第5話 月が綺麗だからキスされたら死ぬ

風呂上がり、借りた浴衣を着て縁側で涼む。


足裏をつけた縁石は冷やりとしていて気持ちがいい。


首を傾げて側頭をとんとんと叩き耳に溜まった水を抜き、肩に掛けたタオルで耳を拭うと夜風が乾かしてくれる。気持ちがいい。


昼の熱っぽさはすっかりどこかに退いていったようであって、汗も滲まず、それでいて息をすれば鼻の奥が少し冷えるくらいの気持ちがいい夜であった。


気分がいいのは腹が満ちているせいもある。


晩御飯はすき鍋であった。焼きながら作らなかったので鍋でいいのだろう。


晩飯前、スミさんは俺に「さっきはごめんなさい、晩御飯ごちそうにしたから」といって謝った。


肉だくさんだった。


(許そう)


あと、みょうがと何かの葉っぱの天ぷら、葉しょうが、おろし蕎麦、美味かった。


まんまるの月を見上げながら浸る。


(あー日本の夏って感じですな)


虫の音と田んぼと山と満月とで構成された景色は、意味の分からないこと続きの日々でささくれた心に染みた。


しばらく眩しいほどの満月を眺めていると、自分は人間でなく日本人かも怪しい、どこからそういう疑念がふつりと湧く。


(うぐぐ、苦しい)


この発作が最近、日常になりつつあった。


アイデンティティが揺らいでいる状態というのだろうか。


やはりどうやら俺は竜族らしいのだが、人としてどうかは別にして、人として生きていたのだ。


認識がうまくいっていないのもあって、自分が何者であるかが分からないと途轍もなく不安になる。


一応、父親と母親は実の両親であることは間違いないらしいのだが、最早そこを問いただすのも怖い。


父が竜族で母が人間というところが怖い。


聞けない。


「実はね…」なんて切り出された日にはいよいよだ。


社会に適応する自信を失っていた俺にとって、あの両親と犬一匹の家が拠り所であったのだ。俺は完全に甘えきっていた。


(……ん)


いわゆる山里然したこの土地は、四方に目を向ければ必ず山で行き止まる。


その山の袂あたりを灯りがちらちらとし始めた。


点いたり消えたり、無造作に弧を描いて飛んでいる。


そういえば、あの一件から視力も相当良くなったようだった。


距離にして随分あるものの、それらが懐中電灯、提灯行燈の類でないことがすぐに理解出来る。人影の見えないことが月明りで十分に見て取れたのだ。


普段であれば「おかーさーん人魂人魂―」と間髪入れずに騒ぎ立てるのであるが、急にそれに興味が湧いてもう少し近くで確かめようという気になった。


思えば魅入られたというやつだったのかも知れない。


そこからその人魂らしいもののとこまで行ってからか、向こうからやってきて誘われたのか定かではないが、しばらく道を行った。


裸足であった。


いつからか錆びて乾いたような鈴の音が虫の音に代わってし始め、いつからか太鼓に笛のお囃子が聞こえて、やがて笑い声までし始めた。


三度笠を被った男が早足で自分を抜き去ったかと思ったところで気が付いたようになり、周りを見ると一体なんであろうか。


人ではなかった。


人らしい形もあったが、肉の塊のようなもの、骨だけのもの、長い鼻の真っ赤な顔のもの、跳ねる生首、禿げ上がった背虫男、頭が男根の馬、顔の見えない学生、鯉に足の付いたもの、鮭に足のあるもの、背が顔になった蟹、不可思議に地面を転がる玉、片足で跳ねているもの、尻が四つに割れたもの、盲人、老人の押す車椅子に乗せられた子供、顔半分に火傷跡のある女、小箱を抱えた小僧、後ろ向きで歩く男、古今の乞食及びホームレス、いやに大きい猫、前後が頭のある犬、酔っ払い、白蛇、すし屋と蕎麦屋の出前、デコチャリに乗った若い男、乳房を丸出しにした老婆、チンドン屋、上半身だけスーツであとは露出した男、マラソンランナー、牛と牛飼い、ヤギに乗った男、羊に引き摺られる女、毛のない四つ足の動物、子供のようにはしゃぐ二つ足で歩く狸、聴診器を自分の頭に当てた医者、指で這いずる腕、薄ぼけた人たち、カブトムシの群れ、木にびっちりと張り付いた蝸牛、


