第15話 戦いの終わり

 俺にとっての記憶は、無限の「砂」のような物だ。


 それ自体に意味などなく、ただ砂漠を踏みしめて前に進んで行く。後ろを振り返っても、どこから来たのかも分からない。砂を掬い上げて覗いてみても、そこに答えはない。ただ同じ色と大きさをした砂を、何の感情もなく見るだけだ。


 だが「器」がある。器に盛った砂をさらさらと下に零していけば、意味を持っていなかったはずの砂にたちまち時が宿る。砂時計だ。俺にとっての「器」は、自分で書いたメモだった。かつての親友だった。そして俺の愛する、ミルラだった。


「トルイ様!」


 名を呼ぶ声に、俺が振り返る。正確には、俺の身体を乗っ取った魔王の意志が、音に反応した。ミルラは鎧を着ていた。たった今ここに着いたばかりのようで、息が上がっている。状況を理解しているようには見えないが、子供を連れてきていないのは不幸中の幸いか。


 取るに足らないと判断したらしく、俺はカリマの方に向き直る。片腕がぶらりと力なく曲がり、足からは血が垂れ流されている。一方で俺の力は悪意に漲り、トドメを刺そうと躊躇なく1歩を踏み出す。


 いや、躊躇はしていた。目の前のカリマという敵を倒す事は果たして正しい事なのか? 湧き上がってくる衝動に身を任せる事は果たして正義と呼べるのか? 俺は誰だ? 勇者なのか、魔王なのか、記憶する事を忘れたただの男なのか。


「待て」


 気づくと、俺はそう口にしていた。あるいは、俺にそう聞こえただけかもしれない。肉体が発した声というよりは、思考が身体を鳴らしたという表現の方が正しいかもしれない。とにかく「待て」2度言っていた。


 だがその命令が通じている様子はなかった。再び剣を振りかざすと、それをカリマの脳天めがけて、全ての力を持って振り下ろした。


 狙いは正しかったし、カリマは動けなかった。しかし剣は命中しなかった。俺が狙って、俺が外した。咄嗟に、守らなければならないという本能が働いたとも言える。


 だがカリマが受けている傷は、俺が外した隙を突いて反撃出来る程には浅くなかった。見下ろしたまま、固まっている俺にカリマが問う。


「聞こえる?」


 カリマのそれは俺に向けられた言葉だった。我を失い、純悪の意志に埋れた俺に呼びかけている。


「私の父は、魔王に殺された。それから父の友人だったバルザロ様に引き取られ、剣と魔法の修行をした」


 カリマは静かに語る。いつ再び剣が振り下ろされるかも分からないというのに、その口調にはいささかの恐怖もない。


「いつの頃からか感情を殺して生きるようになっていた。私にあるのは魔王への復讐心だけ。それだけあれば生きていけた。でもあなたが!」

 強くなる語気を緩める。

「でもあなたが、魔王を倒した。感謝はしているけど、恨んでもいる」


 意識は薄いが、カリマの言葉は俺に届いていた。だが悪意が消えている訳ではない。


「バルザロ様から、あなたの状態を教えてもらった。あなたの役に立ち、魔王に復讐が果たせるのなら、これ以上は無い。だからこの戦いに後悔はしていない」


 託された魔王の悪意は、宿命となって俺の前に立ちはだかっている。戦う事でしか目的を達成出来ないのなら、勇者も悪魔もそう変わりは無い。そしてカリマもまた、それらの呪いから逃れられずにここまで来た。


 剣を握る手に力が篭る。抑えきれない衝動が、津波のように押し寄せる。


「騙した事は謝る。きっと忘れるでしょうけど」


 静寂。


 振り下ろされた剣は、カリマの命と俺の記憶を切断しようとする。


「トルイ様!」


 静寂。


 気づくと、俺の身体が転がっていた。刃が空を向いている。それに貫かれていたのは、カリマでもなく、ましてや俺でもなく、ミルラだった。


 俺は叫ぶ。声にならない声で最愛の妻の名を呼ぶ。


 赤くて暖かい液体が、俺の手を濡らしている。


 意識は更に薄まり、俺の身体は容赦無くミルラの身体から剣を引き抜いた。血溜まりの中から立ち上がると、背後に気配を感じた。いや、感じたというよりも、攻撃が既に命中してからそこに誰がいたのかを思い出したと言った方が正確だ。


 ミルラが命を賭けて稼いだ時間は、カリマに反撃の機会を与えた。そしてカリマはその機会を生かし、傷だらけながら最高の一撃を俺に叩き込んだ。


 絶望感と共に、意識も薄れていく。


 最後の力を振り絞って、俺はミルラの手に触れる。ミルラは口から血を流しながら、俺に言った。


「トルイ……様……1つ、謝らなければならない事が……あるんです」

 

 途切れ途切れの言葉の間に、何かきらきらとした物がちらついていた。


「知ってたんです……。魔王の意思の事。それでもトルイ様を1人にしたくなくて……私は……」


 俺の中の魔王が、そして俺の中の勇者も、ゆっくりとその視界を閉じていく。

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