第肆章 宵闇の狂気

第壱話

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“外”の世界の時分に合わせて、桜花宮にも黄昏がやってくる。水鏡に空の色が映り込んで、まさに空間全体が胸を締め付けられるような色に満ちる。

 そんな景色を一望できる居室のひとつで、花散里は片腕たる側仕えの目白の報告を聞いていた。普段は何かと忙しなくあちこちを行き来している藤壺も、今日ばかりは几帳を止まり木にしてその話に耳を傾けていた。

「なるほど、そんなことが……」

 花散里はことの顛末を全て聞き終えたあと、まずは桐壺を労った。桐壺は大層嬉しそうに二、三度翼をはためかせて、それからはたとその動きを止めた。

「そういえば……枝折りの鬼子も、ひどく此度の所業を詫びておりましたが、結局のところ、処断のほどはいかがなさるのですか?」

 その言葉に、花散里は手にしていた扇で口元を隠してころころと笑った。さわさわと風が吹き、御簾がふわりと揺れた。

「まあ、処断などもう良いではありませんか、桐壺」

 長く生きてきた春神は、扇をゆっくりとした動作で閉じると、優しく微笑んで続けた。

「己が罪に苛まれていたならば、それでもうその者の処断は終わっています。懺悔とはそういうものでしょう?」

 二羽の側仕えは、敬愛して止まない神の言葉に互いに顔を見合わせた。それから、揃ってそうですな、と頷く。たとえ自らの依り代を手折られても、相手の事情を汲んで許せるだけの度量がある。それはきっと人の子にも知らず伝わっていて、だからこそひとかどの神となって久しい今も、こうして人々に愛されているのだろう。

 そして、そんな慈愛に満ちた神だからこそ二羽は側仕えをしているのだ。

 藤壺はぱたぱたと几帳から桐壺の隣に舞い降りると、花散里を見上げて口を開いた。

「しかしまあ……“絵師殺し”でございますか。十年も経ってまたやってきたとは、とんだ執念でございまするな」

「ええ……そうですね」

 春神は、密やかにそう呟いて目を伏せた。

 一夜にして数多の絵師や妖を葬り去った、残虐なる絵師。彼女が親しくしていた者たちの中にも、かの者によって殺されてしまった者は決して少なくなかった。その再来と考えるだけで、胸の奥がざわついてしかたがない。ふと脳裏に血に濡れて死んでいった同胞らが過ぎって、花散里はそれを振り切るように静かにまぶたを開いた。

「……嫌な予感がしますね。“絵師殺し”……いったい何が目的なのやら」

 らしくもなく硬い表情になった主を心配そうに見つめながらも、桐壺はゆるゆると首を横に振った。

「残念ながらそこまではわかりかねまするが……〈六角座〉の座長殿も、何やら恐ろしげなお顔でございました。普段は胸の内の読めない御仁ですが、あのような形相は初めて見た気がしますな」

 花散里は、せっかく閉じた扇をまた開くと、何とはなしにゆらりと扇いだ。それから、あの若く才気煥発な絵師を思った。

「……天涯殿は、誰より高潔な絵師ですからね」

 今現在生きる絵師の中で、彼ほど絵師らしい絵師もいるまい。技術もそうだが、花散里は志木芳正────否、志木天涯という名の人間の奥に、踏みにじられても輝き続ける気高さを感じていた。

 だからこそ、自らの誇りとするものを穢した咎人は許せないのだろう。

 麗しき女神はそこで物憂げなため息をつくと、黙って御簾越しに桜花宮の景色を見やった。いつの間にか空間を染め上げるほどの黄昏は去っていた。

 ただ、わずかばかりの残光が鈍い七色を空に描くばかりだった。


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