第一章 花弔封月 PART6
6.
一月四日。
寒さで目が覚めたため、意識ははっきりしている。だがいつも通りの現象が起こっており心の中は本調子ではない。
机の上に佇んでいる日記に目を通すと、いつも通り記録が更新されていた。小さく溜息をつきリビングに向かう。
「おはよう、お姉ちゃん」
千鶴はすでに寝巻きを脱いでおり、きちんとした身なりになっていた。フライパンの上で生卵がじんわりと広がっている。
「気分悪そうだね。大丈夫?」
「……おはよう」
千月は欠伸を上げて下腹部を擦った。
「体はそんなにきつくないんだけどね」
「そっか。それ以外に変わった所はない?」
「うん、いつも通り頭以外は大丈夫」
目玉焼きを挟んだパンがテーブルの上に置かれている。両手を合わせ何もかけずにそのまま齧った。半熟の卵がとろりと溶けてパンに染みこんでいく。この食べ方が一番美味しい。
「昨日は一件だけだったの?」
千鶴に尋ねると彼女はこくこくと首を縦に振った。
「うん。元小学校の先生の式が一つだけだったみたい」
日記と照らし合わせる。子角という人物の告別式があったらしい。
「それに今日は一つ仕事が入ってるみたいよ。お姉ちゃんが病院に行って打ち合わせをしたみたい」
千鶴の言葉を受け千月は赤のマーカーで引かれてある部分を見た。今日は一件入っておりコースもすでに決まっているとのことだ。ただし年齢はかなり若い。バイクでの転倒事故という報われない形で通夜を迎えるらしい。恐らく遺族とのやりとりに四苦八苦したことだろう。
「そうみたいね。今日は喪家に気を使わないといけないなぁ」
「大丈夫よ」
千鶴はあっけらかんとした顔でいった。
「明日になったら忘れちゃうんだから、そんなこと考えても意味ないよ。式の時にはまた記憶がなくなっているんだから」
「……まあ、そうなんだけどさ」
自分は特殊な病気を患っている。
前向性健忘症という一種の記憶障害だ。健忘症とは新しい記憶を覚えることができないことを指す。つまりその日暮らしの記憶しか持ち合わせていない。
だが記憶がない中でも日記を書く習慣が残っているため、特に不便はない。なので最近はあまり気にしていないのが現状だ。
それに記憶を失う理由は分かっているのだから――。
「ところで千鶴、このテーブルの花は何?」
「凪さんに貰ったの。あ、思い出した」
千鶴は唐突に花瓶にある花を指差した。
「この花言葉、『謙虚』っていう花言葉もあったんだ。そうだったそうだった」
そういって彼女は一人納得し満足そうに珈琲を啜った。
食事を済ませた後、再び部屋に戻り制服に着替える。何気なく部屋を見通していると、見覚えのないビニール袋が目に入った。
中を開けると女性用のニットやセーターが入っている。それに膝より短いショートパンツにショッキングピンクのハイソックス、底の薄いローヒールの靴まである。鏡の前でセーターを体に添わせてみる。袖は自分のものよりもずっと長い。
……まさか自分が買って来たものなのだろうか?
