第6話 マレッタ 『そのさきのこと』
「走れ! 走れ!」
教官の気合いが飛ぶ。
教育兵団のシゴキは、半年もここで過ごしているうちに慣れてしまった。
最初は、やたらと走らされてヘトヘトになったけど、自分にこんなに体力がつくとは思ってもみなかった。
厳しい規律とハードでヘビーな訓練。それもなんとかこなせる。
問題は幾何だ。
航宙術の基礎である幾何を理解できなければ、宇宙船は飛ばせない。
兵科の振り分け検査の試験で、幾何ができないと、たいてい海兵隊に送られてしまう。
生身の身体を張って銃弾をくぐらなければならない地獄の海兵隊は、命を落とす確率が桁違いに高い。
それに比べて、船を動かす水兵はずいぶん楽だろうと誰もが思っていた。
水兵になれば、やたらと走らされたりすることもないらしい。
だからみんな必死で幾何の勉強をする。
運動場を走らされているときに、幾何の心配をしているのは僕だけじゃない。
たぶん、クラスのほとんどがそうだと思う。
幾何の成績次第で自分の運命が決まるのだ。当然だろう。
午後の課業が全部終わり、夕食までの短い自由時間。
いつも僕はこの時間を10人部屋の寝台の上で、幾何の予習することに当ててる。
ところが、今日はちょっとヘマをした。
ジムの運動器具を片づけるとき、器具の角で指を切ったのだ。
診療室で軍医さんに見せると、「消毒だけにしといたほうが治りが早い」と言われ、軽く薬をシュっと吹きかけられ、追い出されてしまった。
兵営に帰る途中、辺りはすっかりひとけが無かった。おそらくみんな部屋に戻って必死に勉強しているのだろう。
と、マレッタが独り、ベンチに座って熱心に本を読んでいた。
僕が通りかかっても全然気がつかない。本に集中しているようだ。
マレッタは小さい頃からの友達で、学校に上がって以来のつきあいだ。
あいつも勉強しているんだろうか。
いや、のんびり屋で要領が悪く、いつもどこかマのヌケたマレッタが勉強しているなんて珍しい。
声をかけるとマレッタはめざとく僕の指の怪我を見つけた。
「ショーヤ、どうしたのそれ!? 血が出てる!」
気のいいマレッタは、立ち上がると、大げさなくらい、でも心から心配そうに近寄ってきた。
「ちょっと切っちゃったんだ。消毒薬塗ったから大丈夫」
「うわー、死んじゃうよ!」
死なないって。
「かして!」
そう言うとマレッタは僕の手をとり、指に「パクっ」と吸いついた。喰われそうな勢いだった。
「わあ! なにすんだよ」
マレッタの唇から指を引き抜くと「ぽん」と音がした。すごく強く吸われていた。
「だって、吸い出さないと…」
それは毒蛇に噛まれたときだろ。
「……う、ぺえっ! ぺっぺっ! からーい! なにコレ!? 変な味!」
マレッタは舌を出して涙目になって抗議する。
「……だから薬塗ったって言ったじゃないか」
「これって、あたしを陥れるワナ?!」
「………」
マレッタは人の話を聞かない奴だ。
こいつは昔からボンヤリしていてすっとんきょうで、あんまり勉強の成績はよくなかった。
まあ、それはご愛敬。とても気の良い奴だから。
いじめられたりもしたけど、鈍いのか、いつも明るくケロっとしていた。
でもさすがに、マレッタの髪にガムをつけられたときは、僕もガラにもなく怒って、ガムをつけた奴に殴りかかったっけ。
慣れないことはするものじゃない。僕はこてんぱんにやられてしまい、いつのまにか逆にマレッタが「ショーヤをいじめるな」って相手を投げ飛ばしていた。
マレッタは元ちびっこ相撲の横綱なのだ。
小さい頃の僕とマレッタは、かばったりかばわれたりの仲だったけど、兵隊に取られて教育兵団に入って以来、そうもいかない。
兵隊は、それぞれが均質じゃなくちゃいけない。助けが必要な兵隊はゆるされない。
だから、僕はマレッタを励ますくらいしかできなくなった。
「がんばれよ」「ちゃんとしろよ」
僕がこれを言うときは半ば呆れのニュアンスも含まれる場合が多い。
マレッタがちゃんとしてないとき、無駄と思いながら諦め半分に注意する場面で言う頻度が高いからだ。
そしてマレッタは、必ず、
「うん、がんばる」
と、心ない調子で大きくうなずくのだ。返事はいいが、まったくがんばる気配がない。
「マレッタ、勉強してたの?」
「うん」
