページを俺は指さした。

「ほら、ココ。主人公……って女の子だからヒロインか。髪の色おまえと同じだろ?」

「ほんとだ……私と同じ黄色い髪の毛してる」

「ふと思ったんだ。似てるなって。ただそれだけなんだけど…」

「………」

 彼女は絵本を黙視していた。

 動かずに、ただ、絵本を覗きこむ。

 まるで〝モノ〟のように――。

 やっぱり、こんな安易な考えじゃダメだっただろうか。

 俺の胸の内が言葉となって零れそうだった。こらえる。彼女と顔を合わせるのが恥ずかしくなり、自然と目線が下がっていた。

「私、コレでいい。ハイロはコレがいいと思ったんでしょ?」

 頭を起こした彼女の黄色い長い髪の毛が、風を受けたカーテンのように靡いた。

 紅の瞳が宝石のようにキラキラと輝いていて、互いの視線が交錯した。

 彼女の問いかけに俺は黙って頷く。

「それじゃ、きまり。今日から私の名前はアリス。よろしくね、ハイロ」

 彼女…いや、アリスが俺に右手を差し出す。白くて細い繊細な腕。しなやかな動き、手のひらが大きく広がっている。

「ああ、よろしくな。アリス」

 俺は手を握り返した。手を通して伝わる温かい温もり、ふと思った。


 こうしてあの子の手を握ってあげることができれば、俺はどれだけ安らぎを感じただろう? 

 幸せだったんだろう――と。


 今ならできるんだろうか?


 迷うことはないんだろうか?


 アリスのように名前のないあの子。今の俺ならちゃんと名前をくれてあげることができるんだろうか――と。

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