「ねえ千鶴。この服、誰のか知らない? それにお泊りセットみたいなのも入ってる」
「さあ? 仕事帰りに持って帰ってきたみたいだけど」
「私のサイズじゃないんだけどなぁ。私のより結構大きいよ、これ」
「じゃあ私のでもないじゃん。お姉ちゃんで大きいなら、私はもっとブカブカだよ」
「それもそうね。どこで貰ってきたんだろう」
時計を眺めると出社時間が迫っていた。このままでは遅刻しそうだ。急がなければ。
「じゃあ、千鶴。行ってくるね。戸締りよろしく」
「はいはい、気をつけてね」
慌てて紙袋を掴み愛車に放り込んだ。きっと職場の誰かに預かったものだろう。日記に書いてないということは大したものではないと推測が働く。
車の前面にお湯を掛けて薄氷を剥いだ後、エンジンに鞭を打つようにアクセルを踏み込んだ。
◆◆◆
斎場に着くと、花屋の深緑のハイエースがすでに止まっていた。車の中はすでに空になっている、きっとホールの中に運び込んでいるのだろう。
事務所で出社のタイムカードを押した後、一通り故人のプロフィールに目を通すことにした。
丑尾誠一。19歳。身長185cm、体重65kg。運送会社で勤務。会社名はスタードライバー、全国区で有名な運送会社だ。正社員ではなくバイトらしい。
注目すべき点は体の大きさにある。この身長では普通の棺では入らない。特注の棺も昨日の時点で頼んでいるに違いない。
「おはよう。今日は一段と若いな。菊を入れずに洋花で明るい感じと聞いているが、それでいいのか?」
「うん。何でも葬儀らしくない方がいいみたい」
彼女は日記の文を思い出しながらいった。
凪が花を挿し始めると、後ろからすみません、と声が響いた。
振り返って後ろを見ると背の高い女性が立っていた。その姿に思わずたじろいでしまう。
黒を基調とするフリフリのゴシックファッションのドレスを着用している。髪は真っ黒だが右目には髑髏マークの眼帯がついており化粧もばっちりしている。
「お、お世話になります」
千月は慌てて頭を下げた。だが女性はそのまま呆然と立ち尽くしたまま写真に目をやっていた。もしかすると故人の友人なのだろうか。
「……あの、
枯れたような低い声だった。苗字しか記憶になかったので、慌てて本名を思い出す。
丑尾誠一。間違いない。
「はい。今日の夜、19時から通夜が始まる予定ですが」
「……そうですか」
彼女は写真を眺めた後、自分の時計を確認した。格好には不釣合いな大型のGーSHOCKが
「ありがとうございます……失礼しました」
女は頭を下げた後、すぐに斎場から出て行った。
「故人の友達かな?」
「そうかもね」
「それにしても常識がないよなぁ。あの子」
凪は顔をしかめながら金魚草を掴んだ。
「黒づくめで来ればいいってもんでもないだろう。あんな格好で来たら遺族もびっくりするよ。ほんと、最近の若者は何考えてるんだか」
「そうね……」
凪は手を止めてこちらに振り返った。
「ん、どうした? 浮かない顔して。まさか、あんな格好がしたいのか」
「ち、違うわよ」
千月は大きく首を振った。
「いきなり話しかけられたから、びっくりしただけ。もしかすると彼女、故人の恋人だったのかもしれないわね」
「そうだとしたら?」
「それだったら何となく理解できるわ。彼が好きだった格好で最後の思い出を作りたいんじゃない?」
それに彼女の声は異様に低かった。きっと泣きすぎて声を枯らしているのだろう。
「そうだとしても……俺は嫌だけどな」
凪は眉間に皺を寄せながらいった。
「最後の思い出だからこそ、きちんとした格好で弔わないと。死ぬまで記憶に残るような思い出になっちまうのに、あの格好はないよ」
たしかに凪のいう通りだ。
いくら十代だとはいえ奇抜な格好で斎場に入ることは恥ずかしい。今の自分にはできないし、したとしても記憶には残らないだろう。
……はたして自分の記憶はどこまで正確で、どこまでが真実なんだろう。
日記に全てを頼っている所が何より脆く、儚い。今の自分には永遠に残る記憶なんてものは存在しない。
彼を救うまでは――。
「……ねえ、凪。今日は何月何日の何曜日?」
「今日は一月四日の金曜日だよ」
「……そっか、ありがとう」
一時の静寂を越えて、千月は凪に背を向けて呟いた。
「永遠に記憶がなくなるってことはさ、死ぬのと一緒なのかな。意識がないってことは何も選択できずに生かされているってことになるのかな」
「いや、そうとは限らないよ」
凪は腕を組んで続けた。
「例えば、お前の意識がない中で体が動いたとする。他人はそれをどう見るだろう。きっとお前が動いているとしか思わないはずだ。意識があるかないかは外からじゃわからないからな。だからそれは死んでいるとはいえないと思う」
なるほど。自分の記憶がなくてもそこに自分は存在している。それは生きているといえるのかもしれない。
「凄いわね、ちょっと見直しちゃった」
「……止めてくれ。俺だってこんな仕事してなきゃそんなこと考えてないよ。考えたってしょうがないもんだしな」
「それもそうね。凪がいつもそんなこと考えてるわけないか。食べ物のことでいつも頭一杯だもんね」
「なんだよっ。真面目に答えてやったのにさ。あーあ、こっちが馬鹿みたいじゃないか」
凪が頬を膨らませて花を挿していると、遺族がホールに入ってきた。皆、祭壇に掛かってある写真に視線がいっている。
「お世話になります」
二人で頭を下げると、遺族が肩を震わせながら固まっていた。部屋の空気が一段と重くなっていく。
千月は身を強張らせながら遺族の動向に注意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます