第二部「覚醒」第八章 デメ・ザ・ヒポ

デメ・ザ・ヒポ


ああいい気持ち。でもさすがに狭いよなあ、この湯船では。いかにわしが小さくても。

そう思うのも毎度のことで窮屈な中でも寝返りを打つコツがある。わしはグルリと身体を回してピンクに染まった背中を湯船に浮かべた。

「お父さん、タオル、ここに置いておくからね」

葵だ。

「いやだぁ、お父さん、また変身しているの」

 いやと言いながらも嬉しそうな声、湯煙の向こうから覗き込んでいる。年頃の娘が父親の裸を見て平気だなんてなかなか普通あることではないだろうが、まあ人間の裸じゃないから気にしないのだろう。娘が今、眼にしているのは小さなカバなのだ。子供の頃、この背中の上でキャッキャと遊んでいた頃が懐かしい。あれは娘が小学校に入る前だったかな。

 わしが初めて変身したのは、就職してすぐだった。山口の田舎から出てきてまだ何となく職場になじめず、平日に仮病で休みを取って一人で近所の神戸王子動物園に行ったときのこと。なぜか動物園では心が和んで、すごくリラックスできたのだ。とくにわしのあだ名と同じ名前の出目男というカバがいることを知って初めて対面できたので、とても愉快な気持ちになれた。

ところが、出目男を見ているとなぜか急に全身がムズムズし始め、堪えようがなくなってきた。そして気づいたらわしは服を脱いでカバに変身していたのだ。平日の昼過ぎ、客がほとんどいなかったせいか、奇跡的に誰にも気づかれずにカバのプールに入り、出目男のそばまで泳いでいって挨拶をした。もちろん、言葉は通じないのだが、出目男は嬉しそうにしていたよ。

カバは気性が荒いから、縄張りを荒らす新入りと仲良くするわけない、って?

それはそうだ、もしわしが普通のサイズのカバだったらね。ところがわしはとても小さかったのだ。それで出目男は新しい子分がやってきた、くらいにしか思っていなかっただろう。しばらく一緒に池の中を泳いだものだ。

やがて人の身体に戻ったわしは服を着て逃げ出すように公園を後にした。そしてそれから時々、寂しくなると休みを取って、もしくは夜中にこっそり出目男のところに通ったものだった。でも半年もすると会社に慣れて仕事が面白くなり、一緒に遊ぶ仲間もできて動物園は自然とご無沙汰になってしまった。それでも出目男はわしが一番心細い時に寄り添ってくれた大切な仲間だと感謝している。

 

わし、隠しごとは嫌じゃったから結婚すると嫁にすぐ自分の秘密を打ち明けた。嫁もあっけらかんとした性分で、「真面目に働いてくれるのならいいよ」と受けとめてくれた。だから娘は最初から父親がカバに変身するのを当たり前と思って育ったのだ。葵はある程度大きくなって初めて、よそのお父さんは、カバはもちろん他の何にも変身しないことを知ってかえって驚いた次第だ。

 わしもこの変身をそれほど大層なこととは思っていない。人間、誰だって人に明かせぬ秘密の一つや二つはあるものだ。それにカバに変身するといっても人間とほとんど変らない大きさであり、小さいといわれるコビトカバよりずっと小さいのだ。まあそのお陰で普通の湯船に入れるわけだが、不満と言えばそれが不満だった。せっかく特別な能力を持っているというのに、何の役にも立たない。せいぜい子供を背中に乗せて遊ばせるくらいだった。

「背中流そうか」

 そういって葵が浴室にはいってきてゴシゴシ背中をたわしで擦ってくれた。これがすごく気持ちいいのである。娘が洗いやすいように、背中のあちこちをへこましたり、膨らましたりして形を変える。背中の形を自在に変形させることができるのも特技であり、昔はこれをやると、パパの滑り台といって葵も喜んで遊んだものだ。

 娘がサービスするのには多分、理由がある。実はこのたび、久々の東京出張にあわせて家族とディズニーシーに行く計画を立てていた。娘はついでに母親とデパートめぐりをして買い物を楽しむつもりのようで、その小遣いねだりでもあるのだろう。わしは家庭サービスのあと、家族と別れて木更津まで足を伸ばして、学生時代の仲間たちと落ち合うつもりだった。


 それにしてもものすごい人ごみだ。阪急百貨店の特売の混雑もまけそう。葵は母親を連れて目当てのアトラクションにまっしぐら、どうしたら効率的にアトラクションを回れるか事前に研究していたようで、ファストパスを手にしては次々と征服していった。

最初はわしもそれに付き合っていたが少々疲れてしまった。それで、はぐれたら中央広場で落ち合おうと場所を決めてわしは一休みするためにレストランに入ってビールを飲みながら一服した。今夜も仲間と飲むことになるので控えめにするのは忘れなかったが。

楽しい時はあっという間に過ぎる。女房たちが楽しみにしている夜の花火にはまだ時間があるので一度、土産物を見てそこで別れようということになり、メディティレニアンハーバーを渡る船に乗り込んだ。そろそろ客の移動も始まる時間帯だったので、船の中はかなりの混雑、定員ギリギリまで乗り込んでいたようだ。

 異変は船尾で起った。

突然、何かにぶつかるような音が聞こえたかと思うと船は止まり、傾き始めた。船内アナウンスが何か叫んでいるが周囲の騒音でよく聞こえない。ただ多くの乗客たちは何となくアトラクションの一部のような感覚があるのか、のんびりしている。

「二人ともあわてるな。急に沈みはしないよ、安全には充分配慮されているはずだから」

 そうやって妻娘を落ち着かせながらも船がゆっくり沈んでいくのを感じていた。陸側で見ている人たちも同時に騒ぎ始めた。波もなく、また岸から近いのですぐに助け上げられるだろうが、まだ少々寒いこの時期、ましてや小さな子供たちがたくさん乗っているので、パニックが発生すれば大変なことになるかもしれない。

 そんなことを考えていて気づいたのは、自分がまったくおびえていないことだった。なぜだろう、と思ううちに鳥肌立つ感覚におそわれた。どうやら変身の兆候がきたようだ。カバに変身してしまえば、溺れる心配はない。人と変わらない小さな身体ではあるが、家族くらいは背中に掴まらせることができるだろう。

「みんな、わしのそばを離れるな。水に入ったら変身するから背中に乗るんだぞ」

「それで、ほかの人たちは?」

 女房が尋ねる。その言葉で瞬間的に家長から責任ある一人の大人に気持ちが切り替わる。確かに周りには沢山の子供たちがいる。もし溺れるようなことがあれば、わしが助けなければいけないだろう。

「わたしたちは何とかなるから、子供たちを背中に乗せてあげて」

 娘も落ち着いて言う。二人とも泳ぐのは得意である。

 わしはすばやく服を脱ぎ始めた。周囲はすでに大騒動になっていて、誰もこちらに注意を向ける者はいない。変身するのは水に入ってのことだ。

 

最後の瞬間、船は一気に沈んでしまった。多くの人は水面上に浮かんでいる船体につかまったり、岸から延びた棒やロープで身を確保することができたようだが、子供を含めて20人以上が何も捕まるものもなく水に投げ出されてしまった。わしは潜水して変身すると、ゆっくりと子供たちの真ん中で浮かび上がった。子供たちを背中に乗せるつもりだった。

ところが、わしの小さな背中では一人を乗せると別の子が転がり落ちてしまう。いくら背中を平らにしたり、くぼみを作っても、3人乗せるのが精いっぱい。そのうちグッタリする子も出てくる。まだ救助のボートは遠かった。

この瞬間、わしは役立たずの自分が本当に情けなくなった。

「わしがもう少し大きければ、みんなを救えるのに。わしが大きければ……」

 そのときわしは初めて背中の皮膚がはち切れるような感覚を持った。

「……ウン?」

内側から身体が膨らみ、背中の皮を押し破ろうとしている。そうはさせまいと背中の皮は抵抗する。しかし遂に皮膚のほうが負け、背中はセミの幼虫の殻が割れるように一気に開いたのだ。

わしの身体が巨大化している!

コビトカバより小さかった身体が大人のカバほどになったかと思うと、さらに膨らみ、遂には普通のカバをはるかに上回る巨体となり、背中はまるでダンプカーの荷台のように広く、平たくなっていた。

 子供たちはすぐにこの不思議な背中によじ昇ってきた。まっ平らな背中はまるでいかだが浮かんでいる感じ。ひょっとしたら、シーの新しいアトラクションとでも思ったかもしれない。たちまち子どもたちはおとなしくなり、ニコニコし始めた。

 幸い女房も娘もそばを離れなかったので、小さな子供たちが背中に乗るのを待ってから背中にすがりついてきた。不思議なことに背中に集まる人が増えれば増えるほど、わしの背中は大きくなり、周囲の大人も含めてみんなを乗せることができたのだ。


