七の章 アキツの声、武彦の心

 ヒノモトの国。


 ワの女王となるべき立場にあったアキツは、生まれて初めてその地を訪れた。オオヤシマの西半分を領土とするヒノモトは、東のヤマトに比較し、気候は温暖、農作物も豊富に収穫される。長期戦になれば、国土に荒地が多くて兵糧の蓄えが少ないヤマトは自滅する。ナガスネはそれを見込んで、意図的に総力戦を避けるようにし始めた。

「緑豊かですね」

 彼女は窓の外に広がる緑地を見て、向かい合わせに馬車に乗っている長に声をかけた。彼はアキツを監視するために同行していたが、彼女の美しさに顔を合わせる事ができず、俯いたままだ。馬車の中は狭いため、アキツの顔は長のすぐ目の前にある。余計に見る事ができない。そんな長の緊張をアキツは嫌悪と勘違いし、

「すみませぬ」

と詫びると、窓の外に目を向けた。長はホッとすると同時に、この高貴な方を怒らせてしまったのではないかと更に緊張してしまった。


 一方、アキツが一人でホアカリの元に向かっている事を伝令兵から伝えられたナガスネは、

「あのツクヨミが同行を申し出なかったとは、何か企んでおるのか」

と勘繰り、

「ツクヨミから目を離すなと伝えよ。彼奴は必ず動くはず」

「はは」

 ナガスネはその後、自分の館を出てホアカリの城に出向いた。

「陛下にはご機嫌麗しく」

 謁見の間で形ばかりの敬いの言葉を述べ、ナガスネは話を始めた。

「アキツがこちらに向かっております。如何様な思惑があるのかわかりません故、まずは私が会う事に致します」

 ホアカリは隣に座る妃トミヤを見た。トミヤは兄ナガスネを心配そうな顔で見ている。

「わかった。しかし、ナガスネ、アキツ様を呼び捨てとは、無礼であるぞ」

 ホアカリの精一杯の返しである。ナガスネは苦笑いをして、

「これは申し訳ありませぬ。しかし、もはやあの方は、王族でも王でもございませぬぞ」

「そうではあるが、我らの上に立つべきお方だ。ないがしろにするでない」

 ホアカリは、ナガスネが反論しないので、もう一歩踏み込んでみた。

かしこまりました」

 ナガスネはこうべを垂れ、ホアカリに見えないところでニヤリとした。

「失礼致します」

 彼はスッと立ち上がり、退室した。

「陛下」

 兄が退室すると、トミヤは小声で夫に言った。

「ワの王家の秘剣であるアメノムラクモ、アキツ様にお返しする機会です。兄に命じてお返しくださいませ」

「そうだな。あのつるぎは、私が持っているべきものではない」

 ホアカリは力なく微笑み、答えた。トミヤは、

してや、我が兄が隠し持つなど、許されざる事です」

と語気を強めて言った。

 しかし、その当人であるナガスネは、アキツの目的がアメノムラクモであると予測しており、どうやって誤魔化すか思案していた。

(トミヤがホアカリを後押しして、アキツに剣を返そうとするのは承知。しかし、あの剣は返さぬ。アキツはもはや飾りにもならぬ。そのような女子おなごが、アメノムラクモを持っていても仕方あるまい)

「聞かぬ時は、あるいは……」

 いくらナガスネが狡猾と言えども、アキツを手にかけるのはさすがに躊躇ためらわれた。

「そこまではしたくはない」

 ナガスネはフッと笑い、城の中にある自室に入った。


 一人国境の陣に残ったツクヨミはアキツの身を案じながら、ヤマトに引き上げるふりをして出立する事にした。兵達は、ツクヨミが動くたびに身構えるので、彼は笑いそうになってしまった。

(随分と警戒されているようだ)

 ツクヨミは部隊の長がアキツに同行したので、その次の位の兵にヤマトに帰る旨を告げて、陣を出た。兵達はしばらくツクヨミの後をつけて来たが、彼がアマノヤス川に向かって歩き始めたのを確認すると引き上げて行った。

(アキツ様、ホアカリ王はともかく、ナガスネ将軍にはお気をつけください)

 ツクヨミは遥か彼方にあるヒノモトの城の方向を眺め、アキツの無事を祈った。

「さて、私も動くか」

 彼はそう呟き、再び歩き出した。


 ウガヤは謁見の間で、国境に放った斥候からの報告を受けていた。

「そうか。ツクヨミは足止めされ、アキツだけがヒノモトに行ったか」

 斥候は跪いて、

「はい。ツクヨミはしたるあらがいもなく、素直に引き下がった様子。そろそろこちらに戻りましょう」

「わかった。ご苦労であった」

 斥候が下がると、ウガヤはイワレヒコとイツセを見た。

「どう思うか、お前達は?」

 すると、イツセが、

「アキツ様はアメノムラクモをお取り戻しに行かれたのではないでしょうか? ナガスネが戦の混乱に乗じて、盗んだと聞いております」

「そうだな。アキツが自らヒノモトに赴くは、それくらいの理由わけがなければならぬ。アメノムラクモはそもそも王族の剣。ナガスネ如き下賎の者が手にして良い物ではない」

 ウガヤはそう言いながらも、もしアキツがアメノムラクモを取り戻したら、彼女諸共ヤマトに奪い取るつもりでいた。凡庸な兄ホアカリが、成り上がりのナガスネの思うがままにされているのは、ウガヤにとって非常に不愉快なのだ。オオヤシマを我がものにするのも目的であるが、それ以前にナガスネの息の根を止めるのもウガヤの悲願である。そして、そんなナガスネに利用されているホアカリさえも、始末しようと考えているのだ。恐るべき弟である。

