第5話
鳥の囀りが鼓膜を震わせ、朝が来たことを俺は悟る。
夢果に「起きて」と言われて起きた俺は、イーノックさんが用意してくれた朝食を食べた。その後、イーノックさんが灰ヶ峰椿姫の所に朝食を運ぶと言うので、俺と夢果はついて行く。
昨日と同じように地下へ行き、その一室を開ける。
「はい、おはよう。調子はどうかなー」と明るく言って、イーノックさんは部屋に入る。俺たちも続いて部屋に入る。
部屋に入れば灰ヶ峰椿姫がベッドに腰掛けていた。
鳶色の髪をサイドテールに結っている彼女はここへ来る前に資料で見た彼女と同じだ。彼女こそが灰ヶ峰椿姫らしい。ただ写真ではわからなかったが、この灰ヶ峰椿姫、胸が大きかった。
「おぉ……」と彼女の胸の大きさに静かに感嘆の声を上げた俺を隣にいた夢果が小突く。いかんいかん、俺は咳払いを一つして、今にもぐへへとなりそうな表情を抑えた。
灰ヶ峰は眼鏡を掛けており、その顔は少し俯きがちだった。というか、こいつ、こっちを見ていない。眼を合わせようとしていない。
どことなくぶっきらぼうなその態度を見て、イーノックさんが「元気そうだね」と言って、灰ヶ峰に朝食を渡す。
そして、イーノックさんは俺たちの方を指して、灰ヶ峰に俺たちのことを紹介した。
「この子たちは、君を保護しに来た人たちだよ。君は、今日の深夜、この子たちと一緒に天空集住地へ行く。大丈夫、向こうへ行けばここで今みたく肩身の狭い思いをしなくて済むから」
「よろしく」と俺と夢果は口を揃えていった。それから俺が言う。
「灰ヶ峰さんのことは俺たちが責任もって天空集住地に連れて行くから。だから、心配しなくていいよ」
一応、笑顔を湛えて言ってみたけど、当の灰ヶ峰はこちらを見ずに「あ、はい。よろしくおねがいします」と言っただけだった。
無理もないのかもしれない。そもそも彼女に憑いている悪魔はエレキシュキガル。そして、その能力は見つめた者を死に至らしめる。聞くに彼女はすでに何人かその能力を持って人を死なせているらしい。
つい最近までただの人間だった彼女。今まで人を殺すとかそういうのとは無縁だったはずだ。
一般常識的に、人殺しは悪であり、犯していけない罪だ。
それを不可抗力とはいえ犯してしまった彼女は精神的に疲労していないはずはなく、彼女がぶっきらぼうな、感じの悪そうな、そういう態度を執るのも無理はないのだ。
まあ、いいさ。
俺たちの仕事は彼女、灰ヶ峰椿姫を天空集住地へ連れて行くこと。それまでに彼女の精神状態をどうこうしろというのは仕事ではない。それに俺たちにできることでもないだろう。
言ってしまえば、俺たちにできることはないということだけど。
イーノックさんとともに灰ヶ峰の部屋を出る。
「まあ、帰りの時間まで一人にさせておいた方がいいかもしれないな」
イーノックさんがそう言って、俺たちはそれにただ頷いた。
で、帰る時間――深夜まですごく暇になる。特にやることもなく、ただお茶を飲むことしかしない。することがない。
しかし思った。お風呂に入っていない。
昨夜、いや今朝、もうとにかくこっちに来てコーヒーをごちそうになって、結局そのまま寝たので、お風呂に入っていないのだ。
だから、イーノックさんに断りを入れて、とりあえずお風呂に入ることにした。お風呂と言っても朝という時間帯もあることなので、シャワーを浴びる程度なのだけど。
それで、今、浴室には夢果がいる。俺は夢果の次にシャワーを浴びるので、それまで待機の状態だった。
「覗かなくていいのかい?」
不意にイーノックさんがそんなことを言って、俺は飲んでいたコーヒーを吐き出しそうになって噎せた。
ごほごほと咳き込みながら俺は言う。
「な、なにを言ってるんですかっ!?」
「だって、覗きは男のロマンだろ?」
「そんなことをしたら夢果に殺されます」
「命なんて捨て置け。覗きに死は付き物だよ」
「いや、付かないでしょ」
「けれど、ロマンを追いかけるのは男の性だよ。リビドーだよ。結局、逆らうことはできないのだよ。だから行ってきなさい」
