百鬼妖画奇譚

懐中時計

第零章

 その屋敷は、訪れる者の無いことで地元ではわりと名の知れた場所だった。

 広大な敷地に茂った草木に埋もれるようにしてあるその本館は、古いながらもしっかりとしたレンガ造り。だが、家人が住み込んでいる様子もなく、あちこちに蔦が絡んで緑の壁と化している部分が多い。

 その曰く付きの洋館を訪ねる者がいたのは、太陽がじりじりと照りつける夏のある日のことだった。

「───………」

 和装に洒落た帽子と革靴を履いたその男性は、大きな鞄を片手に洋館の玄関前に立った。若くはない男だった。

 彼は、鞄を一度地面に降ろすとドアの傍に備え付けてあったドアベルのボタンを押した。ドアの向こう側で、小さくくぐもった音が聞こえた。

 しばらく待っていると、不意に重々しい雰囲気のドアが開いた。中から出てきたのは、書生姿の黒髪の青年だった。丸眼鏡の向こう側から、理知的な藍色の瞳がこちらを見ていた。

 男性は片手で帽子をとると、それを胸に当てて軽く一礼した。

「お久しぶりです、けいさん。お元気そうで」

 恵と呼ばれた青年は、その礼に頷くと一歩退いて彼を迎え入れた。

「……彼が待っている」

「わかりました」

 簡潔な言葉に頷くと、男性は鞄を持って中に入った。


 二階まで吹き抜けたエントランスホール。

 その両側から壁沿いに伸びた階段を上る。こつこつと二人分の靴底が、飴色の床に敷かれた絨毯を叩いて鈍い音を立てた。二人の間に、会話はなかった。

 青年に連れて行かれたのは、屋敷の左翼突き当たり。一枚だけ黒塗りのドアの前で、彼らは足を止めた。

 青年がゆったりとした調子で3回、ノックすると、部屋の中から声が聞こえた。

『入るといい』

「……失礼します」

 中に入ると、まず開け放たれたバルコニーが目に入った。広い部屋を爽やかな風が吹き抜ける。白いカーテンがふわりと風をはらんで膨らんだ。その前に停めた車椅子に、その老人は座っていた。

 ふわりとした雰囲気と同時に、芯の強さも感じさせる人だった。短く整えた髪は年の割に多く、髭はきれいに剃られていた。そのおかげか、実年齢より遥かに若く見えた。

「ご無沙汰しております、結城さん。お体の調子はどうですか?」

 老人───絵師界の巨匠として長く世に知られてきた結城青陽ゆうきせいようは、男性の言葉に苦く笑った。まなじりが下がると、より人好きのする笑顔になる。そういうところは全く変わらないのだな、と彼は思った。

「毎日暑くて敵わないな。君も壮健そうで何よりだよ、橘くん」

「はは、健康だけが取り柄ですから」

 そう笑った男性───橘康次郎たちばなこうじろうは、結城の車椅子の傍に行くと、そっと膝をついた。

「……改めまして、大役をお任せくださって感謝いたします」

 結城は少し寂しそうに笑った。

「いや……このようなじいの話相手に遙々呼んでしまって悪いね」

「いいえ、結城さん」

 橘は首を横に振った。それから、力強い瞳で結城を見た。

「あなた方がどう生きて何を残したかったのか……それを一人でも多くの人に伝えることが、僕の使命だと思うから。だから、僕は来たんです」

 話してくださいませんか、と言った彼に、結城は懐かしいものを見る目を向けた。

「……まるで、ずっと昔の僕たちのような目をするんだね。若く力強い、いい目だ。やはり、君に頼んで正解だったかもしれないな」

 そう言うと、結城はそれまでずっと影のように部屋の隅でそのやりとりを見ていた恵を手招きした。青年は、少しためらいがちにこちらにやってきた。

「きっと僕の記憶ではなにがしかの綻びがあるだろう。間違えていたなら、訂正してくれませんか?恵」

 恵は、しばしの沈黙のあと答えた。

「……わかった」

 結城はそれに小さな笑みを浮かべて、それから目を細めて開け放たれた窓の外を見た。

 いや、その眼差しは、景色を見るというよりもどこか遠い記憶をたどるようなものだったかもしれない。

 橘はその横顔を眺めながら、鞄から紙の束と鉛筆を取り出した。一字一句とて、聞き逃すまいと思っていた。おそらくこれから語られるのは、後にも先にも誰にも聞くことのできない物語だろうから。

「……僕が初めてあの人に会ったのは、ある春の日だった。何でもないと思っていた一日がこんな人生の幕開けになるなんて、あのときは思ってもみなかった」

 


 そして、彼は語り出す。

 ひとつの時代を駆け抜けた、絵師たちの物語を───

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