第漆話

 それから恵とともに言葉少なに渡し場の外に出た春臣は、出入り口の停車場にたくさんの車が停まっている光景を見た。車と言っても人力車がほとんどだったが、少なからず馬車の姿も見えた。

「うわぁ……!すごい数ですね!」

 思わず感嘆の声をあげて一歩踏み出しかけた春臣だったが、隣に立った恵はその首根っこを掴んで引き戻した。その瞬間、眼前をがらがらと車輪の音を立てながら馬車が通っていく。御者台から何事か文句が飛んできた気がしたが、聞き取れなかった。

 走り去っていく馬車を見送りながら、春臣はばくばくと鳴る心臓を押さえて冷や汗を流した。その表情を見ながら、恵はため息をついて春臣の襟を掴んでいた手を離した。

「阿呆め……停車場で呆けると下手をすれば命を落とすぞ。特に馬車の御者は気が荒いものが多い。今後は気をつけろ」

「はい……肝に銘じます……」

「やれやれ……」

 先が思いやられる、と言った様子で、恵は首を振った。

 今度はあたりに気を配りながら慎重に停車場内を移動する。すると、人力車と人波の向こう側に白の帽子と紅の羽織を着た後ろ姿が見えた。恵の後に続いてどうにかそちら側へ辿り着いたころには、場慣れしていない春臣はいい加減疲れてしまっていた。

「志木。こんなところにいたのか」

 恵がそう呼びかけて志木に近づくと、彼は車夫との談笑を切り上げてこちらを振り返った。

「やあ、遅かったね。後ろを振り返ったら二人していないものだから、さすがに焦った」

 その言葉に、恵は秒で切り返した。

「そうか、残念だな。俺にはお前が焦っているようには一寸たりとも見えん」

「眼鏡の度はあっているかい?恵」

「ふん、心配されずとも合っている」

 眼鏡を押し上げて応じた恵だったが、志木は見事に相方を無視して春臣を見た。

「さ、春臣。乗りたまえ。胡蝶神こちょうじんまで歩いてもよいのだけれど……後の予定が詰まっているからね」

「あ……は、はい!?」

 恵が青筋を立てているのが視界の隅に入り、いつその雷が落ちるのだろうかと気が気ではなかった春臣は、志木の言葉に反応が少し遅れた。当の本人はどこ吹く風でにこにこと笑みを深めるばかりで、おそるおそる恵を見上げれば、彼は深いため息をついていささか乱暴に髪をかき乱したところだった。

「…………我ながら、自分の堪忍袋の頑強さには感心する」

「そうでなければ、僕の式などやっていられないよ?」

「どの口がそれを言うか!」

 志木はひらひらと手を振って恵の怒りを振り切ると春臣の背を押して人力車に乗り込んだ。高くなった目線に違和感を覚えながらも座席に座った春臣は、ふと恵がその場に立ったままであることに気が付いた。

「あれ?恵さんは乗らないんですか?」

「ああ、俺はこのまま別行動だ。君とはいったんここでお別れだな」

「そう、なんですか……」

 知っている顔が一人減るだけで、とても心細い気分になる。そんな気持ちが顔にも出ていたのだろう。恵はやや苦く笑むと、自分よりやや高い位置になった春臣の目をじっと見て言った。

「少し気は早いが……〈六角座〉に身を置く者として君を歓迎しよう、春臣。君にとって、あの場所が良き修練の場となることを祈ろう」

 それは、飾らない激励の言葉。普段言わないからこそ、響く言葉。春臣はその言葉を半分の嬉しさと半分の驚きをもって噛みしめ、そして大きくひとつ頷いた。

 それを見届けてから、春臣の隣に座った志木は車夫に声をかけた。

「それじゃあ、胡蝶神の〈六角座〉まで頼むよ。……恵、またあとで落ち合おう」

 恵が頷いて見せたのと、人力車が走り出すのはほぼ同時だった。ゆっくりと速度を上げて走り出した人力車から春臣が後ろを振り返れば、そこには既に恵の姿はなかった。

「恵が気になるかい?」

 ふと、志木がそんな言葉をかけてきた。春臣が振り返ると、志木はふっと笑った。

「心配せずとも大丈夫だよ。彼は少なくとも君よりは西岸地区に慣れているからね」

「うっ……志木さん、意地悪です……」

「これは失礼」

 青年絵師は、愉快そうに笑った。

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