さよならストレンジャー
相楽山椒
第1話 だけど一点問題はある
高校二年生の秋ほど気だるい期間はない。このところ毎日思っていることだ。
春はどこかうきうきとした気分で過ぎてゆき、そのうちなんとなく忙しげな夏が来る。だけどそれもあっという間に終わって、とたんに秋らしくなる。この次に訪れるのは、ただ寒くて長い冬。
人生だって似たようなものなのかもと思う。春に生まれて冬に死ぬ、そんな感じ。
じゃあ、今の僕は中年くらいだろうか。まあ、そんなことはいいや。とにかく気だるい。たぶん僕が十七年生きてきた中で一番気だるい。
学校の成績は中の中、運動だって鈍臭いってほどじゃない、友達だってそこそこいる。だけど全部なんとなく得てきたものばかりだった。人と話すのが得意かというとそうでもない。けどそんなの誰だってそうじゃないか。
自己評価したら僕とそれほど変わらないマークシートを書く事になるだろう。よく飲食店にあるアンケート用紙、“非常に良い、良い、普通、やや悪い、悪い”に丸をつけるとしても、やはり“普通”を選択する。
ほとんどの人が普通の高校生、普通の大学生、普通の社会人。そういう風になる事を望んで、それを目指している。
周りのクラスメートだってそうだ。顔も体も声もそれぞれ違うけど、僕にはみんな同じに見える。クラスという塊を形成するための要素。空気のようなものだ。
他の人から見れば僕だってそうかもしれない。いや、きっとそうだろう。僕には表立って自慢するようなことは何もない。表彰されたり人気者として持ち上げられたり、リーダーとして先導を切るようなタイプじゃない。派手でもないし、極端に容姿に特徴があるわけでもない。
背も普通、体重も普通、髪の長さも普通、家族構成も父母、妹と僕の普通の四人家族。もはや模範的な高校生の姿と評されてもおかしくはないとさえ感じる。
普通の高校生を自称する人は是非一度考えてみて欲しいとすら思うのだ。普通というのは僕ぐらい平凡でなければ口にするべきじゃない。
日差しはまだ強く、腰掛けた太ももに熱を感じ、時折さすりながら足を組みかえる。放課後、僕は日が暮れるまでの数時間を、大グラウンドに面したコンクリートのひな壇のベンチに腰掛けて読書をするのが日課だった。まあ、日課といっても三週間前から始めたことだけど。
本を読むのは嫌いじゃないけど、本の虫ってほど読んできたわけでもない。ただ、もっとたくさん本を読まなきゃいけないなって――いや、その行為に至るまでには少し人には言いにくい事情が――。
突然僕の下のひな壇に何かがぶつかり、思わず仰け反り本を手から落としてしまう。
「悪い! ごめんごめん!」
そう言ってこちら側に駆けてくるのはサッカー部の部員だ。
あれは、たしか中学の頃同じクラスだった尾崎だ。だが、尾崎は僕を一瞥してもそれ以上声をかけることもなく、ふたたび練習へと戻っていった。一瞬だったから僕が“鴻上”だってことも判らなかったかもしれない。まあ、存在感なさすぎて忘れられたってことはないと思うが。
うちのサッカー部は地区大会でも優勝候補で全国大会には常に王手をかける強豪チームだ。それだけに大グラウンドと呼ばれる学校のメイングラウンドはサッカー部がほとんどを使用している。そんなサッカー部に所属する尾崎はうちのエースだ。有り体に言えばヒーローみたいなものだ。普通じゃないってのはああいうやつの事を言う。才能が有るとも言える。
この才能という如何ともしがたい段差。生まれから違うものがあるなどと、誰もが認めたくはないものだが、正直この歳くらいになると個人の能力差は努力では埋められないのだと痛感する。
あの尾崎の軽い足取りと、しなやかに伸びる四肢から放たれるサッカーボール。僕はその放物線を描く丸い物体を黄昏の中で目を細めて見つめていた。
読みかけていた本は中断されて、再び開いていたページを探すのも億劫になった。
「だるいなぁ」体をのけぞらせひな壇のベンチに寝転ぶ。空の青が茜色に染まりだしている。
差をつけられている、なんて感じるのはこれが初めてじゃない。野球が好きな奴は野球部に入って体は一回り大きく逞しくなった。音楽が好きな奴はギターを始めて小さな地元のライブハウスで彼らなりのコミュニティを作り上げていた。アルバイトに精を出すやつは僕よりも社会のことを知っていたし、免許を取った奴は大きなバイクを転がして聞いたこともない土地へと走りに行って土産話を持ち帰ってきた。
それに、なにより、歴然とした差をつけられたと視覚的に納得させられるのは、彼女が出来た奴だ。表向き誰と誰が付き合っているかなんて判るように向き合いはしないが、それとなく空気はある。放課後の廊下の片隅での逢瀬を目撃して、やはりそうなのか、などと既定事実を確認する。
それを羨ましい、などと感じるのはおこがましいのかもしれない。目に見えて取り柄があるように見えない僕が好かれる理由はない。前出の尾崎にも当然彼女がいる。
英雄色を好む好まざるにかかわらず、英雄には色がついている。どこにいても誰といても輝くような鮮やかな色が。