「行きませんって」
「あ、そう」
言って、イーノックさんは立ち上がる。
「どこ行くんですか?」
俺が尋ねると、彼はこう言った。
「それは秘密さ」
そう言ったイーノックさんの顔はニヤニヤしていて、何かを企んでいるように俺には思えた。
部屋を出るイーノックさん。まさかとは思うけど、本当に浴室を覗きに行ったのではないだろうか。いやいや、もしそうだとしたらマジでヤバいって。イーノックさんもだけど、夢果も危険な気がするような。だいたい、イーノックさんに夢果の裸を見られるのは何と言うか面白くない。
そわそわが止まらない。大丈夫かな、どうかな。何か起こったらどうしよう。
ここで待っていてもそわそわするばかりだから、俺はイーノックさんの後を追うようにして部屋を出た。
部屋を出て浴室の所まで来てみたけどイーノックさんの姿はなく、なぜだかひと安心……いや、もしかしてイーノックさんはすでに浴室の中に入っている!? んー、さすがにそんなことはないかなー。でも、もしかするとひょっとしてなんてこともあるかもしれない。
気付けば俺は浴室の扉の取っ手に手を掛けていた。
いや待て。俺よ、待て! もし、中にイーノックさんがいなかったらどうなる? そうなったら俺がただただ覗きをしただけにしか見えない! それは困る。そもそも覗くつもりなんてないのだ。俺はただイーノックさんがこの中に入っているのかいないのかを確かめたいだけなのだ。
確かめたい。果たしてイーノックさんは浴室に入って夢果のシャワーシーンを覗き見ているのか? 確かめるにはこの扉を開けるしかないのだけど、開ける勇気が俺にはない。開けたら最後、そこにはイーノックさんなんていなくてただ夢果がいるだけなんて事態になってはとても困る。俺の命が危ない。
思案している最中でも、俺の手はじわりじわりと取っ手を回していた。
そうだ! ちょっとだけ開けて、その隙間から中を確認すればいい。ばれないようにこっそりと。
これならいける!……と思う。
ぎぎぎ、と。取っ手を回して扉を少しだけ開ける。そして、その隙間から中を覗き見ようと顔を近づける――と、その刹那。
一気に浴室の扉が開かれて、俺は前のめりに倒れてしまう。
俺じゃない。俺以外の誰かが扉を開けたのだ。
ゆっくりと顔を上げてみれば、そこには夢果が仁王立ちしていた。裸ではなく服をちゃんと着ていて立っていた。……残念だ、というより今はそれどころではない。
夢果は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに状況を把握してその顔を怒りの形相に変える。
「夜刀? 何をしてるのかな?」
低い声で咎めるように夢果が訊く。
「いや、違う! 違うぞ、夢果!!」
「何が違うのかな? 扉を少しだけ開けて、そこから覗き見てたけど、いったい夜刀は何をしようとしていたのかな」
ばれてたー。ばれないかと思っていたけど、ばれてたー。
「俺はただお前の身の安全を確かめようとだな」
「むしろ、一番の危険は夜刀だと思うけど? 覗いてたんだから」
「いや、だから……」
なんて言い訳すればいいんだよ。覗かれている危険性があったから、それを確かめるために覗きましたって言えばいいのかな? って、それって結局俺も覗いてるし!
「あれー」と声がする。
振り返ればイーノックさんがいた。
「なんだ、結局、覗いたのか。やっぱ、覗きは男のロマンなんだよね」
「って! あなたどこに行ってたんですか!?」
「え、トイレだけど」
「トイレかよ! 秘密、とか言ってニヤニヤしていたのにトイレに行っただけなのかよ!?」
「そうだけど」
騙された! くそ、惑わされずに部屋でじっとしておけばよかった。すごく後悔。すごく後悔!
がっくりと後悔で打ちひしがれていたら「夜刀!」と鋭い夢果の声が降り注ぐ。
ゆっくりと顔を上げると夢果が怖いくらいに冷たい笑顔を浮かべていた。つーか、怖い。怖すぎるぅ!
