Chapter03「決断」
Scene013
俺が病室に入ったとき、彼女は手を降って軽く答えた。
「叶絵……」
息が切れて、上手く話せなかった。汗が滝のように流れる。その顔を見た安堵感からか、強く咳き込んで、もはやどちらが病人かもわからない。叶絵はくすくす笑った。
「もう、ちょっと座りなよ。看護師さん来ちゃうよ?」
「お前、怪我は」
「だから、一旦落ち着いてって。病院では静かにだよ」
全くだ。
俺はこんな熱い人間でもない。大きなため息を吐いて、呼吸を落ち着ける。
病室は個室で、本当に普通の部屋だった。小さなデスクの上にテレビがあったり、文庫本が三冊、音楽プレイヤーもある。白い床、白い天井、枕元の電子機器を除けば、自宅の自室という雰囲気だった。病室といえばベッド以外に何もない印象だったのだが、以外と私物化されていた。
部屋に入ると、簡単な椅子に促された。座ってもう一度息を吐く。
「怪我は?」
「それが奇跡的になんともないの! ちょっと足とか腕とか背中とか傷めたくらいで、もうすぐに退院できそう」
彼女は病院服を着て、姿勢正しく座っていた。頬には絆創膏が張ってあった。腕には包帯が巻かれていたが大事そうではなかった。
「本当に、何もないのか……?」
「本当に何もないよ」
そこまで聞いて、一気に脱力する。今更だが、ほとんど寝るときの格好で家を出たから、七分丈のズボンに黒いシャツ一枚だった。病室のエアコンが寒い。
「ちょっと温度上げようか」
「いや、お前のちょうどいいのでいい」
「まあまあ、ほら、ジュースあげる」
「サンキュー」
ペットボトルに入ったオレンジジュースを仰ぐ。この時は気づかなかったけれど、間接キスだった。
「それで、昨日の晩、何があった?」
ペットボトルを返すと、叶絵は左手でそれを受け取り、左手でデスクに戻した。彼女は今日メガネをかけていた。新しいメガネだった。
「いやー急にだったよ。勉強してたら急に真っ暗になってね。ほんと死ぬかと思ったー」
「死ぬかと思ったって……お母さんとお父さんは?」
そう聞くと一瞬ためらいがあった。視線をそらした後で、俯きながら、
「お父さんは大丈夫。私とそんなに変わらないよ……でも、お母さんが」
意識不明らしい。
「そっか……災難だったな」
こういう時、なんて言うべきなんだろう。そもそも、こんな時に言う言葉なんてあるんだろうか。不便な言語だと思った。
「でも、まだ事故から間もない訳だしさ、普段頑張ってるから、余計に寝てるだけだよ」
時計を見たら十時だった。ああ、そう言えば
「今日、約束……」
「あ」
「さぼっちゃったな」
「そうだね」
俺はスマートフォンを取り出し画面を見ると、通知が数件来ていた。健堂と瀬戸内から二通ずつ。
「俺らのことは気にせずに病院行け」
「叶絵ちゃん大丈夫か?」
と健堂から。
「叶絵大丈夫かな? 落ち着いて病院行くんだよ」
「面会できたらだけど、終わったら連絡して」
と瀬戸内から。
俺に気を使って、あいつらはまだ面会に来てなかったのか。
意外と冷たいな。
「まあ、二人ともやることあるしね。むしろ、そっちの方が気が楽でいいよ」
いや、それでもやっぱり冷たいと思うけど……。
ああそうか、俺はちゃんと見なかったけれど、二人ともニュースを見たんだ。だったら、被害者の容態くらいは放送されるだろう。なら、多分この怪我だし「軽症」くらいに報道されたに違いない。そう考えれば、まあ、妥当なのか?