頬杖をつき、右へ行ったり左へ走ったりするサッカー部の練習風景を見ながら、そんなことを考えていた。この状況に悲観しているわけじゃないし、自分を卑下しているわけでもない。
まあ、今更ながらだけど、僕が通うこの県立高校も中ぐらいの成績で入れる普通科だ。授業もあれば部活もある、制服もあれば校則もある。特別な授業はないし課題もない。
ああ、だけど一点問題はある。
一年生から同じクラスの榊音羽(さかきおとは)のことだ。珍しい名前だからすぐに覚えたものだが、珍しいのは名前だけじゃない。なによりその、見た目がだいたい普通じゃない。
榊音羽の出身校は僕の中学から離れていて、ほとんど県外といってもいいほどの場所で、そこから、わざわざなんてことないこの学校に通う者など他にはいなかったから、彼女は入学当初から常に一人だった。誰も彼女のことは知らないから、なんだか大人しい子だな、とぐらいにしか思わなかった。
そのうちチラホラと、近くの席同士で仲良くなるのはどこでも同じで、僕も例に漏れず、三人か四人のグループを形成した。
だが音羽――みんなこう呼んでいるので――は独りきりだった。
そういう人物がクラスに一人ふたりはいることは別段珍しいことではない。多くは無口だったり、粗暴で自ら輪に加わろうとしなかったり、勉強のことしか頭になくて休み時間になったら塾のテキストを開いてしまう奴とか、まあ、そういう奴は独りになりがちだった。だが音羽はそのどれにも属さなかった。
他に何か問題があるのか? そう思うだろう。そのとおりだ。
彼女は高校の入学式の熱気も落ちついた五月のゴールデンウィーク明け、雨が三日も続いた日のあとだ。彼女は頭髪を染めて登校した。
今時世間じゃ髪の色が茶色いとかオレンジがかっているとか、その程度のことで目くじらを立てることはないとは思うが、うちの学校は、というか学校というところは“頭髪は清潔かつ自然な状態を保つこと”、という文言が校則に記載されている。
じゃあ、ズラはダメなのな、と僕たちは冗談を言い合っていたのだが、自然な状態ってのは難しい話だとも同時に思う。その通りに捉えれば朝起きて何もつけずにそのまま登校するのが自然な状態だ。だけどそんな生徒は一部を除けばいないといっていい。
誰もが色気付く年頃だし、女の子ならばまず一番に気を遣う部分だろう。中にはそのセットに一時間以上もかけるような子もいるわけだ。
もちろんそれが自然な状態じゃないからと、生徒指導室に叩き込まれるなんてことはない。登校時に威嚇的に生徒指導の教師が校門で仁王立ちしているのを見ると、朝から暇な大人もいるものだと思うことはしばしばだが、まあ、あれが彼らの主な仕事なのだ。
そんな生徒指導を仰せつかった厳しい面の教師が、髪を染めた音羽を見てスルーなどあり得なかった。彼女は首根っこを掴まれてそのまま生徒指導室へと連行された。
僕はその様子を一部始終そばで見ていたからよく覚えている。彼女は教師に見つかっても悪びれもせず、言い訳もせず、淡々とした表情で戦線離脱を受諾し、その日一日は授業に顔を出さなかった。
その日の朝の彼女を目撃した僕らはめいめいに勝手な想像を膨らませ、盛り上がったものだ。彼女の髪の色は少し、というかだいぶ茶色だった。茶髪というやつ。でもそれだけだ、赤や青になったわけではない。
高校デビュー、なんて流行らない言葉が飛び交う中、両親が離婚しただとか、そもそも片親で、母親が悪い男と付き合っていて、家に居座っているだとか、穏やかではない推測をする者もいた。
けど普通に考えて今時茶髪なんて珍しくもなんともない。学校の外に出てみれば黒髪のままでいる大人の方が珍しいといっていいだろう。皆何らかの細工を髪に施しているのだ。
そんな時代に学生は学生らしくなどというのは時代錯誤にも程がある。もちろんルールを順守する、という大原則は社会生活においては必要なことだ。だから彼女の行為は間違っていると、この学校という世界の中では問答無用で断罪される。
次の日、彼女は変わりなく登校してきたのだが、周囲の好奇の目は彼女に釘付けだった。
音羽の髪は茶色でも黒でもなく、赤だった。
登校中に誰もが彼女の違和感を感じていたが、同時に校門の前に立つ生徒指導の表情がどう歪むのかを見たい一心で、彼女の後をコソコソと付いて登校していた。
結果は前日と同じ。いささか指導教師は目を丸くしたように見えたが、昨日と同じスタイルで「榊、ちょっと来い」とセーラー服の襟を掴んで校舎の奥へと消えていった。この日も当然音羽は欠席扱いだ。
彼女が生徒指導室でどんな叱咤を受けているのか、どんな言い訳をしているのかはわからない。僕らが知る必要などはないのだろうけど、やはり昨日の今日で茶色から赤に変わればそれは、教師への反抗、校則への挑戦と取られても文句は言えない。
だから僕たちは前日とは打って変わって「なぜなんだろう?」と首をかしげるだけだった。
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