第陸話
渡し場を後にした春臣は、志木と恵に連れられて河岸に沿って歩き出した。
「すごい人だろう?離れないようにね」
志木の言葉に頷きながらも、春臣は物珍しさであたりをあちこちと見回した。
辺りは忙しなく人が入り乱れて歩いている。こちらが避けても人とぶつかってしまうくらいの多さだ。しかし、行き交う人の多さもさることながら、渡し場の雰囲気も東岸地区とは随分異なる印象を受ける。あちら側の渡し場は年季の入った桟橋が多く、桟橋へ通ずる石造りの階段もいささか急だったが、こちら側の渡し場は桟橋までもが石造りになっており階段の幅も広い。それに、向こうではぽつぽつとしか見られなかったガス灯もこちらでは一定の間隔を置いて整然と設置されている。夜も足元の心配をする必要はないだろう。また、渡し場にいる人々の中でも洋装をしている人の姿が少なくなく、全体として洗練された印象だ。
春臣は胸中の心細い気持ちとともに荷物を抱えなおした。たった一本の川を挟んだだけだというのに、なんだか知らない国に来てしまったような気分になった。座敷舟だろうか、提灯をいくつもぶら下げた大きな船がちょうど桟橋を離れていくのが見えた。
「どうした、春臣」
いつの間にか立ち止まっていたらしい。後ろに立って歩いていた恵が顔を覗き込んできたのに我に返って、春臣は首を横に振った。
「いえ、その……なんでもありません」
「気になることがあるのなら、話してみたまえ。歩きながら答えてやる」
背を軽く押しながら言った恵を振り仰ぎながら、春臣は少しためらった後口を開いた。
「……その、東岸と西岸ではこれほど違うのかと思って。圧倒されてしまって」
正直な気持ちを話すと、恵は特段表情を変えることもなく頷いた。
「まあ、そう思うのが普通だろうな。都合上、俺や志木は東と西を行き来する機会は多いが……何度見ても、こちらから見る景色とあちらから見る景色は重ならない。ほんの二十年前までは、双方の岸辺からの眺めはまるで変わらなかったというのに」
「そうだったんですか……?」
「ああ、そうだ」
天界の獣として名高い白沢は、ひとつはっきりと頷くとその視線を川面へと向けた。それをたどって、春臣も西岸の景色を眺める。
ちょうど、見るからに仕立てのいい着物を着た婦人が洋装の男性に連れられて座敷舟に乗り込むところが見えた。他にも何人か、付き人らしき人々がそれに続いて乗り込んでいく。船頭が彼らに頭を下げて、自分の持ち場へ戻っていく。ほどなくして舟は桟橋を離れていき、景色の一部となった。
その数本隣の桟橋では、東岸に渡るために大きな荷物を抱えたたくさんの人々が列をなして待っていた。誰もが和服で、着古したように色褪せた生地であるのが遠目で見てもわかる。大型の舟が出るのを待ってから渡し舟を出すらしく、皆大人しく列をなしていた。
その様子を見ながら、少しの間をおいて恵は口を開いた。
「……大きな変革を経て国が新たな時代を迎え、人々がより豊かに生きられるようになったのは喜ばしいことのはずなのだがね。俺にはどうも、今見るここからの眺めは好かん。何か大切なものを切り捨ててしまったような、この景色が」
春臣は、恵の顔を見上げた。藍の紋が走るその横顔は、どこか憂いを帯びて見えた。恵は春臣の視線に気が付くと、ゆっくりとした動作で首を振ってわずかに苦笑を浮かべた。
「……すまんな。詮無いことを聞かせてしまった」
「いえ……」
春臣はためらった後、川面に目を戻しつつ続けた。
「……来たばかりの僕には、恵さんの言っていることはまだわかりませんけど……いつか僕にもわかる日が来るでしょうか?」
ふわり、と湿気を含んだ風が水面を撫でて吹く。その拍子に渡し場にいた誰かの帽子があおられて舞い上がった。それを目で追いながら、春臣は言った。それから恵を見上げると、彼はしばらくの間黙って春臣の顔を覗き込んだ後、ふと目を伏せて答えた。
「……それは俺にもわからない。だが、俺個人の意見を言わせてもらうなら、……君にはわからないままでいてほしいものだ」
春臣がこのときの恵の言葉を本当の意味で理解するのは、もっとずっと先の話になる。
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