第参章 春の盗人
第壱話
夢うつつの向こう側。
遠くで誰かが何かを言っている。
「………く、こや……はいつ……」
「……あ………こ……なる……が……」
まだ寝ていたいのに、随分やかましい。
誰だかわからないが、もう少し寝かせてくれてもよいではないか。店の開店まではまだまだ時間があるはずなのだから。
「………お、……ね!ち……やつ……」
声を断ち切るように布団を頭から被る。人肌の温度がほどよく移ったそれは、意識を再び夢の世界に誘ってくれる。
そうして片足をあちら側に突っ込んだところで、誰かにぐいっと布団を引っ剥がされた。その勢いで、春臣は盛大に身体を畳に打ちつけた。びだん、と背中を強打した彼は、朝っぱらから痛みにうめきつつ顔を上げた。
そして、遙か高みからこちらを見下ろす強面の男とばっちり目が合う。
「……ぅわぁぁぁぁぁぁぁ!!!??!?」
たっぷり数秒の間を空けて、少年は全力で叫びつつ後ずさった。腰が抜けたような格好だったので、その光景は端から見るととても滑稽だった。
「な、なななな……!!?!」
目深に頭巾をつけた大柄な男は、春臣の反応を特に気にする様子もなかった。それどころか、寝ていた本人をそっちのけでその寝床をどこか嬉しそうに片付けはじめる。
「え……え?」
呆然とその様子を見ていた春臣だったが、その背景がいつもと違うのに我に返った。ぐるりとあたりを見渡せば、そこは〈結城屋〉の自室ではなく〈六角座〉で割り当てられた一室だった。燦々と陽光が差し込んでおり、必要最低限しかない室内は殺風景だった。
今どこにいるのかを認知した瞬間、走馬灯よろしく昨日のことが脳裏をよぎり、春臣は己の失態を知って青くなった。
(まずい……寝坊だ!!)
そして、着替えようと慌てて立ち上がったところで、開け放たれた部屋の入口で呆れた表情を浮かべていた二人にもようやく気がつく。
「……はぁ、ようやく目が覚めたか」
「お主、なかなか運が良いのう?あと数秒遅かったら、我が術をかけたところじゃ」
額に手を当てた恵と朝からなかなか物騒な挨拶をくれた照鏡姫の姿に、春臣はさらに青くなったのだった。
窓口のほうへ向かうという恵と照鏡姫と別れ、一階の客間奥、二間続きの簡単な座敷になっている部屋へ慌ただしく向かう。そこには既に全員がそろっていた。
「すみません!!おはようございます!!」
髪の乱れもそこそこに現れた春臣を、皆はおおよそ笑って迎えた。
「やぁ、おはよう春臣。どうやらうちの布団は合ったようだね?」
上座に座していた志木が言う。何の変哲もない濃い紫の和服に袖を通した彼は、いつもとどこか雰囲気が変わって見えた。
志木の言葉にくすっと笑ったのは、その隣に座っていた相楽だ。食事当番だったのか、袖をたすき掛けしている。彼はその笑顔のまま、春臣の後ろからぬっと現れたあの大柄な男に声をかけた。
「ご苦労でした、お岩さん」
「えっ?」
春臣がつられて振り返ると、彼はかすかに顔をこちらに向けた。凄味のある赤銅色の瞳が、いっそう恐ろしい雰囲気に拍車をかけている。
「あぁ、そうでした。春臣くんはそっちのお岩さんを知りませんでしたね」
相楽はにこやかに続けた。
「岩峰───昨日の牛頭の、人に化けた姿がそちらなんです。岩になったり人になったり……いろいろと器用なんですよ、彼は」
主の説明に満足そうに頷く男───岩峰だが、残念ながらその表情は主と違って一寸も動かない。どうやら感情表現は不器用らしい。
春臣が感心しながらきいていると、不意に横合いからいささか不機嫌そうな声が上がった。
「そんなところで突っ立っていないで、早く席に座ったらどうだ?これでは
そちらを見てみると、声音そのままの表情を浮かべた秋彦が腕を組んでこちらを睨んでいた。何となく目の下に隈ができているように見えたが、秋彦が眼鏡の位置を変えてしまったのでよくわからなかった。
「あ……す、すみません!!」
慌てて夏樹の隣に座る。円を描くように並べられた膳には一汁一菜がほのかに湯気を立てており、それがまた空腹を誘った。
「では、いただくとしようか」
志木の一声で、皆が箸をとって食べ始めた。
「おはよう、春臣!いい夢見られたか?」
早速夏樹が声をかけてきた。春臣はそれに笑顔で返した。
「おはようございます、夏樹さん。……えっと、夢見のほうは……たぶん?」
「……これだけ寝ておいて、悪いほうがどうかしているだろう」
さらに隣で、秋彦がぼそりと言う。すると、夏樹はご飯をかき込みながら彼を睨んだ。
「おい秋彦、何か言うならはっきり言えよ。らしくねぇな」
「……別に。いつまでもぬるい心構えでいる輩は、さぞ夢も満ち満ちたものだろうと思ったまでだ」
漬け物をかじりながら、秋彦はふいっとそっぽを向いた。春臣はご飯を食べつつうつむきがちになる。その姿が見えているのかいないのか、手厳しい先輩絵師は付け加えた。
「ここは絵師座の
麗らかに晴れた春の朝だというのに、あっという間に冷たい空気が流れ出す。言われた春臣は完全に食事の手が止まってしまい、対する秋彦は憮然とした表情のまま味噌汁をすする。年長者二人は何か口を挟むでもなく、夏樹は変わらずすごい勢いでご飯を食べつつ箸を持った手をひらひらと振った。
「あーやめだやめやめ!せっかくの飯が不味くなるぜ!」
「おや、それは困りますねぇ。今日の汁物はとてもうまくいったのですから」
夏樹の言葉に便乗するように口を開いた相楽に、志木が不信感のある眼差しを向ける。
「そんなこと言って……相楽さんの味覚は信用ならないからなぁ」
「芳正くん、これ見よがしに言うのはやめてくださいよ」
ずず、と味噌汁をすする志木は、椀に視線を落としながら眉根をよせた。
「だって初めの頃は本当に食べられたものじゃなかったじゃないか。塩辛くて飲めたものじゃなかったよ。ある意味で伝説的な味だった」
「ご所望とあらばつくりますよ?」
「遠慮するよ」
春臣が軽妙なやりとりをする二人を見れば、視線に気づいたらしい志木がこっそり片目を閉じて笑っていた。場の空気が悪くならないようにしてくれたのだと思い、嬉しさよりも申し訳なさのほうが先に立った。
『あの、これからよろしくお願いします!僕、頑張ります!』
昨日そう言ったばかりだというのに、自分は何をしているというのだろう。
そう思うと余計に申し訳なくて、情けなかった。結局、朝食の時間は終始うつむいたままやり過ごしたのだった。
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