第肆話

 その様子を見ながら、春臣はまた秋彦を見上げた。それから、ふと疑問に思ったことを口にする。今なら、この少し気難しく真面目な青年もてらいなく応えてくれる気がした。

「……照鏡姫さんとは、契約されてから長いんですか?」

 ふとした質問に秋彦は少々面食らったようだが、しばしの間のあと答えた。

「……そうだな。俺たちの場合は、まあ特殊かもしれんが……少なくとも人生の半分は共に過ごしているか」

「そんなに早く……!?」

 人生の半分というと、春臣はまだ玲陽や彩玲と出会っているかいないかくらいだろう。かなり驚いた様子の後輩に、秋彦は首を傾げる。十歳前後といえば、契約とまではいかなくとも式候補となる妖と出会っていてもおかしくはない年頃だ。現に彼の知る絵師たちも多くがそれくらいから目星をつけているし、そんなに物珍しいことでもないはずだが。

 そこまで考えた秋彦はふと春臣の事情を思い出して、あぁ、と声を上げた。

「……そうか。お前はあの筆神と契約するまでは契約できそうな妖に恵まれなかったと言っていたな」

「えっと……恥ずかしながら」

「それまではどうしていたんだ?」

「玲陽先生のところで、ずっと一人でもできることをご指導いただいていました。僕は養子でもありましたから、お店を手伝いつつ」

「……そうか。」

 どこか眩しそうにこちらを見下ろす秋彦に、今度は春臣が首を傾げる。すると、彼は首を横に振って前を向いた。

「なんでもない。……それより、前を見てみろ。大池だ」

 秋彦の様子が多少気になりつつも、春臣もまたその言葉の通りに前を向いた。

 雑踏の向こう側に、桜色の塊が見えた。それは徐々に大きくなり、やがてその華やかで壮麗たる景色が広がる。

 どれくらいの大きさだろうか。こんな街の真ん中に広大な池があるのはなんだか不思議だった。今は水面も凪いでおり、薄青に乳白色を差したような淡い色の空が映り込んでいる。どこかに貸し舟屋があるのか、時折数隻の舟がその大きな水鏡を滑り波紋を描いていった。

 そして、今はその縁をなぞるように桜並木がずっと続いていた。どれも満開で、ひとつ風が吹けば花弁が散ってしまいそうなほどだった。きっと雨が降れば、今は見上げるばかりの桜雲も地面に鮮やかな色をつける天然の顔料になるのだろう。

「わぁぁ……!」

 春臣は、歓声を上げたきり立ち止まってしまった。周囲の人混みはいっそう密になっていたが、彼と同じように楽園のようなその景色に見とれている人々も少なくなかった。

 ひたすら口を開けて桜を見上げていると、不意にその顔を照鏡姫が覗き込んできた。彼女はふわりと宙に浮かび上がると、春臣に話しかけてくる。

「何じゃ、お主、大池の桜を見るのは初めてかえ?」

「はい!話には聞いていたんですけど、なかなか機会がなくて……でも、とってもきれいですね……」

 最後はため息交じりになった言葉もしっかり聞いて、照鏡姫はくすりと笑った。そして、自身も桜雲を仰ぐ。

「ここの桜はいっとう古い。先の戦では愚かな人の子らに切り出されそうになったこともあるが……今は等しく皆を癒す場じゃ」

 春臣は魔鏡の付喪神を見上げた。その横顔は自分よりもずっと幼いはずなのに、ずっとずっと大人びて見えた。その眼差しは、自分が思うよりも遥かにたくさんのものを見てきたのだろうと思わずにはいられなかった。

「……そんなことがあったんですか?」

「あった。お主は……まだ生まれていなかった時分であろうがな。時の流れはまこと、早いものよのう」

 照鏡姫は感慨深いような、少し寂しそうな声でぽつりとこぼした。そして、それを振り切るように首を振ると、己の主へと視線を向けた。秋彦は無言で頷くと、春臣と白墨を振り返った。

「こちらへついて来い、二人とも。これからいくところは少々特殊だからな。はぐれてくれるなよ」

 そう言うと、彼は早速人混みをかき分けて歩き始める。春臣は遅れないように慌ててその後を追う。どうにかこうにかその隣に並ぶと、周囲の喧噪にのまれないよう大きな声で秋彦に尋ねる。

「あ、秋彦さん?どこに行くんですか?」

「今朝言っただろう」

 彼は肩越しに春臣を振り返る。はらりとその肩に花弁が落ちた。

「花散里の君────またの名を、春御前。この大池の桜を護り続ける春告げの神に、会いに行くんだ」

 秋彦は、そう言ってふっと笑ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る