朦朧体

田川春樹

   1


 暗い部屋で、男が丸椅子の上にうずくまっている。

 家具は簡素なその椅子と、こぢんまりした机だけだった。

 床は見れば夜のように黒かったが、じっと目を凝らすとそれは文字で埋め尽くされた紙の色だった。

 うずくまっている男から一枚、また一枚と、真っ黒な紙が投げ落とされる――男は文章を書いているようだった。

 否。それは文章などと呼べるものではなかった。


――枯れた花に僕に入るかわいそ晴れた音の昨日が――


 男は思うがままに、ただ文字を書き連ねている。

 黒鉛のせわしなく擦れる音と、紙の投げ落とされる音だけが、部屋の壁に、床に、そして空気に、染みこんでゆく。


 ざぁーっ ざざっ

  ざざざぁーー……

ざぁーっ ざざっ

  ざざざぁーー……

      

ぱらり

                    ぱらり……



 男はまだ二十歳にもならない若さをもっていたが、髭も髪も伸び果てたその容姿は四十代ほどにも見える。

 いや、髭や髪などはさして重要ではない。目だ。

 その瞳は光を映していない、その瞳は影を映していない。その瞳は明日を映していない、その瞳は昨日を映していない――その瞳は何も映してはいなかった。

 いったい、この男には音が聞こえるのだろうか。匂いがわかるのだろうか。その指は、舌は、何かを感じられるのだろうか。

 何もわからない。

 男はただ書き続けるだけだった。


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