第3話
こんなことがあってから、ウルフとあたしに起こった変化。
まずウルフは、食事はあたしと同じものを取るようになった。だって一度、人間の姿を見てしまったウルフにもうドッグフードを食べさせることはできない。だから食事のときは、ウルフは人間の姿になる。
朝の散歩のときは、いままで通り犬型。
あたしが仕事をしている日中は主に犬型で、いままで通り邪魔にしないように独り遊びをしたり、昼寝をしたりしている。
お風呂のときも犬型。だっていくら12歳の少年とはいえ、男の子と一緒にお風呂に入ることはできない。少年の姿をなるべく思い出さないようにして、あたしはウルフのもふもふの毛をアワアワにしていままで通り洗ってやった。
それから一つ日課が増えた。
それは夕食後に、ふたりで屋根裏部屋へ行って、仲良く並んで寝そべりながらいろいろな話をすることだ。いままではあたしが一方的に話すだけだったけれど、人間の姿と言葉を手に入れたウルフはいろんな話をしてくれた。
驚いたのは、ウルフがもう7回も生まれ変わっているということだ。
オーストラリアの農園に生まれたこと、北欧でバイキングをしていたこと、聞いたこともない国で漁師をしていたこと、イルカや鷹に生まれたこともあったそうだ。そして一番笑ったのが、新橋でサラリーマンをしていたこともあったということだ。
「新橋のオヤジだったの?」
そう言って爆笑するあたしを、少し恨めしそうな眼で見ながらウルフは口を尖らす。
「だから、この話はするのがイヤだったんだ」
「あははは。ごめん、ごめん。だってウルフと、新橋のスーツ着たサラリーマンの姿がどうしても重ならないんだもの」
そのときのウルフの名前が、
「え、もしかしてあだ名は…」
「うん…おうじさま」
「やっぱり!」
その事実は、さらにあたしのツボにはまって笑いがなかなか収まらなくて、ウルフがいっそう不機嫌になって困った。
そうか、おうじさまか。
ウルフのことだ、新橋のサラリーマンでも案外オヤジではなかったのかもしれないな。そう思うと、グレーのスーツを格好よく着こなした仕事のできる若い男性の姿が脳裏に浮かんだ。
屋根裏部屋でのウルフの話はどれも新鮮で、あたしはこれまで感じたことがない想像の翼が伸び伸びと広がるのを感じていた。
そんなある日、数ヵ月前から担当が替ったペット雑誌の編集者から電話があった。
「姫野さんは、実際に犬を飼っているんですよね?僕、一度見てみたいと思ってたんですよ。どうでしょう、今度の打ち合わせは姫野さんの仕事場でということで」
「はぁ」
なんとなく嫌な予感がして、最初は断ったけれど、今関という30代半ばに見える担当者はしつこかった。そしてあたしは、押しに弱い。結局、ウチで次回の打ち合わせということになってしまった。
「ということで、今関さんというペット雑誌の担当編集者が来るから、くれぐれもお行事よくね。間違っても、人間の姿になんかなっちゃダメだからね、ウルフ」
何度も念を押すあたしに、ウルフは面倒くさそうにあくびをして見せた。
約束の当日、午後14時を少し過ぎた頃に、その担当者は家へやって来た。
「これ」
と言って今関さんが差し出したのは、小さな白い箱。
「いま人気のドーナツ」
「あ、ありがとうございます」
手土産まで持ってきてくれるなんて、もしかしていい人?