「そういうことだろうね。悪いことしちゃったかな」
「お前のせいじゃないよ……お前のせいでも……誰のせいでも、ないよ」
「じゃあ、これって……どこにぶつければいいのかな……」
やり場のない怒り。
誰も責任を取ってはくれないし、誰も助けてなどくれない。
誰も悪くない、故に、誰も何もできない。
強力すぎる力を罪悪感なく奮えるものほど、厄介なものはないだろう。
災厄だ。
「ならさ、俺にぶつけりゃいい」
叶絵の言葉なら、一言一句余すこと無く、全部聞いてやれる。つまらない話でも、興味ない話でも、知らない話でも、俺の悪口でも、誰かの悪口でも、なんでも、聞いてやれる。
嬉しいことも、それこそやり場のない怒りも、哀しみも、楽しいことでも、なんだって、いつでも、どこでも、いくらでも、聞いてやる。
だって、俺がそうだったのだから。
俺は、我儘を言っていた。我儘を言って逃げようとした俺を、脇道に逸れてしまった歩みを正してくれた。
相星叶絵が。
今の、俺の愛すべき人が。
愛している人が。
俺は嬉しかった。
話しかけてくれた、それだけで。なぜなら、話しかけられたのならば、俺は、少なくともその一瞬は生きていると時間できるから。
そして、叶絵はそれからも話しかけてくれた。
そんな彼女に恩返しがしたい。
叶絵は言った「私は自分のことしか考えられない」と。
なら、俺だって同じだ。
世永隆だって、それなら、自分のことしか考えてやらない。
俺が叶絵の全部を受け止めてやりたい。それで俺が満足できるんだから、叶絵の全部を俺が聞いてやる。
全部吐き出させてやる。何も残らなくなるまで、全部。
お互いに、自己中心でいいんだ。
自分が、自分のためだけに、相手のことを考えればいい。
「それが、恋人ってもんじゃないか」
せっかく、一生にそう何度もない経験させてもらってるんだから。
ちょっとくらい、彼氏面してもいいだろう。
こう見えて、度量はあるつもりだ。こんな小さな彼女の全部受けとめきれないで、何が恋人だ。
何が、世永隆だ。
「お前の恋人に、全部任せろ」
涙が流れた。
お互いに。
「家がね……めちゃくちゃになっちゃったんだって。もうさ……病院にテレビ置くのって、ちょっと無くない? だって、そんなの、見ちゃうじゃん……。私の名前が出たのも見たよ。隆くんもそれで知ったんじゃない? それで……それで、その中継見たときに、ああ、私の家、もうないんだなって。もう、私の服とか、本とか、いろんなもの、壊れちゃったんだなって。……みんなと勉強した跡も、残ってないのかなって……あ、そういえば自転車はまだ残ってたかな……? へへ……それなら、学校も普通に行けるし、また隆くんとも一緒に帰れるね」
力無く笑う姿を見るのは辛かった。でも、目をそらすわけにはいかない。
「あー……どうにかして時間、戻せないかなあ……それさえわかってたら……ノートとか全部持ってって、お母さんもお父さんも連れてご飯でも食べに行ってさ……最悪家は潰れても、いやあ、家も確かに思い出深いけどさ……家も、服も、本も、代わりはまああるよ……。でもね……もう……分かるよね……?」
涙の粒はどんどん大きくなり、押し殺すような声は二人だけの真っ白な部屋に虚しさを装い響く。彼女の瞳から溢れる雫は彼女の布団に落ちて、俺の目から流れ落ちた雫は拳で跳ねた。
「いろんな……思い出は……どっか行っちゃったんだよ……」
もう、堪えきれなかった。
俺は病室を飛び出した。
「隆……くん?」
そう、声が聞こえた気がする。けれど、その真偽は定かではない。
断じて逃げた訳ではない。
彼女の凄惨な声に折れた訳じゃあない。
こいつのために、今すぐ何かをしてやりたくて、堪らなくなった。
だから、俺は病院から駆け出した。
病院は駅の向こう側にあった。だから、あいつの家からは遠い。
――叶絵の右腕は、おそらく麻痺しているか、もう動かない。
彼女は右利きにも関わらず、諸々の所作を左手で行っていた。それに、いつもはペットボトルのキャップは渡してくるくせに、今日に限ってそのまま渡しやがった。
それだけでもう十分だった。
聞くか聞くまいか、迷った。
迷って、迷って、迷い尽くした挙句、俺は聞かなかった。
聞けなかったんじゃなくて、聞かなかったのだ。
それは、俺と叶絵の暗黙のルールになっていた。
「言いたくないことは言わなくていい」
けれど、それは逃げでも、呆れでも、諦めでもない。
それは、しかし「いつか言わなければならないこと」であって、所詮は延命治療なのだ。
だから、俺たちの間には、隠し事が多い。お互いに、知らないことは山ほどある。
俺たちはそれを、――崩さないように、さながらジェンガゲームのように、積み上げていく。一つ一つのブロックは、いつかは抜き取らなければならなくなる。だが、無理に抜き取ると瓦解してしまうのがオチだ。
そんな、不安定な二人だった。
でも、それでよかった。
崩さなければ、いつまでもゲームは続く。
俺も叶絵も同じ気持ちだった。
言いたくないことなんて、笑って言えるようになってから言えばいいんだ。
それまでは、俺は黙ってあいつの腕になってやればいい。
叶絵は俺を腕にすればいい。
ジェンガはお互いに策を練って、相手にタワーを崩させるように仕向けるけれど、別に、そんな決まりはない。
相方が崩しそうになったら、もう一方が支えてやってもいいだろう。
しばらく走ってなくて、体力は無かった。ペースを上げ下げして、地獄のような坂道を登って、ようやっと、俺は元相星家を訪れた。
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