 わしはそのままハーバーを泳ぎ渡り岸につくと皆を下ろし、騒がれる前に急いで潜水した。わしは水の中で変身した身体を改めて見直す。ほれぼれするほど強くたくましい、人の役に立てる、立派な巨体。思わぬ事故をきっかけにして自分の潜在能力が開花したに違いない。こうしてやっと自分の存在理由が分かったような気がした。

おっと、いつまでもこうしてはいられない。

まだ転覆騒動の続くうちに人間の姿に戻り、わしも浮かび上がった。裸のまま助けを呼び、係りの人に抱えあげられたが、相手はしきりに謝まってくる。一瞬、自分の演じた救出劇を見られていたのか、と身構えたが、どうやらそうではなく、単に事故のことを謝罪しているようだった。

着ていた服は水中に潜った時に失くしてしまったが、貴重品は家族にカバンごと託していたので大丈夫だった。わしは事故遭遇者の緊急避難場所で下着と上着を支給され、家族と落ち合い、ロッカーから出張用の背広を持ってきてもらった。騒動のお詫び、ということでこれ以降の飲食、アトラクションは全て無料となって園内はいやがおうにも盛り上がった。わしは最後の花火ショーを見て引き上げるという家族と別れ、木更津を目ざすことにした。


樺本は光り輝くディズニーリゾートのすぐそばで闇に沈む岸壁に立っていた。そして先ほどの変身について考えていた。普段は小さなカバにしか変身できなかった自分がいざという時、人々を救う巨大なカバに変身できたのだ。まるでヒーローじゃないか。もちろん世間に正体を明かすことはできないが、家族は知っている。お父さんの真の力を家族に示すことができて満足していた。

樺本は自分の意思で変身すると出張用のバッグを背中にひっかけて水に入った。今はずいぶんスリムなカバになっている。

「今から全速で東京湾を直行すれば約束の時間には間に合うだろう」

そうつぶやくと手足を身体にピタリと付け、尻尾をプロペラのように高速で回転させて魚雷のように突き進んだ。

 東京湾は昼も夜も結構込み合っている。両耳をピンと立てて近くを航行する船に注意を向け、右に左に進路を切り替えながら進んだ。船の方はこんな物体が高速で泳いでいるとは思いもしないだろうからだ。もしもまともに衝突してしまえば、無事は保証できない、もちろん相手の船のほうが。

 もうすぐ木更津というところで、危うく何かにぶつかりそうになった。しかしそれは船ではなかった。水上部分がほとんどなくほぼ水中に沈んだ、まるで潜水艦のような物体だった。巨大な物体は直前で樺本に気付いたようで急速に潜行したのですれ違うことができたのだ。樺本はホッとした。

 それにしても東京湾の水中にあれほどの巨体があるとは、鯨かなにかだろうか。まあ、カバが泳いでいるのだから鯨がいても不思議ではないかな、そんなことを思いながら先を急いだ。


突然、店内に何とも言えないほのかな磯の香が漂ってきた。

気づくと入口に樺本が立っていた。

「皆、待っとったんや。とんだトラブルに巻き込まれたようだが、ほぼ定刻に登場だな」

 大河が顎でテレビをさしながら、真っ先に声を上げた。

「そうよ、久しぶりに家族で出かけたディズニーランドで大変な目にあったよ」

「遊覧船が沈没して水中に投げ出された子供たちを巨大なカバが救った、とネットに動画がアップされたけど、すぐに削除されてしまったとかで大騒ぎよ」

 きっと陸上から携帯で撮影した客がいたのだろう、樺本はヒヤリとした。

自分の能力のせいで世間にさらしものになるのは勘弁してほしい。でも仲間内なら格好の話題だ。よほど自分の演じた救出劇について話そうか、と思ったが、やはり自慢になるようなのでやめた。まあ、今晩、飲み過ぎればポロリと喋るかも、その時の仲間の驚く顔が見たい気もした。

「今回の騒動は、ディズニーシーが新たに加える予定のカバの水中翼船のアトラクションを宣伝するための計画的なイベントだった、という噂もネットに流れていたわよ」

 ママがスマホをチェックしながら皆に報告した。

この次に出る言葉は常連客にはもう分かっている。

「あなたたちが会う日には必ず、動物がらみの事件が起こるのよね。ホント」

 そしてママは多分、正しい。


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