次回号の簡単な打ち合わせはすぐに終わって、あたしはお茶を入れようと立ち上がった。
ティーポットにティーバッグを2つ入れてお湯を注いだら、砂時計を逆さにして砂を落とす。同時にミルクピッチャーに入れた牛乳をレンジで温めて、ティーカップは湯煎しておく。
紅茶とミルクを半々にカップに注いで、ドーナツを乗せたお皿とともに居間に運ぶ。
今関さんは、淹れたてのミルクティーを一口飲んで言った。
「おいしい。こんなおいしい紅茶、お店以外で初めて飲んだ」
ちょっと大げさなお世辞だとは思ったけど、安いティーバッグでもちゃんと時間をかけて茶葉を蒸らすように入れれば、そこそこおいしい紅茶になるのだ。
今関さんが買ってきてくれたドーナツを、遠慮なくいただく。
「うわ、おいしい!やっぱり人気なだけあって、凄くおいしいですね」
お世辞でも何でもなく、正直な感想だった。
クラシックタイプの、割にしっかりとした触感のドーナツに、カラフルなトッピングが可愛くて本当においしい。女子は絶対好きだ、これ。
「そう?そう言ってもらえると、買ってきた甲斐があるよ。最近の女の子は、何かもらっても当然って顔してお礼も言わない子が多いからね」
「はぁ」
それから今関さんは、あたしの古い家を改めて見まわすように眺めた。
「居心地のいい家だね」
「そうですか?」
「うん。これからユイちゃんとの打ち合わせは、ここですることにしようか?」
なんで、だよ。それに、ユイちゃんて突然なんだ。いままで通り、姫野さんでいいよ。
「い、いやぁ。それは申し訳ないので、これまで通り、あたしが編集部に行きます」
その言葉をまるっと無視して、今関さんは立ち上がって縁側の方へ行く。縁側で昼寝をしていたウルフが、薄っすらと眼を開けた。
「この犬がウルフ君か。思っていたより大きいね」
ウルフを見たいと言っていたくせに、やっとその存在に気づいたかのように今関さんはウルフの横に立って見下ろしている。
その姿を見て、この人は犬好きではないなと思った。だって犬が好きなら、しゃがんで顔を覗き込んで、頭を撫でるくらいはするはずだ。
今関さんはウルフの横に突っ立ったまま、あたしの方を振り向いて言った。
「ねぇ、ユイちゃん。今の仕事だけで、生活は大丈夫なの?」
失礼なことを、さらっと訊くな。やっぱ、若いとナメられるのかな。
「ウルフと食べていくくらいなら、なんとか」
ふうん、と顎に手を当てて、今関さんはちょっと思案顔になった。
「何か、困ったことがあったら、遠慮なく僕に相談してね」
「あ、いえ。大丈夫です」
「でもさ、仕事のこととか、ほかにも相談に乗ってあげられると思うから」
そう親切そうな笑顔で近づいてきた今関さんの左手の薬指に、銀の指輪が光っている。
「ホントに、ホントに、大丈夫ですから」
あたしは、きっぱりとそう言った。
それにも拘わらず、今関さんはあたしの傍にしゃがむと(ウルフの傍には突っ立ったままだったくせに!)、髪に手を伸ばそうとした。
「こんなに小さくて、頼りなげで、心配になるんだよ。ユイちゃんは」
だから、ユイちゃんて呼ぶな!
反射的に今関さんから距離を取って、髪に触れられるのを避けようとした瞬間だった。
ぐぁるるるぅうううう~。
ウルフの低い、怒りのこもった唸り声が聞こえたのは。
はっとして振り向いた今関さんが、次に「ぎゃ!」と叫んで尻もちをついた。
いつの間にかウルフが彼の真後ろまで来ていて、鋭い歯を剥き出しにして唸っていたからだ。
「う、うゎあ!お、脅かすなよ」
尻もちをついたのが照れくさかったのか、今関さんは慌ててつくり笑いを浮かべるとウルフに言った。
だけどウルフは、相変わらず剥き出しの敵意で唸り続けている。
「ウルフ」
初めて見た野生の凶暴な一面だったけれど、あたしは少しも怖くなかったから、ウルフの傍へ行ってその身体を抱きしめた。
くぅ。
ウルフが軽く啼いて、あたしの頬を舐める。その温かな舌に勇気をもらって、あたしは今関さんにきっぱりと言った。
「ウチのウルフがすみませんでした。でもこれから打ち合わせは、やっぱり編集部でお願いします」
「そ、そうだね」
まだ青い顔のまま、今関さんはそう言って帰って行った。
それから2か月後、あたしはペット雑誌の編集長から、連載打ち切りを通達された。今関さんは、編集長のお嬢さんの旦那さんだったらしい。
くだらない、なんだ、それ。
バカらしすぎて、涙も出ない。悔しいとすら思わないあたしの感受性は、どこか麻痺しているんだろうか?
でも、いい。ウルフがいてくれれば。
「ウルフぅ、連載、クビになっちゃった」
銀色のもふもふが、くぅと啼いて、あたしの頬を舐める。
その温かさとくすぐったさに、やっと涙がちょびっとだけ出た。
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