第拾四話
白墨は、その書物に視線を落としたまま口を開いた。
「───“
その言葉に真っ先に反応したのは、恵だった。彼は片眉を上げると訝しげに言った。
「百鬼集……?そんな書物、聞いたこともないが」
白沢である彼でさえ聞いたことのない書物。一同が白墨を見やると、彼女は真っ直ぐに恵を見て、鼻で笑って一蹴した。
「当たり前だ。この書物のことは、一切伝承には記録されていないからな」
「それは、何故だ?」
「これが、妖の中でも特に悪しきを封じたものだからだ。伝承として後世に名が残れば、この中に封じられている悪しき妖たちに興味を持ってしまう者も必ず出てくる。……だから、いかな白沢でも知らないのは当然だ」
至極冷静に続けざまの質問に答えた白墨は、再び自らの手の中にある書物に視線を落とした。部屋の中に備え付けられた行灯の光が、ぼんやりとそのなめらかな頬に陰影を刻む。
「私は、この書にかけられた封印が破られないように表を護る役を担っていた。外部からも……内側からも」
白墨は、とん、と表紙の片面を叩いた。春臣はきっとそちらが彼女が描かれていた場所で、表紙なのだろうと思った。それから、ふと彼女が過去形で話したことに気がつく。
「担っていた……?」
問い返すと、白墨はうなずいた。
「あぁ、そうだ。今から千年ほど前になるか……ある日、この書の封印が内側から食い破られてしまった。それは、私と対となってこの書の裏を護っていた画龍を打ち倒し、外へ逃げていった」
そのおかげで、百鬼集に封じられていた妖のほとんどが外に放たれる形となった。白墨は長い時間をかけて、時に自らの手で、時に人の手を借りて、百鬼を再び封じてきたのだという。
それはどれほど長く孤独な時間であったのだろう。春臣はふとそんなことを思った。無論、人間である自分には到底理解することなどできないのだろうが。
そんな考えにふけっていた春臣をよそに、白墨はわずかに目を細め、書物を持つ手に力を込めた。
「……その、最初に封印を破った妖こそ、
そう言う声には、かすかな感情の色が見えたが、春臣にはそれが何の感情なのかを推し量ることはできなかった。
彼女はそこで、持っていた百鬼集を、出したときと同じように一瞬で消した。それを見届けたあと、志木が
「……なるほど、禍津神ね……そう言われると、とてもしっくりくる」
うんうんとうなずいた彼は、一本指を立てて彼女に問うた。
「では、納得ついでにもう一つ。何故椿は春臣を狙ったか、わかるかな?」
白墨の答えは早かった。彼女は深く腕を組むと、かぶりを振った。
「私はあくまで書を護る者であって、奴の理解者ではない。だから、その問いに答えることはできない。……ただ、ひとつ考えられるのは、そこの者が未契約だということだろうな」
白墨は、春臣を見た。
「この私を呼び起こせる者は多いわけではない。それほどの力がありながら未だに式を持たないでいるのだから、良いカモも同然というものだ」
「か、カモ……」
春臣は白墨の言葉に顔を引きつらせる。彼女はそんな春臣の表情にも平然と続けた。
「お前、顔を見られたからには、また狙われるぞ。奴はしつこい。今はまだ完全に百鬼集のしがらみがとれたわけではないが、時間の問題だろう」
画龍の容赦ない言葉に、春臣は沈黙してしまった。だが、彼女の言葉はここで終わらなかった。
「何をそんなに気落ちした顔をしている?お前が奴に狙われたのなら、話はむしろ簡単ではないか」
白墨はそこで艶やかに笑ってみせたのだ。そして、驚くべき提案を持ちかけてきた。
「私と契約しろ、小僧」
その言葉には、その場にいた全員が度肝を抜かれざるを得なかった。無論、一番驚いたのが春臣であることは言うまでもないが。
「はい!!?」
春臣は、素っ頓狂な声を上げて思わず立ち上がってしまった。
「な、何を言ってるんですか!?あなたは画龍なんですよ!?」
「それが何だ。お前は式ができ、晴れて絵師と名乗れるようになる。私はお前の式になることで奴と接触できる確率が上がる。悪い話ではないだろうに」
「そ、そういう問題じゃなくて……!」
式が出来ることも、絵師としてようやく一人前を名乗ることが出来るのも、悪いことではない。むしろ喜ばしいことだ。それはずっと自分が願ってきたことだったから。
だが、何も式が画龍であってほしいとは思っていない。そこまで望んでいない。身の丈以上も甚だしい。
「僕は、もっと普通に………!」
普通に、生きたい。普通の絵師として、身の丈に合った生き方をしたいだけなのに。
「普通?普通とは何だ?」
そう続くはずだった春臣の言葉は、無情にも断ち切られた。
白墨は鋭い目で春臣を見上げた。どんな弱さも甘さも見透かすような強く厳しい目線に、春臣は知らず気圧されてしまった。
「小僧。言っておくが、お前が私を呼び覚まし、禍津神に狙われた時点で“普通”ではない。腹をくくれ」
とんでもないが的を射た論理に、一同が沈黙した時だった。
「────ちと待ってはいただけまいかのう、画龍さま」
皆が一斉に声の主を見た。その先にいた老師は、いつも見せる豪放で温かみのある表情とは違う、硬く緊張した顔つきで、白墨を見ていた。
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