第4話

 天空集住地はもともと日本という国であった。日本という国に悪魔憑きが集まり宙に浮くことで天空集住地となったのだ。


 つまりこれは地上の世界から日本という国がなくなったことを意味している。悪魔憑きが国を一つ消してしまったとも言える。


 これは大事件であり、地上の世界が混乱に陥ったことは容易に想像がつくだろう。


 地上の世界では悪魔憑きを迫害する運動が過激さを増した。さすがにすべての悪魔憑きが天空集住地へ逃げたわけではなかったし、また新たに悪魔憑きとなる者もいたから、地上の世界の至る所で悪魔憑きを対象とした処刑が起こった。とにかく疑わしいものは片っ端から処刑していったらしい。だから中には悪魔憑きでもないのに処刑された者もいると聞く。


 そもそもどうして悪魔憑きを処刑するかと言えば、それは悪魔憑きが異端者であるからだ。そして元来人間は異端者を恐れる傾向にある。


 では、悪魔憑きとはどのようにして生まれるのか? 実のところを言えば悪魔に憑かれる人間がどうして出現するのかはっきりとしたことはわかっていない。しかし、人間たちは考えた。


 考えて、答えを得る。


 悪しき心を持つから悪魔に憑かれてしまうのだ。悪しき心を持たなければ、善き心を持っていれば、神様に忠誠を誓っていれば悪魔に憑かれることはない。いつだって善は悪を倒すものだ。たとえ一人では善になれなくてもみんなとならば善になれる。だからみんなで善になろう。善になれば神様はきっと私たちを守ってくれる。


 いつしか地上の世界から国という概念はなくなった。


 地上の世界に住まう人類は市民共同体アガトポリスという共同体に属すようになった。


 市民共同体に属することで人々は最高最善の完成された状態を保つことができ、悪/悪魔の脅威から逃れられることができるらしい。


 だから地上の世界の人々はいずれかの市民共同体に所属しなければならず、そこで最高最善の状態を保っていなくてはいけない。神は善なる者しか守らない。だから人々は善であり続けなくてはいけない……らしい。



    ♢    ♢    ♢



「やあ、ようこそ。待っていたよ」


 声がして、俺は眼を開く。


 眼前には赤銅色の髪を持つ男性がいた。見た目からしてどこかひょうきんな男である。


 ここは周りをコンクリートの壁に囲まれた半地下構造の空間で、目の前の男といい、この空間といい、俺たちはちゃんと地上へ送られたらしい。


 ここはくだんの協力者のアジトなのだ。だから眼前にいる男は必然、そのくだんの協力者ということになる。


 この赤銅色の髪を持つ男は俺たちが悪魔憑き保護協会の仕事で地上へ来るときにいつもお世話になっている人で、名をイーノック=トンプソンという。


「今回も世話になります」と俺は言った。


「ああ。よろしく」と言ってイーノックさんは笑みを浮かべる。「いやー、よかったよ。零時半に来るって聞いてたけど、なかなか来なかったから、もしかしたらドウェインが座標をミスってほかの所に送られたんじゃないかって心配だったんだ」


「はは。すみません。遅れちゃって」


「いやいいよ。ちゃんと来たんだから」


 くるりとイーノックさんは回れ右をする。


「では、早速、灰ヶ峰椿姫に会わせよう」


 言って、彼は歩き出す。


 俺と夢果はイーノックさんについて行く。まず俺たちが送られてきた部屋を出て、廊下を歩く。そこから階段を降り、完全な地下へ向かう。で、地下にある一室の前でイーノックさんは立ち止まった。


 イーノックさんは部屋の鍵は開け、取っ手を回し、扉を開ける。


 ぎぎっと音を立てて開けられる扉の向こうに広がる空間は六畳ほどのもので、中には簡易ベッドがあるだけというとても質素なものだった。


「寝ているな」とイーノックさんが言ったので、俺と夢果も扉から顔を覗かせて部屋の中を見る。


 ベッドの上に俺と夢果と同い年くらいの女の子が横になっていて、彼女はすーすーと規則てきた息を吐いていた。どうやら彼女がくだんの悪魔憑き、灰ヶ峰椿姫らしい。


「あの子が灰ヶ峰椿姫ちゃん?」と夢果が訊く。


「ああ、そうだ。エレシュキガルに憑かれた哀れな少女さ」とイーノックさんが答えた。


 イーノックさんが続けて言う。


「どうする? このまま寝かせておくか。まあ、挨拶を交わす程度、起きてからでもいいよな?」


「そうですね。起こすのも忍びないし」


 そう俺が答えると、イーノックさんが静かに扉を閉めた。



    ♢    ♢    ♢



 灰ヶ峰椿姫と言葉を交わせなかった俺たちは階段を昇って半地下構造のアジトのリビングルームでお茶をごちそうになる。


 俺は出されたコーヒーにミルクと砂糖を加えながら口を開く。


「ところで、エレシュキガルってどんな悪魔なんですか?」


「ん? なんだ、聞いていないのか」


「灰ヶ峰椿姫に憑いている悪魔がエレキシュキガルなのは知ってるけど、それがどんな悪魔なのかを俺は知らない」


「そうか。そちらのお嬢さんはどうだい? 知っているか? エレキシュキガル」


 イーノックさんは夢果の方を見て、そう訊く。夢果は首を横に振った。


「二人とも知らないのか」と言って、イーノックさんはコーヒーカップを手に持ち、注がれたコーヒーを一口飲む。「では、ここで一つ教示しよう。エレキシュキガルは《死の女主人》と言われる悪魔で、人間を冥界へ引きずり込もうと日々企んでいる。そして、見つめた者を死に至らしめる両目を持っているんだ」