「私が出立して、アキツの首とツクヨミの首、更にはアメノムラクモを手に入れて参りましょうか、父上?」

 イワレヒコが狡猾な笑みを浮かべて進言した。イツセはギョッとしたが、ウガヤはニヤリとした。

「そこまでする事もあるまい。動かずとも、アキツは来る。ツクヨミと共にな」

「そうでありますかな」

 イワレヒコは父を尊敬しているが、何もかも人にやらせるところは好きになれない。彼は残虐ではあるが、卑怯ではないのだ。

「それに、アキツはすでに王族ではないとしても、まだまだ民の心を惹きつけている。あの女をあやめれば、ヤマトの国はまとまらぬ。アキツを手にかけようなど、この後一切口に致すな、イワレヒコ」

 ウガヤは何時いつになく鋭い口調で言い放った。イワレヒコはそれに気圧けおされるように、

「ははっ」

ぬかずいた。イツセはウガヤがアキツまで手にかけるつもりではない事を知り、ホッとしていた。



 磐神武彦は、バイトを休んで近くの大学病院に行った。当然の事ながら、姉美鈴も同行している。武彦は病院に来るのは本当に嫌だったのだが、今までに見た事がないほど心配そうな顔の母珠世と姉を見て、仕方なく同意したのだ。ここまで来るのに何度溜息を吐いたか知れない。

「同じ夢を何度も見るのですか」

「はい」

 武彦は心療内科で問診を受けていた。医師は若い男だ。何故か美鈴も一緒に診察室にいる。

「何日もそういう事が続いているらしいんです。始めは只の疲れだと思っていたのですが、最近は起きていても幻聴が聞こえるらしくて」

 武彦の代わりに美鈴が答えた。医師は露骨に迷惑そうな顔をして美鈴を見る。

「お姉さん、心配なのはわかりますが、診察の妨げになりますので、一度退室して頂けますか?」

「えっ?」

 意外な事を言われて、美鈴はキョトンとした。医師は続けた。

「心的な病気は、身近な人の影響によるものが多いのです。お姉さんがそばにいると、武彦君の心の内が覗けない恐れがあります。退室して下さい」

「は、はい」

 美鈴は納得できなかったが、医師がそう言うのでは従うしかないと思い、診察室を出た。

「さてと。武彦君、もう何も心配する事はないよ。全部話してくれたまえ」

 医師は微笑んで促した。彼は美鈴と武彦の関係を見て、原因は美鈴にあると判断したようだ。ある意味では、正しい判断である。医師の言葉に武彦は呆然としていたが、

「は、はい」

と応じ、見た夢と聞こえた声の内容を話した。

「最近、テレビや新聞でどこかの国の戦争の話を見聞きしたりしましたか?」

「いいえ」

 武彦は即答する。医師は腕組みして、

「では、高校の授業で、そのような話を聞きましたか?」

「いいえ」

 武彦は、医師が自分の話をまるで信じていない事に気づき、ガッカリしていた。

(これじゃ、相談できないよ。僕が嘘を吐いているみたいな扱いじゃないか)

 その時だった。

『助けて下さい。私はワの国のアキツ。オオヤシマが戦で……』

 また声が聞こえた。武彦はくうを見つめるようにその声を心の中で反復した。

(オオヤシマ? アキツ? ワの国? どこの国?)

 歴史が苦手な武彦には、「ワの国」が昔の日本の国名だという事に考えが及ばなかった。仮に考えが及んだとしても、何の解決にもならなかったろうが。

「どうしたのかな、武彦君?」

 医師が訝しそうな顔で武彦を見ている。武彦はハッとして、

「あ、いえ、何でもありません」

とぼけた。

「もしかして、また聞こえたのかな、声が?」

 医師の鋭い指摘に、正直者の武彦はギクッとしてしまった。プロの目には丸わかりだったようだ。

「い、いえ、違います。すいません、ボンヤリしてました」

 武彦は何とか誤摩化し通した。医師の疑いの眼差しが痛かったが、武彦は最後までシラを切った。

 結局、武彦の病名は判明せず、薬も処方されなかった。但し、もう一度診察を受けに来るようにとは言われた。

「何だよ、ヤブ医者め。知り合いの紹介だったから、文句言えなかったけど」

 病院を出るなり、美鈴は毒づいた。そばを歩いていた患者達が驚いたように彼女を見た。

「今度は違う病院に行こう、武彦」

 美鈴は自分を診察室から追い出した医師を信用していないようだ。

「う、うん」

 武彦が元気がないので、

「元気出せ、武彦。姉ちゃんがついてるから」

と美鈴は武彦を抱きしめた。柔道を習っている姉は、武彦よりずっと頑丈な身体をしている。

「く、苦しいよ、姉ちゃん」

 もがく武彦を更に美鈴は強く抱きしめる。武彦の身体に美鈴の柔らかい胸が押しつけられ、武彦は赤面した。

「うるさい。姉ちゃんと母さんが、どんなに心配しているのか、お前全然わかってない! 何でも一人で悩むなよ」

 武彦が美鈴を見ると、彼女は涙ぐんでいた。またドキッとしてしまう武彦である。

「もっといろいろ相談してくれていいんだぞ。そのために、姉ちゃんはいるんだからな」

 武彦は顔が熱くなっているのを悟られたくないので、俯いて答えた。

「う、うん」

「よし」

 美鈴は武彦をもう一度ギュッと抱きしめてから涙を拭い、歩き出した。武彦はそんな姉の背中に、

(姉ちゃん、ありがとう)

と心の中で感謝した。

(でも、ワの国ってどこだろう? 委員長に聞けば知ってるかな?)

 言われたそばから、幼馴染で同級生の都坂亜希を思い出し、姉に相談するつもりがない武彦だった。美鈴が知ったら、拳骨一万発でも許されまい。

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