「どうしてあげようか? ねえ、夜刀?」
「できればお咎めなしがいいんだけど」
「でも、何かしらの罰を与えないとわたしが満足しないんだよね」
「なら、優しい罰でお願いします」
「罰って言うのは総じて厳しいものなんだよ?」
もう、気力なく笑うしかできなかった。為す術はないらしい。俺は夢果の罰を受けるしかないみたいだ。
「よし、わかった」
口を挟んで来たのはイーノックさんだ。
「じゃあ、黒瀬くん。前かがみになって馬の姿勢になって……って、もうなってるか。黒瀬くんはそのまま。そのまま」
なんか指示飛ばしてるし。
「で、お嬢さんは黒瀬くんに座る」
「はい!?」
上擦った驚いた声で夢果が言う。
「罰を下したいんだろ。ならば、こういうプレイをするしかない」
プレイって言ったぞ。この人、プレイって。おいおいマジで何するの。
「って、夢果。座るなよ」
なんだかんだで馬に見立てられた俺に夢果が座る。俺は自分の背中に夢果の重みを感じた。
「じゃ、これね」
言って、イーノックさんが夢果に何かを手渡す。
「それをたらーっと垂らすの。大丈夫、怪我はしないから。熱いだけだから」
「熱い!? え、何が熱いの? ねえ!」
「え、大丈夫なんですか? ほんとに?」
「うん、大丈夫。それは大丈夫なようにできてるから」
「そうですか。なら」
直後のことだ。俺は首筋に熱さを感じる。激熱だ。蝋でも垂らされたみたいなって……って、え? うそ。
首筋に垂らされた何かが床に落ちて、俺はそれが何かを知る。
どろどろした赤い液体。しかし、それは今となっては固まり始めている。
蝋だった。本当に蝋だった。溶けた蝋を垂らされた。
「ちょ、熱い熱い熱い! マジで、ヤバいって、これ!!」
「大丈夫だよ。大丈夫な蝋燭だから。そういう用の蝋燭だから」
イーノックさんはそう言うけど、熱いものは熱いのだ。熱い!
「ぐへ」と夢果は変な声を出すし。「ぐへへへ」
変なスイッチ入っちゃったよ。夢果さん。ここは一つ、正気に戻ってくださいよ。まさか、瞳の色、赤に変わってない? サキュバスの面が活性化しているんじゃない?
顔を少し上げて、夢果の顔を覗き見る。彼女の瞳の色は濃褐色のままだった。正気の状態かよ!? 悪ノリもいいところだ。
「夢果さーん。そろそろやめていただきたいというか、熱いんでやめてください」
「え?」
素っ頓狂な声を出す夢果。そして彼女は優しい/甘い声音でこう言うのだ。
「だーめ」
可愛いじゃねえか、くそ!
結局、反論できなくて、俺はしばらくの時間この責め苦を受け続ける破目となる……。
♢ ♢ ♢
「あー。熱いー」
蝋を垂らされた首筋にかち割り氷を当てて冷やしながら、俺はそんなことをぼやく。
シャワーは浴びた。けれど、まだ首筋がヒリヒリするのだ。
俺に責め苦を与えた当の夢果は反省の色を見せず、「わたしは悪くないからねー。夜刀が覗いたのが悪いんだからねー」と言っている。
いやまあ、はい、おっしゃる通りなんですけどね。
時刻は正午を過ぎて、午後三時になろうとしていた。
天空集住地へ帰る時間である深夜まではまだ時間がある。
灰ヶ峰椿姫は依然として部屋から出てくる様子はない。いつまで独りでいたいのだろうか。
俺と夢果、それからイーノックさんはただただテレビを観ていた。コント番組だ。地上の世界のテレビ番組は天空集住地のそれと違ってどこか堅苦しいように感じた。面白みに欠けると言えばいいのだろうか。これはあれか、市民共同体という善を至上とした共同体があるせいなのだろうか。
共通認識としての悪。人を殺してはいけません。いじめてはいけません。そのようなことを固く禁ずるこの世界だから、そのような悪行を連想させる情報を発信することが自粛されているのだろう。
コントで人を叩いたり、デブ芸人に対してデブだと言ったり、天空集住地では当たり前のネタが地上のテレビ番組にはなかった。