「いま、俺、コンピュータ概論の液体コンピュータの仕組みでつまずいちゃってさ」
「液体コンピュータって?」
ポカンとしてマレッタが聞き返す。
「習っただろ? 量子コンピュータとか」
そう言ってから、マレッタはやっぱりまともに課業を受けてないのだと思った。
「りょうしコンピュータ……?」
ほら。
「わかんないのか」
「し、知ってるよ! 漁師って、魚とる人!」
やっぱりね。
しかたなく僕は「量子コンピュータ」とノートに書いて見せた。
「なんだ。魚のいどころがパパッとわかっちゃうのかと思った。そしたらすげえのにね?」
すげえのにね? じゃないだろ。
そう言えば、マレッタは「光子機雷」のことを、ずっと「子牛嫌い」だと思っていたんだっけ。
ふと、マレッタが読んでいた本の表紙を見た。それは教本や繰典の類ではなく、
『バッティングの極意』
という本だった。
「……勉強してたんじゃないの?」
「うん。してましたよ」
そういうと、マレッタは傍らに立てかけてあったバットを握って立ち上がった。
「あたし、将来ヤキュー選手になろうかな、って思ってんの」
はあ、そうですか。と、あきれるほかない。
なんという呑気な奴。
「スイングの神髄はカカトの内側にあるんですよ」
ぶいーん!
マレッタはきれいなスイングを見せた。
「……そんなことより、幾何の勉強はいいの? 検査でダメだったら海兵隊行きだよ」
「え、でもね、兵役が終わって帰ってきたらヤキュー選手になるから、今からヤキューの勉強もしておかなくっちゃ」
屈託のない笑顔でマレッタは、そしてこう言った。
「ねえ、ショーヤは将来、何になりたいんですか?」
「え……?」
僕にとって不意をつく問いかけだった。
将来のこと。
マレッタはまたバットを振った。
「あーあ、こうして兵隊にとられなければ、あたし、ずっとヤキューや相撲をやってられたのになあ。あ、あとねケーキ屋さんにもなりたい!」
兵隊にとられなければ……?
普通、そんな発想はない。
父さんも、母さんも、おじいさんも、みんな戦争に行って帰ってきた。
戦死した、顔も知らない叔父さんたちや親戚も多い。
二重帝国のほかの邦がどうかは知らない。
けど、よっぽどのことがなければ、カルーチ王国の大人たちは男も女もみんな一度は軍隊に入ったことがある。
父さんは今も兵器工場で働いているし、僕らの生まれて育った町は、その工業団地を中心に栄えている。
生まれたときから周りは戦争をしているし、学校を卒業すれば兵隊にとられるのは、お昼になればお腹が空くのと同じくらい当たり前のことだ。
小さいときから、兵役を終えたその先のことは考えたことがなかった。
考えられなかった。
だって、戦争に行って帰ってこられる保証なんて、ないんだから。
マレッタは、やっぱりすっとんきょうだ。
ヤキューの選手だなんて、どこまで本気で考えているかわからない。
だいたいマレッタは小さいときから、思いつきや何かに影響されてすぐに気が変わる。
ヤキューの漫画を読めばヤキューの選手になりたくなるんだろうし、おいしいケーキを食べればケーキ屋になりたくなる、そういう奴だ。
でも、マレッタはマレッタなりに「将来」なんて考えている。
それがちょっと意外で、なんだか自分のほうが子どもみたいな気もした。
マレッタはバットをクルクルとバトンのように回しながら言った。
「あたし、兵隊になった自分はよくわかんないけど、ときどき、将来、自分がどんな風になっているかってイメージを色々と空想してみるんだ」
……ふーん。
なんとなく悔しくて、咳払いをした。
「あ、あのな、将来のこともいいけど、その前に兵科振り分け検査があるんだから、幾何の勉強もがんばれよ」
「うん、がんばる」
まったくやる気を感じない、いつものいい返事。
心配してやるだけの甲斐がない。
バットを引きつけて構えるマレッタ。
ぶいーん!
「かきーん」
打球の音は自分で言ったけど、本当にマレッタはきれいなスイングをする。
その見えない打球はグングン伸びて、大アーチを描き、はるか彼方のスタンドを越えた。
マレッタは振り返ってニマっと笑った。
「あたしのイメージはね、逆転満塁サヨナラ場外ホームラン!」
それは確かに、僕にも見えた。
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