 見つめた者を死に至らしめる……いや、えーっと……マジで。てことは、それに憑かれている灰ヶ峰椿姫は……。


「つまり」


 イーノックさんは言う。


「――灰ヶ峰椿姫の能力は見つめた者を死に至らしめる能力だ」


「……」


 それがあまりにも強大でおぞましい力であったからか、俺も夢果も言葉が出なかった。


 そんな俺たちの様子を見て、イーノックさんがくつくつと笑う。


「どうした? びっくりしたのかい」


「いや、だって……そりゃあ……、見た者を殺す能力って、そんな反則的な……」


「異能力を持っている時点で、悪魔憑きはみんな人間として反則的だよ」


「その悪魔憑きから見て灰ヶ峰椿姫は反則的なんですよ」


「しかし、それだけの力だよ。対策だってちゃんとある」


「対策?」


「結局、見つめた者を死に至らしめる能力は、対象の相手を直視しなければ効果が発揮されない。能力者と対象者、その間に何かしらを介在させれば問題ない。要するに、眼鏡越しに相手を見つめただけでは能力は発揮されないんだ。灰ヶ峰椿姫には眼鏡を掛けさせている。だから能力を乱発させてあっちこっちで人を殺す事態は防いでいるよ」


 まあ、何人か犠牲になっちゃった人はいるけれど。イーノックさんは小声でそう呟いた。


 俺はそれを聞き逃さなかった。


「犠牲者がいるんですか?」


「そりゃあいるさ。最初のうちは対策もわからなかったんだ。悪魔に憑かれて能力が発現した当初は何人か彼女の能力にやられている」


「何人殺したんですか?」


「さあ、そこまでは知らないよ。でもまあ、保護したときの様子から……十人はくだらないのかな。ま、詳しい数が知りたければ本人に訊けばいい」


 いやいや、訊けないでしょ。面と向かってあなたはその能力で何人の人間を死に至らしめましたか? なんて。さすがにこんな質問をするのはデリカシーに欠ける。


 そんなことを考えて、俺は少し苦い顔をした。それを見たイーノックさんが言う。


「本人に直接訊くなんてできないか? 悪魔憑きなのに、度胸がないな。悪魔憑きは悪なんだろ。なら、ここは悪者らしくずかずかと相手の嫌がることを訊いていけばいいのに」


「悪魔憑きはただ悪魔に憑かれた人間です。ただ異端なだけなんです。悪魔憑きだから悪、なんて考え方をするのは地上の世界の人たちだけです」


「そうか。でも俺はそうとは思っていないけど……いや、思っているのか? んー、なんて言えばいいんだろう」


「知りませんよ」


 この協力者、イーノック=トンプソンは悪魔憑きではない。ただの人間だ。しかしここ地上に住む者は誰しもがいずれかの市民共同体に所属し、善性を保っていなくてはいけない。市民共同体に所属し最高最善の人間であり続けなくてはいけない。神様に守ってもらうために。


 つまり、悪魔憑きに協力するってことは善ではなく悪であると見做されるべきで、普通なら市民共同体に所属できなくなるはずなのだ。


 市民共同体に所属できなくなると地上で暮らすことは難しくなり、天空集住地に移るか、もういっそのこと世界そのものから消えるかしかない。


 イーノック=トンプソンは高額な報酬と引き換えに悪魔憑きの協力者として活動をしている。


 なのに、だ。


 なのに、このイーノック=トンプソンは市民共同体に今も所属している。未だに善人であると認められている存在だ。


「市民共同体なんてただの気休めに過ぎないよ。所属さえしていればいいんだ。そして、どんな思想であれ、この俺自身が善であると思っていればそれは善なんだ。悪がどうして悪なのか、知っているかい。その人がその行いや考え方を悪だと思っているから悪なんだ。そして、この《悪しきこと》の共通認識が悪という概念を生む。すべては見方や認識の問題なのさ」


「屁理屈じゃん」とイーノックさんの発言に対して夢果が呟くように言った。


 イーノックさんが言う。


「この世はすべて屁理屈さ。市民共同体だって、そもそもみんな集まれば善になるなんて決まりは元々ない。どこかの誰かさんがみんな集まれば善になれると唱えたからこうなった」


「イーノックさんは俺らのことをどう思ってるんですか?」


「きっとどうも思っていない。ただ市民共同体がきみたちを悪としている以上、俺も君たちを悪として扱っている。けどね、俺はただそれだけだ。こうやって悪である君たちに協力していることに対しては、俺は罪悪感を抱いていない。俺は少し難しいことを言っているのかな? とにかく、俺は君たちに協力することを悪と思っていないけど、市民共同体の手前、悪魔憑きは悪として認識している。しかし、そう認識しているだけで、悪を断罪すべきとか駆逐すべきとかいう思想は持っていない」


「悪は悪だけど、それを排除する対象だとは思っていない?」


「そういうこと」


「やっぱり屁理屈」と夢果が呟く。


 イーノックさんはその呟きに対して、笑って言った。


「だからこの世はすべて屁理屈なんだよ、お嬢さん」

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