第弐話
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同刻。
胡蝶神、露地小屋通りの奥の奥。そこには、一軒の掘っ立て小屋同然の建物があった。お情け程度の看板もなく、夜風に揺られて仕切りの厚い布がゆらりゆらりと揺れていた。
「……以上がことの顛末になる」
その中で、〈六角座〉座長───号を天涯、名を志木芳正とする青年はかいつまんで事の次第を語った。隙間風の通る小屋では頻繁に蝋燭の明かりが消えかける。頼りない灯りを挟んで彼と対した相手は、しばらくその火を見ながら黙りこんだ。それから、不意ににたりと笑った。その口元はいくつか歯が抜けていて寂しいものだった。
「ずいぶん突拍子もねぇことに首突っ込んだもんだなぁ、天涯」
「それは今更というものだよ」
志木は苦笑を口の端ににじませるも、すぐにそれを真剣な表情でかき消した。
「……正直、今は情報が足りない。胡蝶神一帯で桜の枝を探している輩がいないか調べてくれないかい?空木」
言いながら、小さな袋を朽ちかけの卓子に置く。複数の金属が擦れる音が袋の中から聞こえる。空木と呼ばれた男はすぐに応えることはせず、その中身を確認した。いつもの料金に少し色をつけた額だったが、空木にしてみればこの男が色をつけること自体が珍しかった。彼は
「まぁそりゃ構わねぇけど。どーして、俺っちのとこに初めに来たんだい?一門様々に頼んだら良いだろう」
普通はそちらに頼んだほうが早い。何せ一門の情報網は政府のそれに匹敵するとも噂されて久しいくらいだ。
空木の視線に、志木は卓子を指でとんとんと叩くと読めない笑みを浮かべた。
「おそらく正規の情報網じゃあ引っかかってこない部類の話だろうから、あなたに頼みにきたんだよ」
相手はあの狐井匡だ。無断で手折らせた由緒ある桜の枝を、正規の品流れに乗せるとは思えない。それが志木の読みだった。
だから空木に情報収集を依頼した。彼は身なりは薄汚い乞食だが、この界隈の裏事情には誰より通じている。その伝手に賭けた。
「ここから先は速さの勝負だ」
不意に、すっと志木の瞳が細くなった。それだけで小屋の中の空気が冷える。相変わらず場の空気をいとも簡単に操れる奴だと、空木は内心で苦笑した。これができる者は大抵大物と相場が決まっているが、志木は空木が知る中では最も若い部類の“大物”だった。
「おそらく、あちらはあの鬼子に僕たちが接触したことはもうわかっているはず。なら、何か事を起こすのは時間の問題だ。それまでには片をつけるよ」
だが、若いゆえに一瞬表情を過ぎる殺気は隠せない。特に自分のような人の顔色を見るのが商売の人間相手には、それはときに致命傷になる。皆が読めないと評する座長相手でも、空木の目は仮面にある表情をしっかりと捉えていた。
彼は途端に面白い、と笑んで、酒臭い顔を近づける。志木は内心で表情を読まれたことを悟って盛大な舌打ちをした。これだから、ここにはなるべく来たくなかったのだが。
「……ははぁん、さてはお前さん。あのじじい年齢に片足突っ込んだ兄弟子たちより先に、師の仇討ちしようってのか?」
十年前の惨禍を知らぬ者はいない。
だが、その被害者の名を知る者は少ない。それは、あの事件が絵師が起こした醜聞だからに他ならなかった。あの当時名が上がったのは、著名な絵師ばかりだった。
志木の師は、そのひとりだった。
「……さぁ、それは君の想像に任せるよ」
青年はそれ以上答えることはなかった。紅の羽織を翻して、彼は空木に背を向けた。
「じゃあ、よろしく。くれぐれも無茶だけはしないでね」
空木は志木の態度に怒りだすわけでもなく、軽い調子で応えた。
「はいよー。旦那も食われねぇようにな」
志木はその声を背中に小屋を後にする。空を仰げば既に世界は宵に呑まれようとしている頃合いで、人気がなく薄汚い路地には慣れ親しんだ闇が蠢く気配が漂っていた。
「……食われないように、か」
青年絵師は今しがたの情報屋の忠告に思わず苦笑を漏らした。それから、懐から筆と絵札を取り出す。
その瞬間、たゆたっていた闇の塊が鬼に変わって志木に襲いかかった。その姿が、一瞬にして黒に覆い尽くされる。
しかし、弾け飛んだのは鬼のほうだった。まばゆい閃光があたりに満ちて、鬼の姿は瞬時にかき消える。
その場にあったのは、服の裾すら乱れていない志木天涯の姿。それから、その肩に止まる白く美しい八咫烏の姿のみだった。
「───僕を誰だと思っているんだか」
妖しく笑った志木の声に応えるものはなかった。
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