奈落の底にいるものは
硯見詩紀
序章
明日も学校があるというのについついネットサーフィンをしていたら深夜の二時になっていた。
これはいかんと思って、俺はデスクトップ型のパーソナルコンピュータをシャットダウンさせて、床に就くことにする。
ベッドへ向かう前にダイニングキッチンへ向かい、水を飲む。コップに水を注ぎ、ゴクゴク喉を鳴らせながら水を飲んでいると――不意にガチャン、と玄関の扉が開く音がした。
ギシギシとフローリングが軋む音。それに合わせて足音が聞こえてきてこちらへ迫ってくる。テレビも消していてほぼ無音のこの空間で、ただ響く足音は少し怖いものがある。
足音は正確に俺のいるこのリビングへ近づいてきている。そしてリビングの扉は開かれる。
リビングへ入ってきたのは長く黒い髪を持つ一人の少女で、俺のよく知る少女だった。
すっと少女は顔を上げて俺の方を見る。彼女の瞳は燃えるような赤色に染まっていた。
「またかよ」なんて俺は呟く。
少女はこちらに微笑みかける。上気してほんのり桜色した頬、はぁと吐く息はどこか色っぽく、彼女の表情それこそが色香漂うそれだった。
「ねえ」と言いながら少女はこちらにやって来て、ストンと俺の胸に飛び込んできた。彼女は俺の服の袖を掴んで背伸びして、顔を、というか唇を近づけてくる。俺も俺で反ってそれから逃れようとする。下腹部が熱くなりそうで、でも、そうはさせまいと我慢する。いつものことだけど、やはり迫られるとヤバいものがある。
「わたしの、この疼き、どうにかしてくれない? ねえ、できるでしょ?」
彼女の手が俺の太腿に触れる。触れるというか意図的に彼女は俺の太腿を触っている。少しでもその手の位置が動けば、アレな部分に触れてしまう。触れられたらおしまいだ。さすがに俺は我慢なんてできなくなる。
「あ、ああ。お前の疼きを止めてやる。止めてやるから離れてくれよ」
「どうして? 離れてしまったら、わたしの疼きは止められないでしょ?」
「お前は俺が何をすると思っている?」
「えっ」彼女は恥ずかしがるように言う。「そんなの、わたしの口から言わせないでよ」
恥ずかしがるな! 照れるな! 本当にお前は何を想像している!?
「しないから。お前が望むことはしないから」
「えー。してよ。してー」
そんなこと言いながら彼女はさらに体を密着させて来る。胸のふくらみはたいして大きくもないはずなのに、密着させてくるから結局俺は彼女の胸のふくらみを感じてしまう。
「ちょ……っ」
当たってる。大きくもないお前の胸が当たっている! 大きかろうが小さかろうがそれが女性の胸である以上、俺の理性が黙っていない。……ほんと、このまま押し倒してやろうか。なんて考えが頭を過る。
で、俺は彼女を押し倒す。
ドン! と彼女が床に当たる音。ちょっと勢いがつき過ぎたか、彼女は少しだけ顔を歪めたけど、その顔もすぐに期待の顔に変わる。
何を期待しているのか知らないが、俺はお前の期待に応えない。
別に俺は彼女の望みを叶えるために彼女を押し倒したのではないのだ。いや、まあ、ほんとにほんの少しだけ手を出しちゃおうかなーって思わないこともなかったけど。でも、さすがにこの一線は超えられない。いや、超える勇気が俺にはない。
とりあえず俺は仰向けの彼女をまたぐようにして立ち上がる。ちょうど横は冷蔵庫で、俺は冷蔵庫の中から牛乳パックを取り出す。
「さて、口を開けろ」
「え?」
「口を開けろ。この淫魔め」
結局のところ、彼女は彼女であって彼女ではない。だから、彼女を正気に戻すには多少なりとも強引な方法を執るほかないのだ。
彼女を正気に戻す方法。それはこの牛乳を彼女に飲ませる。
淫魔――サキュバスを追い払うためのある風習。枕元に牛乳の入った小皿を置いておくこと。こうすることでサキュバスはその牛乳を男性が分泌する白濁液と間違えて持ち去るのだそうだ。
つまり俺が彼女に牛乳を飲ませるのはそういうこと。
サキュバス憑きの彼女がこうやって発情したときの対処法は牛乳を飲ませること。これを飲めばとりあえず彼女の疼きは治まるのだ。
「はい。あーん」と俺は言いながら牛乳パックを彼女に近づける。
「いや、待って。わたし、強引なのは……いや、強引なのも好き、かも」
「そうか」
仕方ないので強引に彼女の口をこじ開けて、牛乳パックのまま牛乳を飲ませた。
「がぼっ、ごぼっ」って彼女はむせ返ったりするけど、俺は気にしない。彼女の口へ牛乳を注ぎ入れる。すべての牛乳が彼女の喉を通ることは当然なく口から牛乳は溢れ滴り落ちる。けれど、やっぱり俺は気にしない。注ぎ続ける。
で、彼女の瞳が赤色から濃褐色に戻ったところで、牛乳を注ぐのをやめる。……つか、俺、ちょっとサディズムに目覚めかけたかも。
口端からたらりと白い液体を垂らしている彼女。少し卑猥だな、と思うのは俺だけか。
しばしうつろだった彼女の瞳に光が宿る。
「……ぁ」
むくり、と彼女は上体を起こす。頬を赤らめ顔を俯かせる。
「ごめん、なんか」
サキュバス憑きの彼女は夜になると発情してしばしば俺を色香で惑わせてくる。で、正気に戻ったとき、彼女はそのときのことを憶えている。都合よく発情してた時の記憶はありませんなんてことはない。
「いいよ。別に気にしてない」
いつものことなのだ。気にする意味もまたなし。
それよりも床にも牛乳が散らばっている。拭かないといけないな。
俺は未だ仰向けになっている彼女に手を差し伸べて、立たせる。
「ありがと」と彼女は言って俺の手を取り立ち上がる。そのときに、彼女は床にこぼれた牛乳を踏んだ。その所為で彼女は足を滑らせる。
「うわっ」
彼女は俺の方に倒れてきて、俺はそれを受け止める形になるけど受け止めきれず俺は彼女と共に盛大に倒れる。
さっきは俺が彼女を押し倒したけど、今度は彼女が俺を押し倒した、そんな構図。
「いっ」
突然のことで受け身もままならず背中を床に打ち付け、痛い。俺は顔を歪めた。
「大丈夫?」と彼女が言う。
「ああ」と言って、目を開けると眼前には彼女の顔。
あと数センチで唇同士がくっ付きそう。そんな近さ。近い!
「どうしたの? やっぱりどこか痛いところが?」
「いや、別に怪我はしてない。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと近い、かな?」
ここでようやく彼女も現状に気付いたらしい。頬を赤く染めるにとどまらず顔全体が赤くなる。
「ご、ごめんっ!」と彼女はとっさに俺から離れて後退するも、そこでまた床の牛乳を踏んづけて滑る。
「きゃっ」
「おい!」
俺もすぐさま身体を起こして彼女を助けようと手を伸ばす。掴んだ! けど、引っ張れなくてまたまた俺が彼女を押し倒す構図。
しかし、今度は少しだけ違う。
俺は右手で彼女の手を掴んだ。では、もう片方、俺の左手はいったいどこにあったのだろう。
倒れたとき、俺の左手は彼女の胸に当たっていた。俺は今何を掴んでいるんだろう。ちゃんと確かめるために揉み揉みしてみると、うーん、言うほどプニプニしてない。揉みごたえのないおっぱいみたいだな……てか、俺は今、おっぱいを揉んでいるな。やはり。
……どうしよう。なんて感想を言おう。
「あー、えー」
とりあえず口を開いてみたけど言葉が出ない。けど、それでよかった。俺が感想を言うよりも先に――
「……っ」
彼女は歯噛みして恥ずかしがって、赤面で。
「ヘンタイっ!」
深夜のことだった。
バシィン! と。頬を叩く音が部屋に響いた。
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