葛藤と諦め

理佐ちゃん

第1話

 今日も、一日の授業が終わり、帰りの会が始まった。

 私のオフィスは、高校生たちの教室のすぐ脇にある。人数は多くはないが、帰り際はいつも喧噪であふれる。すぐ脇でデスクワークをしている身にとっては、集中力をかき消される嫌な時間だ。同時に、終業間際が近づいており、私のイライラも募る。いつもは、このタイミングでこの校舎を離れ、少し離れた静かな校舎へ移るのだが、今日は仕事がなかなか一段落付かず、この喧噪に巻き込まれてしまった。

 このクラスの担任はいつも、生徒の騒がしさを意に介していないようだ。特に生徒を注意したりはしない。

 生徒たちの会話を聞いているとクラスの様子がよくわかる。このクラスは、というより、この担任は、生徒たちを放し飼いにしている感がある。教務主任としては、ここもまた頭が痛いところだ。

 眉間が重くなる。

 最後のコーヒーを含み、校舎を移る支度をしていると、他の生徒たちが教室へ入ってきた。この教室で開かれる部活の部員たちだ。彼らも例にもれず、喧噪とともに現れる。

 コートを準備しながらそれとなく会話が耳に入ってきた。

「コンビニで三ツ矢サイダー買ってくる~」

 屈託なく少女の声が耳についた。眉間がさらに重くなる。

 あの担任の声はしない。彼は、私がここにいることに気付いているのだろうか。生徒たちは気付いているのだろうか。

 教務主任という立場上、私はこれを聞き逃してもいいものか。彼が顧問をしている部活なのだから、彼に判断を任せるべきなのか。この学期末の仕事がたまりにたまった時期にこれ以上の問題は抱えたくはない。私がいまここの部屋から出ていったら、生徒たちはどのような反応を返すのだろう。あの担任は……。

 もし私が何も言わずにここを離れたら、生徒たちは次回からどのような行動をとるだろうか。今後、学校での活動中に勝手にコンビニへ行ったりしないだろうか。私がこれまで保ってきた「厳しい先生」というイメージが薄れてしまう可能性もあるのではないか。それより、あの担任の上司として、彼に対する威厳が保てるのだろうか。私自身が部下を放し飼いにしていると思われたりはしないだろうか。彼は、何を考えるだろうか。

 コーヒーは、もう飲み干してしまった。

 何人かの生徒が屈託もなく会話を続けている。

 暗くなったパソコンの画面に、疲れた顔が映る。

 通知表の確認がまだ終わっていない。膨大な量が残されてる。

 カフェインが必要だ。

 もう考えるのは疲れた。

 笑顔だけは作り、扉を開けた。

 生徒たちが振り返る。一瞬、目の奥に陰りが映るのが分かった。

 私を敢えて笑顔を返した。彼らには、私の目の奥の濁りが見えただろうか。迷いが透けてしまっただろうか。あの担任には……。

 「三ツ矢サイダーは駄目ね。ドクターペッパーじゃないと」

 とっさに口をついた。カフェインが必要だ。

 生徒たちの顔が少し和らいだ。自分自身の糸も多少は緩んだのが自分でわかった。

 その後の会話も、何となくスムーズに進んだと思う。生徒たちは屈託なく会話をしていた。あの担任も会話に自然に入っていた。

 雨上がりの夕闇を歩きながら少し胸を撫でおろした。自動販売機で缶コーヒーを買った。ライトに照らされている三ツ矢サイダーが目に入った。

 まだ、きっと大丈夫。

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葛藤と諦め 理佐ちゃん @Risa-chan

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