中
2
桜はもう殆ど散ってしまった四月、男は高校に入学した。あまりぱっとした成績のとれない男にとって、公立の、それも全国的にも名の知れた高校に合格したことはほとんど奇跡と言っても良いほどのものだった。
入学式、真新しい制服に身を包んだ新入生たちに、その高校の校長はもごもごと口を動かし、滑舌悪く、しかししっかりと彼らに伝えるという意志を持って、こう言った。
「これからますます忙しくなりますよ。」
全くその通りだった。
男には受験期と同じ、いやそれ以上の勉強時間が要求されるようになった。さすがに名の知れた学校だけあって、授業の進度はすこぶるはやく、その内容も高度だった。成績は目に見えて落ちてゆき、やらなければいけないことは山のように積まれていった。
七月になる頃には彼の頭と部屋は溢れかえっていた。男が一歩踏み出す度に教材の山は崩れ、もうどこに何があるのかわかったものではない。以前ならその一つ一つが崩れる度に男は再びそれらを積み直し、精神をすり減らしたものだったが、今となってはもう見向きもしない。何も感じなくなってしまったようだった。
前だけを見て――いや、何も見ず、その虚ろな目をそれでも前に向け、歩いてゆく。
しかし、奇跡は二度も起こらない。
夏休みの中頃、男の世界からは色彩が完全に失われてしまった。花にも、空にも、目にも、大好きだった音楽にも、色みを感じられなくなってしまった。
全てが単調だった。今が、未来が、――しかし、過去だけは違った。
春に散った桜、夏に駆け回った山、秋の並木道に降る落ち葉、冬に焚いた火。そういった記憶は鮮明に蘇った。無自覚な恋の薫りや蝉の鳴く声、拾い集めたどんぐりの手触りや口に入った雪の味さえも、今そこにあるかのように思い出すことができた。
男はだんだんと、そうした追憶の世界に行くことが多くなっていった。そこに行くとき、男はいつもペンと紙とを携えていた。それらはより深く追憶の世界に入っていくために必要不可欠なものだった。
3
男が何よりも先に思い出したのは、保育園の頃のことだった。
五月、よく晴れた昼前の保育園の園庭で、保育園児たちは泥と戯れていた。園児たちはその数約十名ほどで、大人からしてみれば小さすぎるが園児にしてみれば十分すぎる大きさの泥場の中にいた。転がったり、足で泥を踏む感触を楽しんだり、手で互いに泥を塗りつけあったりしていた。五月の日射しに生ぬるい泥の感触が心地よかった。五分も経たないうちに誰もが泥まみれになり、皆一様に真っ黒になっていた。園児たちは笑い合った。園児たちはあまり物事を考えることができなかったが、何も考えなくてもその感触が面白かった。その目から見える色が可笑しかった。泥の「ぐちょぐちょ」となる音が愉快だった。気持ち悪さが楽しかった。
園児たちには全てが新鮮だった。あるいは厭なこともあったかもしれないが、そんなことは関係がなかった。そこに見えるものは幸せな色だけだった。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」にはこんな一節がある。『追憶――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。』
ここは追憶の世界だ。男による仕上げによってここは男の理想通りの世界になっていた。
そして、理想の世界をつくるのに必要なものはペンと紙だけだった。
4
男が次に思い出したのは、小学校に入ったばかりの頃のことだった。
男は、全く新しい世界に足を踏み入れようとしていた。「勉強」という言葉はどこか恰好良く思えたし、校門をくぐる一歩は大人に向かう大きな一歩に思えた。何よりも、あのランドセルというものを背負って学校まで歩いて行けることが嬉しかった。通学路は未知なる冒険の場所だった。春には筑紫を沢山摘んできた。通学路の脇に走る小径の先には何があるのか気になって寄り道をし、夕暮れまで帰らず母親に酷く怒られたこともあった。落ちているガラクタは宝物のように見えたし、通学路の裏道ででくわしたアオダイショウは大蛇にも見えた。脱走した犬から友達と一緒に命からがら逃げてきたこともあったし、公園の傍の家にいる犬と遊ぶこともあった。
とても刺激的な毎日を送っていた。
夜に見る夢でさえ、素晴らしいものばかりだった。
入学式には桜が満開だったような気もするが、それは期待を胸に膨らませた少年の、無邪気な妄想だったのかもしれない。
5
一つ、また一つと、男は自分の記憶の扉を開いていった。その扉を開ける度に、ペンは男の内面世界を少しずつ歪めていった。記憶はだんだんと今に近づき、男が無意識的に生み出すずれはある種独特の世界を創り上げるようになっていた。男はそのことに半ば気づきかけていたが、その「半ば」が消えないよう、なるべく何も考えないようにした。もし本当に気づいてしまったなら男の目から涙がとどまることなくあふれ出ていたことだろう。それほどまでに追憶の世界は美しく成長し、現実はすぐ傍まで迫り男を脅かしていた。
6
まだ男には時間を認識する能力が残っているのだろうか。ここ数日というもの、男は休むことなくただひたすらにペンを走らせていた。家族は幾度となく男の部屋の前に来ては何か食べるよう勧めたが、男の耳に入る様子もなく鍵も閉められていたので仕方なく諦めた。あるいは命に関わるほどのことでもないと考えていたのかもしれない。男はあまりに深く追憶の世界に入ってしまっていた。追憶の世界は「追憶」の域を超え、現在、さらには未来にまでその触手を伸ばそうとしていた。
7
俺はどこにいるのか。目の前に見えるのは紅く色づいた葉の茂る山だが、そんなものが現実であるはずがない。今はまだ夏のはずだ。夏休みはまだ明けていないはずだ。いやしかしなんとなく肌寒い。橋の下に見える人は皆厚手の服を着ている。ああそうか、ここは外だな。俺は散歩をしていたのか。そう言えばそんな気もする。久しぶりに昔よく行った駄菓子屋を覗いてみるか。――おかしい、ここは駄菓子屋のはずだ。ひょっともするともう駄菓子屋はつぶれ、別の店か何かになったのかもしれないが、少なくとも――少なくとも、ここは俺の家じゃない。足は前に進んでいるはずのなに、景色は微動だにしない。あまりに不条理すぎる。さっきまで昼だったのに今また夜が明けてきた。そうか、これは夢なのだな。それなら醒めるまで待つしかない。
ところで、この手にあるペンは何のために持っているのだったか。
8
九月、暗い部屋に男がひとり横たわっていた。その頬はやせこけ、乞食さながらの恰好となっていたが、ペンを持つ手だけは力強く、目だけは輝いていた。おかしな輝きだった。明らかにその瞳は何も映していないというのに、眼はくるくるとめまぐるしく動き、時折なにやらぶつぶつと物を言い、僅かに笑う。家族はなぜこの男をこうなるまで放ってしまっていたのだろうか。いや、まず男に家族などいたのだろうか。本当に学生だったか。いったい、こんな男がこの世にいたのだろうか――そんなことさえ疑わしくなるほど、男の世界は曖昧模糊とした物になっていた。だがそんなことはもはやどうでもいい。男は今まさにその瞼を閉じ、死を迎えようとしている。男は多分、死ぬ直前――あるいは死んでしまった後でさえ、現実を見ることができないだろう。もう少しちゃんと外を見ていたら良かったのに。馬鹿なやつだな。
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