綺麗な言葉を使った寒気がするような駄洒落。その応酬。そればかり。アルミ缶の上にあるミカン。イルカはいるか。布団が吹っ飛んだ。こんな駄洒落で笑いが取れているのだから、地上の世界は恐ろしい。
「イーノックさん。これ、面白いですか?」
「んー。まあ、面白いよ」
「あ、そうですか」
テレビ番組の違いの所為だ。地上の世界の住人と天空集住地の住人は笑いのツボが違うらしい。
観ているコント番組が面白かろうとつまんなかろうと、時間は進む。午後三時だった時刻は午後五時になっていて、小窓からは橙色の夕陽が差し込んでいた。
俗に言う夕方というやつだった。ここまで来れば深夜までは近いだろう。
「何事もなく、あっちに帰れそうだな」
不意にイーノックさんが言った。
「そうですね。まあ、何かあったら困るけど」
言って、俺はテーブルに置いてあったクッキーを手に取って口に運ぶ。
クッキーをがりっと一口かじって咀嚼する――と、刹那。
爆音が轟く。
ガラシャン、ドガッシャン! と。コンクリートが砕け、ガラスが砕ける音がする。どこからかする。どこからなのかはわからないが音の大きさからして、このアジトのどこかが破壊されたことだけはわかった。
「あちゃー。何事かが起こっちゃったよ」
呑気にそんなことをイーノックさん。いや、そんな呑気なことを言っている事態ではない!
「ちょ、え、なに? 何が起こったの!?」
夢果が慌てふためいておろおろする。かく言う俺だって驚いている。おろおろしている。
だけど、イーノックさんだけはのんびりソファにずっしり座っていた。落着いている。やけに落ち着いている。
もしかして。
「イーノックさん、あなた、何か知ってるんじゃ……っ?」
俺が訊けば、彼はこちらに顔を向け、言う。
「何事もなければ言うつもりはなかったんだけどね。あのね、彼女、灰ヶ峰椿姫なんだけど、保護したとき何者かに追われてたんだよ」
「追われて? 誰に?」
「誰って、そんなの決まっているよ。悪魔憑きを追いかける存在なんて一つしかない」
「……祓魔師」
「そう。どうやら、彼女、追ってきた祓魔師も何人かその能力で殺しているみたいなんだよね」
「それで恨まれて、祓魔師はこんな所まで追ってきた」
「みたいだね」
悪魔憑きのみんながみんな天空集住地にいるわけではない。地上の世界にも悪魔憑きはいる。悪魔憑きとは悪魔に憑かれた人間であるから、人間である以上、悪魔の脅威は免れない。普通に地上で人間として暮らしていてもある日突然悪魔に憑かれて悪魔憑きとなってしまうことだってあるのだ。
しかし、地上の世界に悪魔憑きはいらない。ここではその存在は赦されない。だから、悪魔憑きが地上の世界で発生した場合、基本的には即刻排除されるのだ。
で、悪魔憑きを排除する存在が祓魔師だ。
彼ら祓魔師は聖なるものを以てして悪魔憑きを排除する。その身体から悪魔を取り除いたり、悪魔憑きそのものを殺したり。とにかく、何が何でも悪魔憑きを排除する存在。それが祓魔師だ。
ダダダっと、足音が聞こえてきて、それはこちらに迫ってくる。祓魔師どもがアジトに乗り込んで来たらしい。
「どこの祓魔師です? 祓魔師協会ですか?」
祓魔師による組織はいくつかある。最大勢力を誇るのが祓魔師協会。祓魔師協会は言葉を以てして悪魔憑きの身体から悪魔だけを祓い基本的には人を殺すことはなく、平和的解決を望む組織だ。
「祓魔師協会ならこんな荒いことはしない。奴らは平和的に悪魔祓いを行うからな」
「なら……」
「たぶん、アド・アボレンダムの奴らだろう」
アド・アボレンダム。祓魔師協会に次ぐ規模の祓魔師による組織である。この組織は祓魔師協会とは違い実力行使を好む。悪魔憑きを人間とは扱わず、悪魔憑きであれば殺しても構わないと思っている連中だ。とても好戦的な奴ら。
