Scene011
どうどうと低い音を立てて雨が降り注ぐ。
俺たちが図書館を出る頃には、日中の日照りは一変、町はゲリラ豪雨にさらされていた。
「あーあー。これ、傘も当てにならないんじゃないか?」
「でも、ささないとノートとか濡れちゃう」
カッパ着てくればよかった、などと健堂と瀬戸内が言っている中、俺と相星は黙っていた。
「あれ、そういえば、お前ら傘持ってきてないのか?」
言われて俺は相星を見て、相星は俺を見た。ああ、やっぱりこいつも忘れてたのか。
「雨降るなんて言ってたか? 少なくとも俺は聞いてない」
「天気予報は見たんだけどさー、いやー、出ていく時に忘れちゃってた」
どっちもどっちだった。
「おいおい、どうすんだよ。これじゃあ帰るに帰れないぜ?」
そうなのだ。これがただの雨なら走って帰るのもよかったのだが、流石にこれは見の危険を感じるほどだ。自分たちの声でさえぎりぎり聞こえるくらいの雨音だ。
時間を潰そうにも、図書館は閉館時間を迎え、近くに暇を潰せる場所もない。雨はいつ降り止むかわからないし。
「健堂、お前家近いだろ、傘貸せよ」
健堂の家は駅から近く、図書館も近い。学校まではやや遠いが、交通の便には困らない位置にある。
「近いってもこの雨で走って帰るほど近くねーよ」
「んだよ、男らしくない。武士の風上にもおけん」
「こっちは大事なインターハイ前なんだよ。風邪引いたらどうする。……ん? ああ、そうだなー」
和風男子の黒瞳が、瞬く間に卑しく変貌した。
「海恋ちゃんが相合傘してくれるってんなら、貸してやってもいいぜ? それなら文句ない」
「は? 何いってんの? 私とあんた帰り逆じゃない」
「一旦俺んちに来て、それから俺が送ってくよ」
「そんなの嫌よ。だいたい、それなら私の家に……」
「海恋っち!」
相星が瀬戸内の両肩を掴んで言う。
「お願いします!!」
男らしい声だった。
「叶絵……」
瀬戸内は苦い顔をして唸る。一ヶ月ほど付き合ってきて、正直力関係がよくわかっていないのだが、どうやら瀬戸内は相星に強く出れないらしい。彼女も俺みたく相星に介護されたのだろうか。つくづく面倒くさい、否、世話好きなやつである。
この少しおもしろい状況を眺めていると、瀬戸内と目があった。
ん……。そう言えば、仮に瀬戸内か健堂が傘を貸したとすれば、俺は……。
「あ」
「ふーん。そっか」
相星と相合傘になってしまう!
「瀬戸内、貸すな、健堂、今すぐ一人で」
「ケンケーンさっさと帰るよー。ついでに温かいもの奢ってー」
「ったくー仕方ないなあ」
こいつら、実はお似合いなのでは……。
はあ、とため息を吐くと、相星は傘を開いた。
「あ……もしかして、嫌だった?」
上目遣いで問われると、どうもまごつく。
「嫌っつーか……なんつーか……」
「嫌だったら、走って帰ってください。一人で、傘もささず」
「傘貸せよ」
雨音に声をかき消されそうだけれど、手を差し伸べれば伝わるだろう。
「持つよ」
傘はもうほとんど意味がなかった。
右肩はめちゃくちゃに濡れて、靴下もびしょびしょだ。歩く度に不快感を感じる。
左隣の相星は俺のシャツの袖を掴んでいる。雨で周りが見え難く、一歩進むのもやっとという感じだ。今頃瀬戸内は愚痴を垂れ流していることだろう。
もうこれなら走って帰っても変わらなかったのでは……。
というのは禁句だろうから言えないけれど、まあ、何はともあれ無事に帰れればそれで無問題だ。
「海恋っちとケン君が余計なこと言わなかったらこんなことにならなかったのに……とか思ってる?」
「いや、俺が傘を忘れた時点で、こうなるのは決まってたみたいだからな。まあ、健堂がちょっと得したみたいで、よかったんじゃないか」
「意外とポジティブなんだ」
「もうなんでも同じだよ。俺が傘持ってきても、誰かが傘忘れたりしてこうなってた気がするしな」
運命は収束するらしいと、どこかで聞いたことがある。なるほど、こうなることは決定事項なのかもしれないな。
「でも海恋っちにはちょっと悪かったかもね。今度なんか奢らされるかも」
「それだけで済めばいいがな」
あいつはまた何を言い出すかわからん。今度は何を請求、要求されるだろうか。
……まあ、それはそれで面白いのかもな。
信号を慎重に渡り、その角に公園が見えてきた。……これでやっと半分か。全く、いつになったら家に着くやら……。
と、不意に風が吹いたと思えば、軽い浮遊感を覚えた。シャツが捲れ、背中に風がすっと入る。傘が強い力で手から離れようとする。おっと、まずい。持って行かれる。俺はなんとか手放すまいと肘を引くが、そこに相星が小さな悲鳴を上げて抱きついてきた。
