第11話 それはまるで瘡蓋のような世界
元々、肛門の調子は良くなかった。
この頃、用の後にはよくトイレットペーパーに浅い色の血が付いていたし、下痢も続いていた。イボのようなものがある感覚もあった。しかし、ふと目に留まった時にはあの笠が上手く糞を削いでくれるように思ったのだ。
電話口から聞こえる息子と愛妻の悲鳴、何かの破壊音、気が動転していたのは間違いない。慌ただしく手に取ってケツにあてがい擦りあげた。
ピシュー
使用済み缶スプレーに釘を打った時のような音がして、股座を覗き込むと鮮血が霧状に噴射されていた。右手と松ぼっくりが真っ赤に染まっている。
(あ……ぁ……)
止まらない、急性の貧血だったのだろう、意識が遠のいていく。
(いや、それどころではない!)
両手を顔に打ち付けて気合を入れる。顔に血の隈が取られる。噴射音が一段高くなる。お構いなしズボンを上げて駆け出す。
血の気が引いて転倒した。
ケツだけが温かく、他の全身が冷え切っていく。しかしそんなことはどうでも良かった。妻子の危機にはバイタルの低下を気にしている場合ではない。竜化に備えて魔素を体に巡らせる。
竜化、転身は変質するというより置換と言った方が意味合いとして近い。質量保存の法則、物理原則、生物としての理すらも無視して、私は竜として再構成されるのだ。本来であれば竜化したところで巨体の自重を支えることすら叶わないであろうが、この世界のもう一つの理がそれを許す。
ただこのタイミングでの竜化は避けるべきものであったには違いない。それは尻からの出血によるものではなく、むしろ竜化して人化すると大抵の怪我や疾患は治る。それは今この世に存在する理ともう一つの理がまだ懸け離れたところにあるためだ。
しかし、今それらは急速に近づいている。この世界は間もなく全く新しい法則に取って代わられる。旧世界・神話世代の理とリンクして、今の常識は失われることになるだろう。
力を持つものが今から転身を行うことはそれを早めることになる。
(だが今は妻と子供が危機に瀕している……!)
充分にアイドリングされると人の身体であっても意志の力だけでコントロールが可能になる。身体能力が抜群向上するわけではない。ただ痛みなどの生理的な作用が運動系に及ぼす影響をある程度遮断することは出来る。肉体的には私も瀕死に近いことだろう。
さほど距離があったわけではない、すぐに茶色の巨体を目にした。
竜化して咥えてどこかに投げ飛ばしてしまおうと、今、転身せんとしたとき、茶色い巨体が揺らいで倒れ込む。同時に飛び掛かる影、老眼がきていたが、服装からスミさんであると捉えることが出来た。
異変を察したおてつけさんの指示か何かがあってスミさんが駆けつけてくれたのだと状況を飲み込んで、一先ず人の姿をしたまま近くに駆け寄る。
(うおお……)
単眼の化物、サイクロプスか一つ目入道かそんなところだったのだろう。目が弱点であるには違いなかったのだろうが、眼球は幾度も振り下ろされた手斧によってぐちゃぐちゃに血と混ざって出来損ないのフルーチェみたいになっている。
すでに完全に生命活動を停止している化物に執拗に斧を振り下ろしているスミさんに呆気をとられたが、すぐさま肝心のことを思い出す。
(ん、車がない)
向こうで半身を起こしている祐志郎がゴトンと音を立てて後ろに倒れた。走り寄って抱えて声を掛ける。
「おい、大丈夫か、母さんどこだ」
気を失っている。一見して外傷はないが、また失禁したようだ。ん、臭い、糞も垂れやがったなこいつ。
しかし、妻の姿ないこと焦りながら辺りを見渡すと路肩にひっくり返った愛車を見つけた。
「おいい!くま子、くま子、大丈夫か!」
下になって窓からでんぐり返った状態で気を失っている妻の顔が見て取れた。
鍵を開けてノブを力いっぱい引くとガコンという音を立てて開く。
「おい、くま子、おい、おい」
頬を叩きながら呼びかける。
「んん……」
「くま子!」
「あなた~、遅い~、怖かった~」
安堵のあまり妻の身体をケツごと抱き留める。
「ちょ、ちょっとあなた~、苦しい~、ここから出してからにして~」
そして安堵のあまり貧血を起こして私も気を失ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます