第10話 穢れなき眼

 ところで、里見義頼さとみよしよりに偽の情報をつかまされ、また数少ない安房あわ勢の抵抗を受け退却を余儀なくされた正木憲時まさきのりときはというと、傷心の中、彼の居城大多喜おおたき城を目指していた。


 途中、落とした金山城がまだ無傷で残っていること、そして安房岡本城の守備兵力が思いの外ごく少数だったことを知ることとなる。

 その知らせを聞き、追従ついじゅうしていた正木時盛ときもりは岡本城へとって返すよう何度も促したが、憲時はついにきびすを返すことはなかった。

 彼はすでにこの戦の形勢を見定めていたのである。


 事実、正木勢が葛ヶ崎くずがさき城の通過したとき、千本せんぼん城から進撃してきた義頼の軍勢は金山城に攻め込み、これを即座に奪回した。

 そればかりではない。さらに、佐貫さぬき城を囲む義頼軍からの援兵と会わせた一万五千は、雪崩れ込むようにと大多喜城まで駒を進めていたのである。


 もしあの時、正木憲時が岡本城へ戻っていたならば、彼らの一兵たりとも二度と上総の地を踏むことはできなかったかも知れない。そう言う意味では、正木憲時もやはり歴戦の勇として数えられるに値する武将であったといえよう。


 大多喜城へと辿たどり着いた憲時は、それでもまだ義頼に対して降伏することなど考えもしなかった。

 すぐさま籠城ろうじょうの用意をすると、援軍を要請するため北条、佐竹さたけ、千葉などに宛てた書状をしたためた。

 このように、すぐさま次なる一手に着手するところ辺りが、戦わずして佐貫城を明け渡すことを選択した加藤信景のぶかげとの違いでもある。

 しかしながら、世の形勢は正木憲時が思う以上に、すでに里見義頼側へと傾いていた。


 「ほんに、どこでどう間違えたのか。戦とは面白いものじゃ」

 憲時は城を囲む数万の軍勢を前に、一人そのしわがれた顔をくずした。



 一方、佐貫城の明け渡しを終えた義頼は、その足で梅王丸うめおうまるの部屋へと向かった。供には秋元弥七やしちを従えている。

 部屋の前まで来ると、部屋付きの次女じじょが静かにふすまを開ける。部屋の中には幼い梅王丸の姿があった。

 甲冑こそ身につけてはいないものの、その小さな頭には里見家の象徴ともいえる紫色の鉢巻きが巻かれている。

 梅王丸は静かに両の手をつくと、義頼に対し深々と頭を下げた。


 「梅王殿、怪我はされておらなんだか?」

 義頼は目を細めては、梅王丸のその小さな手を自分の掌の上に置いた。

 「叔父上、叔父上は私を殺すので御座いますか?」

 梅王丸は、けがれのない眼で義頼を見上げる。

 「誰がそのようなことを。そなたはわしの義弟おとうとではないか」

 「叔父上は、この上総かみふさの民をお斬りになるので御座いますか?」

 梅王丸の目には涙が込み上げ、それは一筋の流れとなってほおをゆっくり伝わった。


 「わしは上総の民も、安房の民も皆供に仲良く暮らせる世を作るために、梅王殿を迎えに来たのじゃ」

 義頼は、この小さな身体に里見家を背負わせたあの重臣達に、改めていきどおりと怒りとを感じずにはいられなかった。


 部屋を去るとき、義頼は南蛮渡来なんばんとらい金平糖こんぺうとうを梅王丸に手渡した。

 「叔父上、これは何というものですか? たいそう甘くて、信景にも食べさせたやりたいのですが・・・」

 梅王丸は紙に包まれたその一つを口にすると、気が許したのであろう、いつもの幼い子供の顔に戻っていた。


 その後、梅王丸と加藤伊賀守信景は安房岡崎城へと送られた。

 信景の処遇について義頼の家臣らは、極刑を持って対処すべしと主張したが、義頼はそうはしなかった。

 敗戦処理の中、一人で敵陣まで足を運んだ信景に対して、その男気おとこぎを感じたためだろうと言うものもあったが真意は違っていた。


 義頼は梅王丸のために、ただ梅王丸の為だけに信景を残したのである。

 幼くして父義弘よしひろを亡くした梅王丸にとって、ある意味信景はただ一人心の許せる存在であったのかも知れなかったのだ。


 城を出立する日、義頼は駕籠かごの中の梅王丸に声をかけた。

 「梅王殿、わしはいつでもそなたの見方じゃ。よいか」


 偽りのない眼差しでこちらを見つめると、こくりと頭を傾ける。同時に、「叔父上、信景の姿がありませぬが」と、加藤信景の所在を案ずる、幼い梅王丸の顔が、義頼にはいつまでも脳裏から離れなかった・・・


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