「お、おい、相星……あっ」
気持ちのいい浮遊感が腕に伝わったかと思えば、傘の骨が捲れ、次の瞬間には吹き飛ばされてしまった。
滝のように降り注がれる雨に打たれ、およそ一秒呆然とした後、
「……ふふ」
相星は口元を緩めた。
「……ふふふ……はは」
雨が痛い。大粒の水滴が肌を打つ。でも、それが妙に心地よかった。
視界の奥は雨一色、人通りも、車の交通量も少ない。まるで、世界には俺たちしかいないような錯覚に陥った。
「はははは!」
つられて、俺も笑う。それにつられて相星も笑う。ずっと、俺たちは笑った。
相星は駆け出した。道路には一面水が張られていて、地面を踏む度に水が跳ねる。それがまた愉快だった。
走って公園に入った。当然だれもいない。土は淫靡に泥濘んでいて、下手をすれば滑って転んでしまいそうだ。風でブランコが横に揺れる。雨に打たれてパンダの遊具が激しく揺れている。滑り台を濁流のように水が流れ、ターザンロープは乗客が居ないくせに勝手に出発していた。しかし、その中でもシーソーは変わらず平常運転で、俺たちは試しに乗ってみたけど、上手くできなかった。
笑い疲れて、ベンチに倒れた。
ここは、別に小屋ではないのだが、どこからか伸びたツルが、幾層にも重なって、それが屋根になっている。この狂ったような雨の中でも、強靭な固さを保っている。
隣には相星が息を切らしていた。今日はメガネをかけてきた日だ。そのメガネには水滴が何粒か残っていて、多分ほとんど何も見えていないのではないだろうか。そんな彼女も愛おしかった。
「いい歳だってのに……はあ……もう俺たち十八だぜ? 何やってんだか」
「隆くんがちゃんと傘掴んでないから……」
「俺のせいかよ! お前が変な声だして抱きついてくるから」
「あれはしょうがないじゃん……ワンピース捲れちゃったんだから……」
むすっとして言った相星の広いベンチに横になって、俺から背を向けた。
「あー……もう、中までぐちょぐちょになっちゃったよ……うわーノートも濡れて
たらどうしよー中確認するの怖いなあ……」
ファッションに疎いから名前はわからないのだが、下が紺の花柄のワンピースというか、スカートで、上が白いシャツだ。こんなに濡れてしまったら少し寒そうに思える。
かくいう俺の体はめちゃくちゃ暑く、もしかしたら熱があるかもしれない。汗と雨で混じり合った水が脇腹を流れる。時折吹く強すぎるまでの風がその憩いの場を涼しげにした。
重なるツルの間から水が滴って、仰向けに寝ていた俺の額に落ちた。反射的に目を瞑り、そのまま閉じたままにした。
「ひゃっ!」
相星の背中にでも落ちたらしい。ざまあみろ。
「もう! 隆くん今なんかしたでしょ!」
「何もしてねーよ」
「嘘! 今、絶対背中触ったでしょ」
「そんなことしないよ」
「許さないからね!」
「おいおい、誤解だって……」
俺が目を開けた時、目の前には彼女の顔があった。
「……」
俺は右を向いて、相星は左を向いている。
感覚が麻痺しているのか、もう触れ合っているのかいないのかもわからない。少なくとも、お互いの息遣いが感じられるくらいの距離だった。
「どうしたんだ……」
「私、隆くんのことが好き」
雨は降り止まない。
この雨は、いつ止むんだろう。
でも、そんなことはどうでもよかった。
今、この瞬間、こんな雨に、意味はない。
「ずっと、好きだった。好きで好きでどうしようもなかった。隆くんを初めて見たときから好きだった」
初めて見た時……それは、いつだったのだろう。
「そういえば……いつの間にか付き合ってるみたいになってたね……」
俺たちはどちらともなく、いつの間にか、気づけば実質、という形で、付き合い始めた。
「だから、改めて、言います」
セミの声は雨音に変わった。あの喧しい声よりは、しかし、芸術的な魅力を感じる音だった。
「好きです。付き合ってください」
「ありがとう。喜んで」
相星はメガネを外していた。彼女の瞳がよく見える。潤んだ瞳が揺れる。顔は紅潮して、刺激を与えればすべてが崩壊してしまいそうだった。
ゆっくりと背中に腕を回して――壊さないように、崩さないように――そして、俺から、彼女の身体に寄った。幸せそうに目を瞑る。その顔を見て俺も幸せになった。
「隆君……」
「叶絵」
――俺たちは恋人になった。
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