「くそ、嫌な奴らが乗り込んで来たものだ。どうしてあんなのが市民共同体に所属できてるんだよ」
思わずそう毒づいてしまった。
俺の毒づきにイーノックさんが言う。
「正しいことだからな。祓魔師協会もアド・アボレンダムもやっていることは等しく善なのさ」
屁理屈もほどほどにしてほしい。
とにかく! 今はこの状況をどうにかしないと。まずは灰ヶ峰椿姫である。彼女の安全を確保しなくてはいけない。
「夢果! 行くぞ!」
言って、俺は夢果とともに地下室へ向かおうと部屋を出ようとする。だが、俺たちが部屋を出るよりも先に祓魔師が部屋に入ってきた。
部屋に入ってきたのは一人の祓魔師。黒の祭服に身を包んだ男は、首に十字架のネックレスをぶら下げており、腰には剣が差してある。聖職者の恰好をしたその男を見て、俺は眩暈を感じてしまう。これは悪魔憑きの性なのだ。結局、悪魔に憑かれているから聖なるものに弱い。
俺と夢果が祓魔師を見て顔を歪め、そんな俺たちを見た祓魔師が口を裂いて笑い、言った。
「これはこれは。まさか、悪魔憑きが灰ヶ峰椿姫以外にもいたとは。僥倖とでも言うべきか」
愉悦に満ちた顔を浮かべた祓魔師はブロンドの髪を掻き上げ笑う。楽しそうで何よりだ。
「まあ、まずは訊きたいことがあるのだった。――灰ヶ峰椿姫はここにいるんだろ?」
「いるけれど」と口を開いたのは依然ソファに座っているイーノックさんだった。
「どこにいるのかなんて言うと思うかい?」
「ん?」
祓魔師がイーノックさんの方を見る。
「なんだ? お前は悪魔憑きか? その割には悠々としているが」
「君には俺が何に見える? 悪魔憑きか? 人間か? それとも天使か、神様か?」
「神や天使でないことは確かだ」
「確かだと言える根拠はどこにある? まあ、神だなんて大仰な者でないのは確かだけど」
「なら、誰だ?」
「一つ言えることは、君に俺は殺せない」
「ていうことは、人間だな」
イーノックさんはふんと口をつり上げるだけ。
祓魔師だって人間だ。祓魔師が手を下せるのはあくまでも悪魔憑きだけ。祓魔師がただの人間に対して危害を加えることはできない。人間が人間を傷付けることは許されない。
「人間がどうして悪魔憑きといるのだ? 悪魔憑きは悪であるぞ。そんな悪と手を組んでいるとなれば、お前はただでは済まないが」
「残念だけど、俺は今でも市民共同体の一員なんだよ。確かに、俺は悪魔憑きの協力者として活動しているが、市民共同体はこんな俺を未だに善人として認めている」
「なぜだ? 悪魔憑きは悪、それと通ずる者もまた悪だ」
「それは君の理屈に過ぎない。俺はこれが悪いことだとは思っていない」
「悪魔憑きが悪でないというのか?」
「そこまでは言っていないよ。悪魔憑きは悪だけど、悪魔憑きの協力をすることは悪だと思っていない。そう俺は言っているんだ」
「とんだ屁理屈だ」
「君が言うのか。祓魔師協会は悪魔憑きを悪魔に憑かれた人間と定義し、殺さずに悪魔のみを祓うのに対して、君たちアド・アボレンダムは悪魔憑きを人間ではないと定義し、ひたすらに虐殺する。こちらからすれば君たちだって屁理屈を展開している」
「待て」
祓魔師が訝しむ。
「私はまだ私がアド・アボレンダムの祓魔師であると名乗っていないぞ」
「人の家を破壊して乗り込んでくるなんて荒事を起こすのはアド・アボレンダムくらいしかいないからな。そう憶測付けたのさ。事実、正解なんだろ?」
面白くないと言った風情の顔を祓魔師はして、そして仕方ないという感じで彼は口を開く。
「名乗るのが遅れたな。私はアド・アボレンダム所属の祓魔師、ジルベール=ギーだ。これより、悪魔憑きの殲滅を行う」
「黒瀬くん!」
不意に呼ばれてびっくりしてイーノックさんの方を向くと、彼はこちらに何かを投げてくる。俺は反射的にそれを取り、それからそれが何かを知る。