空を見れば、


そよぐワイシャツと着物とブラ、蟹の手をした蛇、長く白い布、装束を着たカラス、耳が羽のようにしている生首、鰻屋の出前、自分の尻を持ち上げて浮いているホラ吹き、トロサーモン、トビウオ、バッタとイナゴの群れ、発光する少女、日の丸弁当、紙ヒコーキの群れ、髪を5色の斑に染めトゲ付きの革ジャンを着た男、鯉のぼり、色とりどりの布、兎、人魂、巨大な蛾、蝶々夫人、人の皮、ろくろ首、薄ぼけた人たち、古傘、人の顔で笑う鳥、銀河鉄道、鈴を抱いた猫、右足が落ちる前に左足を出す人、自分の吐く煙草の煙に乗った老人、星々に巣を掛けた蜘蛛、粗末な船。


言葉もないほど俺は仰天して尻餅を搗くと、近くの蝸牛だらけの木の枝の上に子供が三人立っていて、もぞもぞしたかと思えば小便を振りかけてきた。


少々すでに掛かっていたが、逃れようと慌てて手足を擦って退くと、背中ぶつかるものがあった。


後ろ手をついたまま見上げると、ボロ菰を簀巻きにした汚らしい男の顔が俺の真上にあって、口をくちゃくちゃとしたかと思うと、疎らな歯の隙間から唾をべとーっと垂らしてきた。


(ひょえぇ、お、おおお!)


それを間一髪で躱すと何とか起き上がり一心不乱に走り出す。


(一体なんなんだなんなんだなんなんだ)


皆一様に笑い始めた。


俺が逃げ狂う様が面白いのだろう。


ワハハ、ゲラゲラ、カタカタ、キュウキュウ、ピチピチピチピチ、クエックエッ、ぎゃぼぼぼぼ、ぷりぷりぷりぷり、コロコロコロ、その笑い声の隙間を縫って縫って、奴らの歩く流れと別の方向にひた走る。


異形の影に異形、走って上がる心拍数に加えて驚くものだからいつ心臓が止まるものか分かったものではない。


然し尽きない、避けて抜いて割り込んでも一向に奴らは姿を消してくれない。


時折、股の間をふわふわしたものが通り抜けたり、頭を撫でるものがあったり、全く不明な言語話しかけてこようとするものがあったりして、その度に気が触れそうであった。


やがて覚めてくれない悪夢の中で逃走や抵抗を放棄したときのように精も根も尽き果てて、彷徨するのと大差なくそれたちを避けるばかりなったとき、俺は躓いた。


(あっ)


と思ったが、張った足は前に出てくれず何者かぶつかってそいつ倒れ込む。


今度こそ耐えられない、心臓止まる。妖怪の類ならジ○ニャンでも心臓吐き出して死ぬ。


丁度押し倒す格好になって、何故か瞼は閉じられなかった、顔。人の顔。


首が回っても死ぬ、額から第三の目が開いても死ぬ、目ん玉が飛び出しても死ぬ、口が耳まで裂けても死ぬ、口からハトが飛び出しても死ぬ、急に老けても死ぬ、キスされても死ぬ、笑っても死ぬ。


「……祐志郎君?」


名前を呼ばれて死にそうになったが、見ればその顔はスミさんであった。


「お、お、あ」


安堵のあまりのため息が細切れで出ると、凄まじい安心感にそのままスミさんに抱きついたまま俺は号泣した。

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