鍵だった。写真が入れられるタイプのキーホルダーも付いていて、その中には写真ではなく紙切れが入っていた。
「隠れ家の鍵だ。地図はキーホルダーの中に入れてある。早く行け」
言われて、俺と夢果は走り出す。
「行かせるとでも」
しかし部屋の出入り口前には祓魔師ジルベール=ギーが立っている。彼は腰の剣を抜いてすでに臨戦態勢だった。
悪魔憑きは聖なるものに弱い。祓魔師との対峙は分が悪い。けれど、対峙しなければ前には進めないのだ。
「夢果。俺があいつの相手をするから、お前は灰ヶ峰を連れ出せ」
「わかった」
俺は悪魔憑きとして能力を使う。
奈落より引き出すは刀。日本刀に似た刀を俺はどこからともなく掴み取り、振る。
ジルベール=ギーの振るう剣と、俺の振った刀が刹那にぶつかり甲高い音を響かせる。
俺の横を夢果が通って部屋を出ていく。俺はそれを横目で確認した。ジルベールが軽く舌打ちしたのが聞こえた。
「退いていただきたいのだが」
「言われて退くと思うかよ」
「そうですか」
言って、ジルベールは息を吐き再び言葉を紡ぎ始める。
彼の紡ぐ言葉を俺は理解できなかった。俺の知り得ない言語であるために、俺はその言葉を理解できない。ただそれでもわかったことがある。その言葉には聖性がある。祓魔師の紡ぐ聖なる言葉。聖書の一節だ。
強烈な眩暈が襲う。気分が悪い。もやもやする。吐きそう。
「……く、そ」
足がふらつく。力が思うように入らない。
そんな隙を衝かれて、ジルベールが蹴りを入れてくる。その蹴りは俺の横腹にめり込んだ。俺は身体をくの字に曲げて飛ばされて床に倒れる。
ジルベールは倒れた俺を見下ろして、剣を振り上げ、慈悲もなく振り下ろしてくる。
俺は咄嗟に刀でそれを防ぐ。それから刀を振って、剣を振り払う。で、立ち上がる。
やっとのことで立ち上がったと思えば、ジルベールは間髪入れずに剣を振ってくる。そのすべてが俺を殺そうとするものだった。
何度も何度も刃を重ね合わせ、俺とジルベールは剣戟を繰り広げる。
「意外としつこい。悪魔憑きのくせに」
ジルベールが毒づきながら剣を振る。
俺としてはそんなことどうでもいい。とにかく俺はこいつを退けさせればいい。それから灰ヶ峰を連れ出したであろう夢果と合流する。
それに俺の力を以てすれば、この刀の切っ先で少しだけ相手を傷つければそれで充分なのだ。
だが、いつだって分が悪いのは悪魔憑きの俺なのだ。相手は祓魔師。聖なるものを揮う者。悪魔憑きは聖なるものに弱い。だから、俺は圧され気味。
ぶつぶつ、と。ジルベール=ギーは聖書の言葉を紡ぐ。戦っている最中だから、耳なんて塞げず俺は聖書の言葉の影響を受ける。強烈な眩暈。
けれども眩暈だからと言って攻撃の手を緩めるわけにはいかないし、積極性を欠くわけにもいかない。
何度目かの拮抗。
そのとき俺は片膝を上げてジルベールの腹を膝で突く。
「ぐ……っ」
そこに一瞬の隙が生まれた。見逃さない。俺は思いっきり横に薙ぐように刀を振る。だがやはり反応が速いジルベール。俺の振るった刀を剣で防ぐ。ギャン! と。甲高い音がする。ジルベールは不安定な状態から俺の攻撃を防いだため、よろめく。すかさず俺は彼を蹴る。ジルベールが飛んで、部屋の壁際に置いてあった箪笥にその身体をぶつける。苦痛に顔を歪め、痛む身体は自由に動きそうにない様子。
とにかく夢果と合流するべきだと考えた俺は床に倒れているジルベールを無視して部屋を出た。
廊下に出ると、ここに数人の祓魔師がいた。彼らはこちらに気付いて、襲ってくる。さすがにすべてを相手にしている暇はないから俺は逃げるようにして廊下を進む。たまに刃を交えることがあるが、どうやら強いのはジルベール=ギーくらいで廊下にいる祓魔師はたいして強くなく、俺は彼らを斬り捨てる。
「ぐあああああ」「ぐああああああ」「ぐあああああああああ」
俺に斬られた祓魔師たちが至る所で絶叫を上げる。
うるさいな。ちょっと斬っただけだろう。そんなことを思いながら廊下を進み、玄関と思われる扉を見つける。
玄関周辺にも何人か祓魔師がいて、彼らは何かを囲っているようだった。
「夜刀!」と俺を呼ぶ声がする。
祓魔師たちに囲まれていたのは夢果と灰ヶ峰椿姫だった。
「夢果!」
言って、俺は眼の前の祓魔師を数人斬って、輪の中に入り夢果と灰ヶ峰と合流。
「とりあえず、ここを出て逃げるぞ」
「逃げるってどうやって」と夢果。
「外へ出る扉はあれしかない。なら、突破するしかないだろう。俺が扉の周りにいる奴らを斬るから、その隙に外へ出るぞ」
言って、早速行動に移す。
駈けて、斬る。玄関周りにいた祓魔師は二人。俺は刀を振る。隙だらけだったからいとも簡単に斬れた。斬ったと言っても、バッサリ斬ったのではなく浅く斬っただけだ。けれど、俺の場合、それで効果は抜群だ。
「ぐぁあああああああああ!」と斬られた二人の祓魔師は叫び、その顔を苦痛に歪める。惨めに歪める。不細工に歪める。この世の終わりかのように、叫び、喚き――叫び続けて仕舞いには過呼吸を起こし、呼吸困難に陥っている。今頃、彼らの頭にはあの世が垣間見えているだろう。しかし、その痛みは彼らを殺すことはしない。そもそも致死の傷は与えていないのだ。痛くて痛くて死にたいと思っても、死ねない。
ほかの祓魔師は、そんな二人の様子を見て、臆して動けない。
俺たちはその隙を衝いて、玄関をくぐり、外へ出る。
後ろを見れば何人か追ってくるけど、俺たちは駈けた。走った。
走って、走って、追っ手を撒いて、追っ手が見えなくなっても少し走って、疲れが現れ始めたころには走るのをやめて、その場にへたり込む。
ぜぇぜぇ、と。俺たち三人は肩を上げて息を吐き、辺りを見渡す。何も考えずに走ってきたから、どこをどう走ってきたかなんて考えてもいなかった。
どうやら行きついた所は川沿いに造られた公園だった。
今はもう陽は暮れて夜になっていたから、外灯の明りが目立つ。外灯は川沿いに建てられていて道を仄かに照らしていた。風が吹けば川原に生えている草花が揺れて音を立てた。
俺と夢果、そして灰ヶ峰椿姫はベンチに腰掛け、小休憩。
アジトを出る際にイーノック=トンプソンから貰った鍵、それに付いているキーホルダーから紙切れを俺は取り出して見る。紙切れには地図が描かれている。隠れ家の位置が描かれた地図なのだが、現在位置がわからない今、地図はあまり参考にはならない。その地図はアジトから隠れ家の道のりしか描かれていないのだ。
そう言えばイーノックさんは大丈夫だろうか? まあ、きっと大丈夫だとは思う。イーノックさんはあくまで市民共同体に所属している善人。善人である以上、祓魔師は手を出せない。
とにかく今は隠れ家にどうやって行くかだ。それが目下の問題だ。
「ねえ、夜刀」ぜーぜー息を吐きながら、疲れた声で夢果が言う。「これからどうするの?」
「とりあえず。隠れ家に行こうと思うんだが」と俺は言う。「その隠れ家の場所がわからない」
「地図があるんじゃないの?」
「この地図さ、アジトから隠れ家の道のりしか描かれてないんだよね。俺ら地上の世界の土地勘ないし、ここから隠れ家までどうやって行くかわからない」
「え?」と夢果が首を傾げた。「いるじゃん。土地勘ある人。ここに」
夢果が指さした方向には灰ヶ峰椿姫がいた。
「あ」
そうだった。そう言えばそうだった。灰ヶ峰椿姫は地上の住人だ。彼女はつい最近悪魔に憑かれた少女であり、今まで地上に住んでいたんだ。
「なあ、おい」
「は、はい」
「ここどこだかわかるか?」
言って、俺は灰ヶ峰に地図を見せる。
すると、灰ヶ峰は答えた。
「あ、うん。だいたい、わかると思う」
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